午後三時からの降水確率は八十パーセントだった。出かける仕度をして階下に降りると母親がバタバタと洗濯物をしまいこんでいる。コンクリートに雨の落ちる音が絶え間なく居間に響いた。宍戸は、先日それまで使っていたビニル傘を駄目にしたことを思い出し、傘立ての中から兄のものだろう紺の骨の一本折れた傘を引き出した。これがここにあるということは兄は職場に傘を持っていっていないということだが、知ったことではなかった。靴紐を結んでいると背中に母親の声がぶつかる。夕食は?それまでには帰ってくる。判った、いってらっしゃい。玄関先で傘を開いた。ボンと音をたてて傘は二本目の骨を折った。
バス停に向かう道すがら、宍戸を学生服の中学生が何人か追い抜いていく。みな頭を丸刈りにし、揃いのスポーツバッグを膨らませていた。よれた学生服はそれでも健気に肩の水滴を弾いていた。彼らとは同じバス停でまた肩を並べ、同じバスに乗り込んだ。彼らがバスの最後尾の席に揃って座るのを見届け、宍戸は真ん中辺りの席に腰をおろした。鞄の中からイヤフォンを取り出し、電源と再生ボタンを入れた。
先週、跡部からメールが届いた。中学時代から携帯電話のアドレスも番号も変更していなかったのは宍戸だけであったらしい。合法に酒を飲める歳になったのだから、一度集まって飲まないかという誘いだった。提案のあった日付はサークルの追いコンと重っているので残念だが、という言葉に今でも時折親交のある芥川の連絡先を添えた。三日後、それじゃあまた今度な、と返事があった。また、とはいつになるだろうと宍戸は液晶画面を見て最初に思った。
一浪して大学に入学した宍戸は今年、就職活動を控えている。なにかあったときのために教職課程を履修していた。しかし職場にこだわりを持たない性質であったので、どこかうまい具合に入り込めればとたかをくくっている。そんなにうまい話があるものかと一方では警鐘が鳴った。……跡部は、おそらく父親の証券会社に就職が決まっているのだろうと思う。
あの頃、あの学校は跡部の家からの莫大な寄付金で成り立っていた。跡部の所属するテニス部も勿論その恩恵に与っていたが、しかしその寄付は跡部家の一人息子の学習・部活動環境をよくするためというよりは、顕示欲のために行われていたのだろうと宍戸は思う。
目の先で窓には銀色の線が幾筋も走った。行く手のバス停には人影があり、空気の抜ける音とともに扉が開く。宍戸は席を立った。乗り込んできた老人が宍戸が先ほどまで暖めていた座席に腰を落ち着けた。気がつかなかったが、いつの間にか後部席の中学生達は姿を消していた。かわりに、穏やかな寝顔を晒した子供とその母親が座っている。
跡部は一年の夏大の前にレギュラー入りを果たしてから、以後ずっと部活後のランニングと壁打ちを欠かしたことがなかった。そのあとに塾が控えていることを周囲から聞いて宍戸は知っていたので、なぜそんなに練習するんだという意味合いのことを跡部に投げかけたことがあった。そのときはいまだ二言三言言葉を交わす程度の仲だったので、意味ありげな笑みとともに回答は先送りにされた。あれから十年近く経った今、それから回答を引きずりだせたのかそれとも無視されたのかを宍戸はもう思い出せない。ただ漠然と、跡部はテニスが好きなのだろうという曖昧な回答で蓋をされたままであった。しかし宍戸にはおそらくそれが正しいという確信めいたものがあった。無愛想で笑みといえば口元を軽く吊り上げる程度のものしか見せなかった跡部が、一心不乱に打ち込む姿を見て幼いながらも宍戸は胸を打たれたのだろう。今では、そう思う。
グリップ巻きなおしてやろうか。唐突に浮かびあがった跡部の声が、イヤフォンの音楽をかき消した。驚いて周囲を見渡すが乗客はいまや宍戸と、先ほど乗り込んできた老人と中年女性だけになっていた。
グリップ巻きなおしてやろうか。だらりとはがれたグリップのまま、壁打ちを続ける宍戸に向かって跡部が吐いた言葉だった。宍戸はそれが自分に向けられているものだとは到底信じられず、ランニングを終えたばかりで息のあがっている跡部をじっと見つめた。言葉は出なかった。跡部を追うようにして宍戸が部活後の自主練を始めて二週間が経っていた。気恥ずかしさとともに、生来の性質が出て、なにも言えず宍戸は自分のテニスシューズの爪先に目を落とした。いいから貸せよ、そんなんで練習したって駄目だぜ。近づいてきた跡部にラケットを奪い取られ、宍戸はようやくあッと声をあげた。もうそのときには跡部は宍戸に背を向け、クラブハウスに向かっている最中だった。走り寄り、その背中に返せ、自分でやると言っても跡部は頑として聞かず、宍戸は跡部の手が器用にグリップを巻きなおしていくのをじっと見ていくしかなかった。修繕の終わったラケットを宍戸に返すそのとき、跡部は、メニューまで俺と一緒かよ、ちょっとは自分で考えろよ、と告げた。
昨日、芥川から何ヶ月ぶりかのメールがきた。跡部からメールがあったよ。飲まねー?って言ってきたからちょっと行ってくるわ。忍足と岳人にはなんとか連絡ついたし。……宍戸はまだ返事をしていない。
降りるバス停が近づいてきている。跡部の指定してきた日は午後三時から降水確率八十パーセントだ。宍戸はボタンを押し、財布の中のカードを確かめた。バスが止まる。空気の抜ける音がする。宍戸はバスのタラップを軽いステップで降りる。傘を開く。ボン、と音がしたが骨は無事だった。雨音と雑音が邪魔をするので宍戸は音量を一つだけ上げた。
あの頃彼の全てだったもの(060402)