線路は北から南に抜ける。一時を過ぎたホームに人影はまばらである。陽は遮られ直射日光は当たらない。十月初め、そろそろ空気が冷える時節になった。鳳は何度目か、電光掲示板を見上げ、発車時刻を確認する。隣の時計と見比べ、その差が後三分もないことにそっと息を吐いた。平日のこの時刻は列車がとみに少ない。鳳がホームに立って既に五分が経った。
 二学期、中間テストの一日目であった。文系教科を一日目に終え、二日目は英語と理系教科が揃った。ほとんどの生徒はテストが終わるやいなや自宅に帰るか、校門を占める時刻が来るまで図書室で自習している。鳳は数学の問題を数問、英語の訳を数箇所教員に尋ねていたらこの中途半端な時間になってしまった。帰宅時間には路を埋め尽くすほどの生徒の姿は今はもうない。鳳は一人で駅までの路を辿った。
 やがてシグナルがけたたまいい音をたて始める。駅左方にある踏切がバーをゆっくりと下ろし始めた。目を凝らせば列車の姿が視界を掠る。荷物を持ち直し鳳は乗り場に足を進める。音をたてて滑り込んできた列車内にも客の影はまばらであった。座席に一人、もしくは誰も坐っていないかだ。鳳は座席の端に腰を据え、荷物を膝のうえに抱え上げて背を丸めた。坐れる時は眠るに限る。
 発車ベルが鳴り響き、次いで扉の閉まる音がする。その僅かな時間にばたばたと誰かが走りこんでくる音がし、鳳は薄らと目を開けた。伏せた目に同じ制服のズボンと、革靴が映り込む。鳳はそれだけ確認して目を閉じた。瞼をそれ以上開ける気にはならなかった。列車の単調なリズムは睡眠を促す。鳳は列車内では眠る性質であった。
 と、額をはたかれ、鳳は薄目を上げて頸を傾ける。ぼんやりと人影を捉え、鳳は瞬きを何度かした。
「無視すんじゃねえよ」
 その声で鳳の聴神経が活性化する。してませんよ、と鳳はぼそりと言い、目を擦って再度宍戸を見上げた。宍戸は、その鳳の醜態に歯を見せて笑った。吊革を掴んでいた手は足元にある荷物をすくい上げる。宍戸は鳳の隣に坐った。
「先輩は?」
「ん」
「なんでこんな中途半端な時間に?」
 ああ、と宍戸は応じ、鞄を膝のうえに抱え上げる。筆記具が金属を叩く甲高い音がした。
「ちょっと、訊いておきたいことがあって」
「そうすか」
 お前は、と宍戸が訊くので、鳳は素直に、数学と英語の質問に行ったらこんな時間になってしまったのだと答えた。テスト終了時刻は十二時過ぎである。
 それきり会話は途切れた。宍戸の降りる駅は鳳のそれより二駅手前であるが、それでも二十数分は列車に揺れないといけない。人もそうそういない列車内の空気はいやに希薄だ。鳳は咳を一つした。そして、宍戸は今思いついたように突然口を開いた。
「お前さ、俺がウチの高校進まないかもしれないって言ったらどうする」
 数秒、鳳は宍戸の言っていることの意味が判らず呆けた。漸く意図を解したのは列車が蛇行し、強く陽がさしてきた時であった。
「進まないんですか」
「例え話だよ」
「……どうも、しませんけど」
 だよな、と言って宍戸は僅か口元を緩める。眉尻は下がっていた。しかし言ったことと裏腹に鳳の心臓は高い音をたてている。鎮まれと念じ鳳は目を閉じる。陽がさすので瞼は赤に染まった。
「やっぱり、いるんですか、そういう人って」
 宍戸は少し考える風だ。僅かな沈黙があった。
「そりゃ、ついていけない奴もいるだろうし」
 私立の中高一貫教育は大学進学率を上げるためにある。公立学校では第二、第四の土曜は休日となっているが、この学校ではそれを実践してはいない。加えて、公立学校のように三年生になって受験勉強をする必要はないから、授業は中学のうちに高校レベルにまで進む。高校では早い時期に三年で行うカリキュラムを終え、大学受験のための演習を行った。そのスピードについていけない人間が全くいないとは言えない。
「先輩は、ついていってるんスか」
 と笑みを交えて言うと、宍戸は鳳の額を、先と同じように、はたいた。
 列車は駅に滑り込む。鳳と宍戸の坐る車両に乗る客はいなかった。一定時間ドアは開け放たれ空気が入れ替わる。降りる人間も乗る人間もおらず、ドアは音をたてて閉まった。その間、何故か両者とも口を噤んだ。
 列車が再び動き出し、一分程経った頃、鳳は口を開いた。先輩、と呼ぼうとした。しかしその語尾に宍戸の声が被さった。遮る口調であった。
「お前、***の新譜もう聴いた?」
 遮られた鳳はいったん口を閉じ、そしてなかったことにして再度口を開く。否、とした。宍戸は鞄の中からMDウォークマンを取り出している。ケースから一枚を引き出しセットした。イヤホンの片方を鳳に放る。鳳が耳につけたのを確認して宍戸は再生ボタンを押した。電子音の後、ギターとベースの音が鼓膜を揺らす。多重にも聞こえる声は俄かに眠気を誘った。しかし鳳は目を開け、窓の外に視点を固定する。
「先輩」
「ん」
「俺、先輩が」
 唾を飲み込む音がいやに鮮明に聞こえ、鳳は静かに静かに息を吐き出す。
「先輩が」
「ん」
「違う高校に行っても、俺は」
「……うん」
 宍戸の声はしっかりとしていた。耳に直接送られる音楽と列車のリズムでは鳳の声を打ち消せ得ない。瞼は僅か震えた。列車は進む方向を変え、もう陽は車内にささない。そこにもう赤はなかった。
 オートリピートで繰り返される音楽はやがて列車のリズムと同調した。心臓のそれもまた同調しているような気がし、しかし鳳にはそれが平常より速いのか遅いのかもう判らなくなっていた。鳳は息を吐き、手を彷徨わせた。座席に置かれた宍戸の手が小指に触れる。宍戸の手が僅か震えた。鳳はそれを握ることができないまま、小指だけをそれに沿わせた。心臓はそれだけで鼓動を速めた。
 宍戸の降りる駅までもう五分もない。折りしも曲は最初のギター音を奏で始めた。音が途切れる頃には列車は宍戸の降りる駅に滑り込んでいるだろう。それまで、それまで、と鳳は唇を震わせた。宍戸は何も言わない。鳳の手に合わせることもしない代わりに、はねのけることもしなかった。漸く、鳳は許しを得た気がして目を閉じる。列車は俄かに軋んだ。角度を変えた所為で鋭くはないものの、淡く陽がさした。薄らと鳳は目を開け、宍戸の手が少しも動いていない様を見た。ありがとうございます、と鳳は小さく言った。言い終わった直後、宍戸の頭が鳳の肩に落ち、寝息を肩に感じた。少し、泣きそうになった。

四分半だけ(spring, 2003)