上空の大気は荒れていた。灰鼠の空に黒い雲が、それこそ視界に毎秒何十センチかの速さで過ぎ去る。それ以外は信じられないほど静かだった。虫の音すら。しかし耳の奥に低く羽音を聴き、亜久津は、部屋の角に向けていた視線を外に投げかけた。上空と違い地上の空気は停滞している。窓を開けても煙はその際でゆらゆらと揺れるばかりであった。人差し指と中指に、皮膚の焼けるじりじりとした熱さを感じ取り、亜久津はサッシュに置いた灰皿に煙草をもみ潰す。
 羽音は続いている。外から聞こえてくるのかそれとも部屋の中からなのか。一瞬、中耳に足の小指の爪ほどの羽虫が潜んでいる様を想像し、ぞっとした。
「どうかした?」
 南の問いに頸を振る。質問もその返答も会話も全て拒否したのに、南はああ、と一人で納得するように声を上げた。
「網戸を閉めろよ」
 南は右手を人差し指で中空を追う。その先に、無軌道に飛び回る羽虫を、見る。その虫の羽音と、耳奥のその音が重なっていよいよ頭痛がした。
「全開だから」
 しかし網戸をかいくぐって侵入してくる虫などざらだ。亜久津は、灰皿を持って窓と対面する壁に移動する。南が立ち上がり、網戸を閉めた。振り返ってみる窓はスクリーンがかかってぼんやりとしている。しかし雲の動きははっきりとしていた。いまだ上空は風が強い。
「亜久津」
「……なに?」
「あ、いや」
 振り返った亜久津に南は顔を伏せる。唇を噛んでいる様子に、亜久津は目を細めた。
「なに」
 だから、と南が口調を少し強くした。亜久津は窓の外を見る。雲の流れは速い。ふと思い立って亜久津は両手で耳を塞いでみた。しかし羽音は止まず、血液に流れる低い音の上に浮き上がるようにして感覚を刺激する。
「もう、十二時過ぎたから」
 両手を外した。だからなんだ、と亜久津は思う。
「も」
 もう帰れよ、と南が言った。亜久津は鼻を鳴らし煙草をくわえた。火をつける時の、葉が燃える音が羽音と重なった。
 頭痛がする。
 立ち上がった亜久津の向こう、南があ、と声を洩らした。その時にはもう遅かった。とうとう南の指が亜久津の肘にかかった。
「……鬱陶しくないか」
 え、と南が言った。
「虫」
 目を瞑って視覚情報を遮ると、いよいよ聴覚は鋭敏だ。低く高く、多層にもなって鼓膜を震わせた。中耳に、虫が潜んでいる。もう一度そのイメージを思い浮かべ、亜久津は舌を噛んだ。その時、音が、止んだ。
 耳を覆ったのは南の掌だ。後には血液の音ばかりが残った。

アフリカの夜(summer, 2003)