教室に入るなり、一ヶ月と少し前まで使っていた机に亜久津が座っているのを確認し、南はゆっくりとまばたきをした。始業前の教室は騒がしいが、南が一日多くすごした夏休みの気配はかけらすら残っておらず、そこはとうに二学期を迎えていた。度の越えた日焼けをからかう声や、宿題がまだ終わっていないという愚痴も、南が期待していたものは既にそこにはなく、一人儀式を終えられなかったという中途半端な心持ちで南は出入り口に呆然とした。途端に、未だに半袖の腕がなまなましく日に焼け皮がむけかかっているのが恥ずかしく思え右腕をさすった。
 やがてクラスメイトが南のその様子に気づき、心得たという顔で席替えしたんだよ、と告げた。見りゃわかるよと毒づきそうになるのを抑え、当たり障りのない笑顔でそれに応じた。彼はもう役目は終わったとばかりに友人とのおしゃべりに戻り、南は委員長に自分の席はどこかと尋ねなければならなくなった。たった一日休んだだけなのに、それが九月一日というだけでこうも居心地が悪くなるものなのかと思いながら、南は机の間の狭いスペースを通り、教室の中心で話しこんでいる委員長のところへ向かった。その途中で、もとは自分の席だった机の前を通り、突っ伏している亜久津の肘をぶつけた。不機嫌な顔をあげた亜久津は、南を見るなりその眉をますますしかめ、まるで顔をあげたのを悔いるような表情を一瞬見せた。南の方が先に顔をそらした。また突っ伏したとわかる衣擦れの音がした。

 夏の気配は九月に入ると途端に薄れていくくせに太陽はまだ高度の高いままつむじを焼いた。乾いた風にまきあげられたグラウンドの砂が窓ガラスをたたき、一層それを曇らせた。
 九月なかばになって南は体調を崩し、喉を鳴らしてばかりいる。兆候は以前からあったのだが、すぐに治るものと決めこんで放っておいたらある日突然声がかれた。喉を痛めたようで固形物がそこを通らず、冷たいものや熱すぎるものを飲み込むときには激痛が走った。慌てて病院にかけこみ点滴を打ってもらい、薬を処方してもらった。いくぶんかやわらいだものの痛みは残った。完治するのは九月終わりごろだろうと言われた。自然、食事は細くなった。
 慣れない真ん中の席はその分だけ南にストレスを強いた。教員の目になにがあっても晒されるこのあたりの席は敬遠されがちだ。席替えの日に休むとこういう席に回されることが多々ある。このあたりの席を好むのはテストの点数でいつも上位にいるような人間ばかりだ。隣の席の人間とも話が合わず途方に暮れた。
 前の南の席はといえば廊下側の後ろから二番目の席で、横書きに板書をするほとんどの授業で教員の死角に入った。朝連で疲れた体を休めるには最適だった。そこには今は亜久津が座っている。
 風邪をひいたのかと最初の頃は心配していたクラスメイトもこの頃はなにも言わなくなった。昼休みになると決まって南は憂鬱だ。固形物が喉を通らないため、流動食を一分で胃に流し込み薬をほおばる日が続いた。四時限目が終わるなり鞄の中からコンビニの袋を取り出し教室を出る。廊下を小走りで通り抜け屋上へ続く階段に座ってその一分をやり過ごした。教室に帰るのは昼休みの終わる五分前だ。それならば誰とも話さずに済む。やりきれないのは、廊下を走るたびに隣のクラスの千石の視線が背中に痛いことだ。馬鹿じゃねえのそんなの気にするのはお前だけだっつーのと言われているようでますます喉が痛む。
 屋上へと続く階段は普段は封鎖されている。そのロープを踏み越える。既に南の座るところは決まっているのでそこだけ埃がはけていて、ベージュ色のリノリュウムが裸になっている。屋上へでる扉にはめ込まれたすりガラスからざらざらとした光が落ちてきており、舞い上がる埃を白く光らせている。ここに来るたび南は、むしろ喉に悪いことをしていると強く感じるが、しかし九月に入って中途半端にクラスから疎外された自分の居場所をここにしか見出せなかった。一分の食事を終え、薬の入っていたくずや流動食の入っていたパックやコンビニのビニル袋を、躊躇せず階段の最上段へと投げ捨てた。とうにゴミが山になっているに違いない。それだけの時間を南はここで過ごしている。
 食べ終わったら南は目をつぶる。腕を組み側頭部を壁に押しつけて、階段下から響いてくる喧騒をあまり脳みそに入れないようにしながら、南は昼休みが終わるまで殻の中でじっとしている。この頃はどうやってあの席を取り戻そうかと、そればかりを考えている。

沼の下の九月(050716)