西の陽が向こうのビルの境界線を赤く染めた頃、南の前の席の生徒が西陽を気にしてカーテンをさっと引いた。煤けたクリーム色のカーテンは、南のちょうど鼻先でその端を閃かせ、埃のにおいを撒き散らした。南は少しだけ眉を寄せる。するとちょうど振りむいた教員にその表情を見られ、教員は不機嫌そうな顔でこつこつとペンでホワイトボードを叩いた。なにごとかと、それまで問題を解いていたホワイトボードの真正面の席に座る生徒が顔をあげ、それが自分に向けられたものではないことを悟るとさっと顔を伏せてまたシャープペンをノートに走らせ始めた。その教員はそれからたっぷり五分ほど考える時間を生徒に与えると、わざとらしく南に問題の解法を求めた。しかし目の先で閃くカーテンの薄暗い影と赤い光がノートにちらついてまったく南は集中できずにいたので、うわごとのようにええと、とお茶を濁すことしかできなかった。教員は憂さを晴らしたような、すっきりとした顔で南の前の席の生徒を指名した。その生徒は席を立つ瞬間南を振り向いて少しだけ舌を打った。今日はまったくいいことがない。だいたい、塾の授業で生徒を指名して答えさせるというのが気に食わない。この数学の教員は塾内でもすこぶる評判は悪かったが、開講時間の関係で南がとれる数学の授業はこのコマしかなかった。
ガタガタと音をたてて椅子に座り、ノートに目を向けると、書いては消し書いては消しを繰り返したノートの真ん中の部分が黒く汚れている。南は筆箱の横に転がった消しゴムでその汚れを取り除こうとした。しかし一度紙の繊維に擦りこまれた黒い影はなんど力を入れても消えることはなく、無様にノートに染みを作った。南は、その部分を避けて数式を書いていった。なんとも不細工な感じだった。
嫌になってシャープペンを放り出しカーテンの向こうを見ると、今にも赤い陽がビルの向こうに消えていくところで白い家の壁がオレンジ色に、雲の東側の部分は薄く紫に染まった。その光景に目を細め、机に顎をつくと、ふと目に入った家の屋根の具合がどこかで見たような感じだったので南はじっと目を凝らした。頭の中でかしゃかしゃと音をたてて切り替わっていくさまざまな写真の中に、その屋根を見つけ出そうと躍起になって南はいよいよ窓の外に顎を突き出した。すると今にビルの向こうに消えていく陽の、最後の残り火が南の鼻先を、目を焼いた。さかんに瞬きをしながら南は写真の中からおそらく同じものだろう屋根の物を探しだすと、ああ、と声をあげた。そのとき、机の間を巡回していた教員が、今度は南の机の端を参考書でこつこつと叩き、南は大慌てでシャープペンを右手に取る。そのとき、とうとう陽が沈んだため、ノートが一気に教室の照明で白く光り、いよいよ黒い染みが目立つようになった。
授業を終え、教室を駆け足で出た南は、入塾するときに貰ったチラシに書かれたとおりに自宅からの路をたどっていたので気づかなかったのだと思い、教室の窓から見えたあの屋根の方向に足を速めた。街灯と家の照明に照らされた、細い路から見上げる屋根の様子は勿論雑居ビルの三階の教室から見る様子とはまったく違っていたが、方向を信じて足を進めていると、急に頭の中が開けたようで足が軽くなった。街灯に照らされた右手の角の電信柱の様子や、家の照明に照らされて影を浮かび上がらせている松の枝の様子には見覚えがある。南が今歩いている路のあと少しのところにある角を曲がれば目的の屋根が見えるはずだった。
しかし、とうとう角を曲がるというそのとき、背後からなにしてるんだお前、という低い声を聞いて南はわっと肩を躍らせた。振り向いたその先に、街灯に白い髪を光らせて亜久津が立っていたので、南は亜久津が次の言葉をつぐ前にその場を逃げ出した。その屋根がある方向とは反対方向に四辻を全速力で走りぬけ、ようやく息をついて後ろを振り向いたのだが、街灯の少ないその辺りからはあの屋根の様子は確かめられるはずもなく、薄い灰色の空の下にひっそりと住宅街の家の影が落ちているだけだった。
ナトリウムランプと徘徊(050724)