耳の奥にワンワンと響く音になにごとかと鳳は薄く目をあけた。薄い色の天井に電灯からさがったひもがゆっくりと風に揺れ、鳳は窓が開いていることを知った。頬の先に触れるか触れないかの感触で暖かいものを感じ、首を少し右に動かすと、黒い指が軽く曲げられた形で鼻先に揺れた。上半身を起こし、腹の上にかけられたタオルケットをのけて立ち上がった。窓の外はもう陽が昇っている。
「長太郎」
 びくりとして振り返ると宍戸が目をぱちりと開けて天井を見上げており、息をのんだ。その間、宍戸はまばたき一つせず、鳳は空恐ろしい気持ちでTシャツの腹の部分をつかんだ。
「暑いな」
 一言置いて宍戸は足を覆っていたタオルケットをベッドの端に蹴り寄せた。起き上がった背中のTシャツは背筋がくっきりとわかる形で色を変えていた。額の生え際の辺りを手の甲で拭った宍戸は窓のあたりに突っ立ち返事すらせぬ鳳に目をやり、その呆けている様子に一つ舌打ちをした。
「三十度あんじゃねえの」
 床に足をつけ、散らばっている服の中からTシャツを一枚拾いあげる。むき出しの上半身は白と黒にきれいに染め分けられた。別の服の山からTシャツをもう一枚拾いあげ、目の前に広げたかと思うとそれを鳳に放った。胸の辺りで受けとめたそれに無言で着替えると、行くぞ、と宍戸が言った。
 ドアを開けると朝食の匂いが階上にまでただよってきており、鳳の鼻先に揺れた。すでに階段を降りた宍戸は、キッチンへと続くドアに顔を突っ込みなにごとか叫ぶと、階段の上の鳳に顎を振った。玄関でサンダルを突っかける宍戸にどこへ行くんですかと問うと、いいからついてこいと不機嫌な顔で寄越してくる。鳳は足を速めて宍戸と同じようにキッチンのドアの向こうへおはようございます、行ってきますと叫んだ。いってらっしゃいという声と同時に魚の焼ける匂いがした。
 早朝、すでに太陽は東の空の低いところに白く光っている。雲は少ないがうす青い空に点点と斑を落とした。耳奥でワンワンと蝉が鳴っており、鳳はTシャツの袖で額の汗を拭った。肌にはじきに汗の膜ができ、べたべたと張りついた。
 前を走る宍戸は一言も言わず、鳳はただその背を追いかけるしかない。一回も振り返らないので、鳳がいることを忘れているのではとさえ思い鳳は少しだけ足音を高くした。サンダルが地面を蹴りあげるたびに響く間の抜けた音が途端にアスファルトからたちのぼり、鳳は吃驚して足音を小さくした。やはり宍戸は振り返らない。このまま鳳が宍戸の背を追わなくなってもさして頓着しないに違いないとうだる頭で考えた。
 住宅街から広い道路を一本横断し、また住居の押し詰まった辺りを宍戸と鳳は駆ける。太陽は後ろから鳳のうなじを焼いた。駆け抜ける間に朝食の匂い、新聞を郵便受けから抜き取る音、朝顔の紫、犬の吠える声を置き去りにした。かっことしたイメージは瞬く間に流体として流れ鳳のなかにはただ夏の朝という漠然としたものしか残らなかった。
 やがてスピードを緩めた宍戸の背の向こうに灰色の校舎が現れる。宍戸は正門を避けぐるりと緑のフェンスに沿って走り、杉の木が立っている前のフェンスに足をかけた。鳳がその様子をただ見ていると、宍戸は一つ舌を打ってはやくしろと急かす。すでにフェンスの向こう側に降り立った宍戸は辺りを見回しながら鳳がフェンスから飛び降りるのを待った。
 ここはどこかという問う声は自然と小さいものになった。不法侵入であるのに間違いはない。宍戸は声をひそませ俺の母校と呟いた。宍戸の足は音をたてないが足取りはしっかりとしている。途中、校舎裏に放置してある机を持ち上げると顎で鳳に方向を示した。校舎の隣にモルタルの四角い建物が現れる。宍戸は机を地面におろすと足場を作り、乗りあがってその上のフェンスに手を掛けた。素晴らしい筋肉の緊張が宍戸をフェンスの上へ持ち上げる。宍戸が向こうへ降り立ったのと同時に鳳もまたフェンスへ手を掛けた。体を持ち上げその上をのぞき見たその瞬間に光が視界を支配した。
 フェンスの向こう側へ転がり落ちた鳳の腕を宍戸がつかむ。もつれる足をどうにか前へ押し出した。目の前に迫る水面に奇声をあげて飛び込むと、一瞬でそこは青に染まる。

drop(050731)