待っていたというわけではないが、自然に、電話はかかってくるだろうなと考えた。親しい友人という間柄だからという理由でではない。真田はいつだって誰にだってそういう挨拶を欠かさない。
 昨日まで降り続いていた長雨は午前中にやんだ。本格的に入梅する時期である。雨がやんだだけで陽は見られないが、それでもいくぶんか明るい灰色が空をおおった。時折、雲の晴れ間から射してくる陽が、暗い海を照らすのが見えた。
 遊覧船の出航予定に今日は欠航ですと書かれてある。波止場は鎖で封鎖された。そのかたわらに横付けされた白い遊覧船が、波に揺れて重い音をたてた。向こうに乳母車を押す妻の背が見えた。その先を、息子の丸い背中が走っていく。連日の雨続きでじれた息子が、海を見たいと言い出すのは時間の問題だった。坂崎の非番の日と雨の切れめが重なったのは偶然でも幸いだった。一歳にも満たない子供を連れて海に出るのを妻は最初渋ったが、息子の我侭に最後は折れた。その実、妻も気晴らしに外に出たかったのだろうと思う。無理をさせているという自覚はあった。そのもっと向こう、坂崎の職場である巡視船が舳先を覗かせている。吐いた煙はくちびるから出た途端水分を吸って重たくなった空気にかき消された。
 一日の煙草の本数を櫻井に指摘され、一つ軽いのに変えて数日たった。しかし、結局以前より深く吸ってしまうものだから、あまり変わらないか、ひどくなっている。この一箱を吸い終えたらもとのに戻そうと坂崎は考えている。手元にまだ二箱残っていたが、誰かにくれてしまえばよい。
 煙草の本数の増えるのにはストレスなどの原因があるのだろうが、さしあたって坂崎に心当たりはない。以前も同じように一日に何箱かを消費してしまう日が続いたことがあるが、そのときも判らなかった。以前、坂崎の煙草の本数を指摘したのは確か真田だった。あまり覚えていないが、確か、そうだった。
 そこまで思考が飛んだとき、携帯が鳴った。フリップを開けると案の定真田の名前が液晶に並んだ。通話ボタンを押す、真田のいつもの平坦な声が聞こえてくる。ああ、うん、聞いてる。頑張れよ。じゃあな。背中をあずけたフェンスがきしんだ。短くなった煙草の火が人差し指と中指の関節を焼く。じゃあな、と坂崎の言ったあと、横たわった沈黙をどう振り払おうかと考えているうち、真田の方が口を開いた。それじゃあ、また今度。通話が向こうから切れる。坂崎は左手の煙草をもう一吸いすると、足元のコンクリにそれを擦りつけた。携帯の画面を見る。通話時間は二分四十三秒だった。あっけないものだった。
 足元の煙草の本数を数えて、坂崎は携帯灰皿を取り出した。乳母車の方向が変わっている。息子の声が波止場に響いた。坂崎は煙草を持った手を振ってみせた。

sayonara,sayonara(060124)