メールが届いたのは二週間前だった。彼女の、ハンドクリームを塗った手のやわらかく暖かいのが好きだった。星野は未練がましく残している最後のメールをひらき、三回きっちり読み返したあと、返事を書こうと返信ボタンを押したが起きてる?と打ったところで馬鹿らしくなった。最後のメールの最初の言葉がそれでは、なんともかっこうがつかないと思った。保存しますか。いいえ。声に出して携帯の表示を読んでいると、寝転がった背中を大羽がつついてくる。
洗い物終わったけぇ、帰るわ。仰向けに転がると、大羽がそっぽを向きながらトレーナーで手を拭いている。悪いね。ええよ、邪魔しとンのはこっちじゃけぇの。携帯のフリップを閉じると大羽がぎくりとした顔で星野を見る。トラウマかと思う。あの時もそうだった。あの時、星野は彼女からのメールを三回読み返したあと、フリップを閉じて大羽にこう言ったのだ。大羽ぁ、キスしよっか。
星野はゆっくりと起き上がってベッドの上のシーツのしわを伸ばした。大羽は所在なくしていたが、星野がシャワーを浴びに足を踏み出したのを見届けて部屋を出て行った。星野は少しだけ残念に思ったが、その一方で安堵した。熱いシャワーが胸を叩くので、心臓の音が高くなっている。
一ヶ月前だ。翌日に座学のテストがあるというので例の四人が星野の部屋に集まっていた。おずでの洋上勤務を終え泥の体をベッドに投げ出しているうち、テーブルにはもうすでに勉強会ならぬ愚痴の言いあいが始まっていた。あっけにとられた星野に最初に気づいたのは、確か神林だった。その瞬間ぴんと張り詰めた空気を星野は痛いほど耳の後ろで感じていたが、四人はそれを一向に解さない様子でまたもテーブルに向き直っていた。いや、大羽だけは眉を下げていたように思う。それを星野は好ましく思った。
結局日付の変わるころまで彼らは居座り、てんでばらばらに部屋に戻っていった。最後に残ったのは大羽だった。神林の曲がった背中がドアの向こうに消えていくのを見送って、大羽は、すまんな、今日はお前はおらんって言ったんじゃけど、と言った。
星野はベッドに横たえた体をなんとかして起き上がらせると、髪をかき回して頷いた。なんか判んないとこでもあんの。いや、別に、そういうわけでもないんじゃけど。語尾がかすれた。大羽の瞼はすでに重い。ちょっと寝ればいい、起こしてやるから。大羽の手からテキストをそっと抜き取ると、しかめた眉は次第に平らになっていった。わるい、ちょっと、言って大羽はテーブルに突っ伏した。星野のほうに伸ばされた手はもがくように爪をたてている。ピンク色のそれが白く染まった。大羽の末端は美しい。水仕事をしているせいで少しだけ荒れた指の一つを、星野はまじまじと見つめた。薬指だけが深爪になっていた。星野はそっとそれをつまみあげると、ゆっくりと口に含んだ。
シャワーを止めて体を流れる水気を払った。バスタオルで体を拭っているうち、夜気が足元から這いずってきて体温を奪っていく。寝巻き代わりのトレーナーとジャージを身につけて、星野は髪を乾かした。携帯が聞きなれたメロディで着信を告げていたが、星野は気づかなかったふりをした。それはもう流れることのないメロディのはずだった。目を閉じれば、着信に合わせて点灯するランプの色の順番まで星野は思い描くことができた。瞼の上にチカチカと跳ね返るその光を、星野は意識を凝らして消していった。耳の後ろに水気を残したまま、星野は部屋を出る。大羽の部屋のドアを叩く。やがて顔を見せた大羽は、星野のかっこうを見て顔をしかめたが、すぐに入り口をふさいでいた体をよけた。
俺この間彼女と別れたんだよ。うん。さっき彼女から電話がかかってきたけど無視しちゃった。なんで。判んねえ。ねえ大羽、なんであの時なにも言わなかったんだ。
抵抗する大羽の肩を押さえつけた。目尻の染まった大羽がきつく星野を睨みつけてくるのを、星野は好ましく思った。なんであの時なにも言わなかったんだよ。触れたくちびるは冷たくてかさかさしていたが、星野はそれを好ましく思った。
小さな彼の貝殻(060103)