イグニッションキィを回すと坂崎の首がぐっとシートに押しつけられた。口元に押し付けられた右手の薬指に、銀色の指輪が光った。坂崎は先ほどの店でとうとうその話題を出さなかったが、真田には判っていた。潜水研修同期で集まって行われた去年の忘年会にはすでにそうだった。あのときも坂崎はひどく酔っ払って、真田に早く結婚しろと言って落ちた。そのときには、坂崎の薬指には指輪が光っていたと思う。加減を問うと、坂崎はううと呻くばかりだ。坂崎のとっているビジネスホテルまでは車で十五分ほどだが、それまでもつかと、ウインカーを出しながら真田は思った。
官舎までは小雨だったのが、走り出して数分で本降りに変わった。坂崎はずっと首を左に倒して、窓に銀色の線が斜めに走るのを見ている。前を走る車の尾灯が雨にかすんだ。歩道を歩く二人組の鮮やかな傘の色が真田の目を射した。街灯は向こうにいくにつれ密になって道を照らしている。夜も遅いというのに、この辺りはそんなそぶりを見せない。数十メートル先の信号は緑に光っているが、真田の足はブレーキにかかったままである。
お前、なんで飲まなかったんだ。坂崎の声が低く這いずった。真田は交差点の右前方を睨みながら、当たり前だろうと返した。飲酒運転の罰金は重いぞ、しかも公務員だからな。そういう意味じゃねえよ、別にお前に送ってもらわなくてもよかったんだ。明日も仕事だからな。……もう、いいよ。真田はステアリングを右にきった。タイヤがアスファルトを滑るのに合わせて水しぶきがあがった。ワイパーが真田の視界をかき乱す。水滴に街灯やヘッドランプが乱反射してまぶたの上で跳ね返った。右目の瞼を押さえた。
「甚」
俺、結婚するから。そうか、おめでとう。言葉がするすると出てきたのは、それが何回も心うちで繰り返してきたからに違いなかった。式はいつだ。一ヵ月後、身内だけでやるから。そうだな、みんな忙しいのばかりだもんな。甚。
まるで海に溺れているようだ。カーラジオをつけていればよかったと真田は思った。無音は坂崎の肩には重過ぎるだろう。十数メートル先に坂崎の泊まるホテルが見えてくる。もうブレーキを踏まなければ止まれないというのに、真田の足はアクセルに置かれたままだった。坂崎はずっと窓の外を見ていた目を真田に向けたが、なにも言わなかった。真田は次の交差点を左折した。
好きだったよ、坂崎。……ああ、知ってる。坂崎の肩が唐突に震えた。真田は前方の街灯に目を凝らす。坂崎、大丈夫か。口を押えて坂崎は窓に額を擦り付けている。真田はカーラジオのスイッチを押した。流れてきたのは低く腹に響くベース音で、時折トランペットが高温を鳴らせた。水しぶきの音が時折真田の耳を叩く。先ほどの交差点に行き着いた。横断歩道の歩行者を見送ってステアリングを切る。甚、俺は。坂崎の声は小さく、かすかに震えていて、そのとき響き渡ったトランペットの音にかき消された。それでよかったのだと真田は思った。
「幸せになれよ」
もうじき真田の足がブレーキの上に置かれる。
この恋の終わり(060107)