大羽が触ってもいいか、と言うのを石井はうつらうつらとしながら聞いていた。眼鏡をどこかにやってしまったせいか、それとも急に入り込んだ大量の光量のためか薄く瞼を開けた先の視界はひどく濁っていた。聴覚だけが鋭敏である。人の動く音がした。石井はゆっくりと首を傾けると、テーブルの向こうに目をやった。テーブルの足が四本そびえている向こうにあぐらをかいている星野と、その前に膝立ちになっている大羽の腰の辺りから下が見えた。なんね、つまらん。自分の視界の狭いことに石井はひどくがっかりしたが、動く気にはなれなかった。大羽がああ言ったのは、石井が熟睡していると確信しているからのものだとは容易に想像がついた。大羽の手が星野の右肘にかかる。筋を丁寧に指でたどっていく。
　あ、と大羽が言った。自分のやったことが信じられないとでもいうふうに、うつむいた顔が真っ青になっていく。石井は口元に手をやった。息を殺して二人の様子を見ていると、じきに大羽が部屋から出て行った。うつむけた顔が跳ね上がり、ごめんと大羽が言うのを確かに石井は聞いていた。星野の右肘にかかった手が持ち上がり、それに大羽が口づけるのを、確かに石井は見ていた。
　重い砂袋の動く音がして、テーブルの向こうに転がった星野と目が合った。薄暗い目をしていた。見てたんだろ、気づいてたよ。星野はそれだけ言うと腕を持ち上げ額を覆った。それは、大羽が口づけたのとは反対の腕だった。石井は音をたてぬように起き上がり、テーブルの上の空き缶を眺めた。端のほうから持ち上げていくが、全て中身は空になっている。あんたら、そういう仲と。まさか、俺は普通だよ。大羽君は普通じゃなかと。知らね。知らんって……。メグル、もう帰れよ、明日も早いんだろ。
　それは石井が星野から初めて感じた目一杯の拒絶だった。星野は既に皮膚の周りに膜を作っていて、それはどんな鋭利な刃物でも切り開くことは困難に思えた。柔らかな膜は手で押しても触れたという感触さえ残さず押し返される。星野はいつもそうだったのが、今では膜は硬化して触れることさえためらわれた。石井は思う。大羽は難儀な人間に恋をしたと。
　空き缶の底に少しだけ残っていたのを流し込むと、がつんと殴られたような衝撃が頭から全身をゆっくりと回っていった。胃が悲鳴をあげて動こうとするのが手の下で判る。石井は右手で胃を、左手で口を押さえて立ち上がった。吐く、と漏らした声は星野には届かなかったか、なんのリプライもなかった。石井はテーブルの向こうに転がっている星野の足を見やると、今度こそ足音をたてて星野の部屋から出た。駆け込んだ自分の部屋のトイレの芳香剤のにおいが、拍車をかけるように石井の頭を揺さぶる。

　出勤した先、大羽の様子は目に見えてというほどでもないが確実に疲れているように見えた。アルコールの力をもってしても眠れなかったのか、目を赤くさせてパソコンのディスプレイに見入っている。大羽は昨日石井が起きていたことには気づいていないだろう。気づいていたならば、あの場でああしたことはしなかっただろうし、なにより朝、石井の顔を見て普通になど話せないだろうと思った。大羽ならば尚更である。
　……デスクの向こうで嶋本と神林と大羽と佐藤が話し込んでいる。嶋本の顔は深刻そのもので、佐藤などは目を泳がせているのだが大羽は聞いているのかいないのか、半ばぼんやりとした目で嶋本を見ている。やがて嶋本の目が石井に向いた。石井は分厚い眼鏡の奥を探られないようにパソコンのディスプレイの陰に潜んでいたのだが、嶋本がかたい声で石井の名を呼ぶので、あたかも今気づいたというふうに四人に視線を寄越した。星野が怪我を負ったと言う。第三管区で出動があったことは先程の入電で知っていた。石井は嶋本にその理由を尋ね、もう病院に搬送されたのなら自分たちにできることはなにもないと返した。神林が批難めいた視線を石井に寄越したが、事実そうであるのに変わりはない。転覆したボートが高い波に持ち上げられ、救助に海に入っていた星野は肩を強打。命に別状はないだろう。いや、プロフェッショナルならばそういう結果になるように対応しなければならない。勿論怪我のないことが一番だが。石井はふと自分の左肩から腕にかけてのケロイドを思い出した。
　どこか魂の抜けてしまった表情でその様子を見ていたのが、大羽は、唐突に輪から離れると自分のデスクに座ってパソコンのディスプレイに集中し始めた。その様子を嶋本は怪訝な様子で見ていたが、神林の呼ぶ声で振り返った。神林が搬送先の病院を尋ねている。

　見舞いに行く隙もなく、数日で星野は戻ってきた。確認はしていないが、星野らしき人影が道の向こうへ歩いていくのや、官舎の窓の開け閉ての様子から察するにきちんと出勤しているらしいことが知れた。神林や佐藤などは病院に顔を出したようだが、石井はその日ちょうど当直で一緒には行けなかった。勿論行く気もなかった。大羽はどうしたか知れない。神林の口ぶりでは行っていないふうに聞こえた。
　それ以来数日おきに集まっては星野の部屋で夕食を摂っていたのがなくなった。互いに官舎近くのコンビニで顔を合わせ、帰り道を共にすることはあっても部屋の前では必ず別れた。上司の誘いならばともかく、本来他人と外食することを好まない性質である。星野の怪我の一件でそれが一気に表面化した。
　温い風の吹く日だった。仕事終わりにレンタルショップに寄った帰り、官舎近くのコンビニまでの道がいつもより長く思えた。薄暮の時間、早くも点灯している道路脇に並ぶ街灯の明るさに目がくらみ、数秒目を閉じて開けたそこに見知った顔があった。今まさにコンビニから出ようとする星野である。石井は気づかなかったふりをしたが、星野がそれを許さず声をかけてきた。石井がコンビニに用があると知ると、出入り口のところで待ってるからと言う。別に先に帰ればいいのにとは思ったが口には出さなかった。
　総菜を一つ二つ、飲み物を手に取ってレジに並ぶ。出入り口から星野の背中がのぞいている。下を向いてあらわになったうなじが夕陽に赤く染まった。しばらく呆然とそれを見つめていると、レジに入っている店員に先を促された。慌てて会計を済ませて外に出る。星野は石井の顔を見て破顔した。
　みんな元気？最近俺の部屋こないから忙しいんだと思ってた。別に、普通ばい。兵悟とたかみっちゃんは見舞いにきてくれたんだけどさ、お前と大羽だけこなかったじゃん？まあ、たいした怪我じゃなかったんだけど。重たそうなコンビニ袋の持ち手が、星野の右手の指にひどくくいこんでいる。持ち替えようとしないのを見て、石井は怪我をしたのが左肩なのだろうと思った。そろそろ官舎が近い。
　大羽、元気？あれから顔見てないんだ。
　石井はオーディオプレーヤーを操作していた手を止め、星野を見やった。あのときと同じ薄暗い目をしていた。夕陽が横から星野の顔を赤くしている。顔にできた陰の際がいっそう暗く、石井は引きずり込まれそうになるのを感じた。自分から会いに行ったらよか。振り切ろうと石井はまた手元に目を落としたが、星野が低い声でうめくのではっと顔を上げた。官舎の窓から大羽の顔がのぞく。電信柱の陰になっている星野と石井には気づいていないふうで、カーテンを閉めるとじきに窓から離れた。星野がそれを焦がれているような目で見ているので、石井は思わず口をゆがめて笑ってしまった。その気はないくせに、離れて行くのも許さないとはどういうことだ。滑稽だと石井は思った。同時に、大羽は難儀な人間に恋をしたと思った。遠くで燠陽がとうとう地平線に沈もうとしていた。

燃える焼けるひりつく(060114)