ざあ、と風が吹く。
まだ日中は日が当たれば暑いが、夜の風は冷たくて心地良い。
雲雀は縁側に小さな膳を置き、芒や小さな団子を飾りつけて、その横に腰を下ろした。
薄手の着流しではもう少し寒い。そろそろ少し生地が厚いものか、羽織を出そうか。
「ただいま帰りました、恭弥君。……それは何です?」
「ああ、月見のお供え。」
「月見…?」
六道は怪訝な顔つきだ。
「変な顔してるよ、君。今日は中秋の名月と言ってね、一年で一番美しい月にお供えをして、美しさを味わうんだよ。」
雲雀が 『味わう』 と表現したのは、酒を手にしていたからで、もう既に月を見ながら一人で飲み始めていた。
彼にしては珍しく饒舌に、楽しそうに話す。
「今夜の為に良い酒を開けたんだ。本来お供えは日本酒だけど、今日は特別に…」
「僕が育った国では。」
そこを六道が遮ったものだから雲雀の眉間に皺が寄る。機嫌も一気に下降した様。
「君が育った国では、何。」
「月は不吉の証です。人心を掻き乱し、狂わせるものであると言われてるんです。それに月の女神は死を暗示しますしね。」
「女神アルテミスの事かい?彼女は産褥に苦しむ女性を死に因って助ける正義の女神だと記憶してるけど。」
「…そう言う風に言えばそうですがね。そもそも月は狂気を誘います。」
「何を今更。」
く、と雲雀が喉で嗤った。
「…まあ、それも言えますか。すみません、楽しそうな君の機嫌を損ねてしまうような事をして。」
「全くだね。折角いい気分だったのに。もう君は一滴も飲ませてあげないから、そこにある花瓶の水でも飲んでればいいよ。」
手厳しい一言に六道はがっくりとうな垂れた。
つんと形のいい顎を反らし、月を見つめ。雲雀は一人酒を注いではグラスを傾け続ける。
ぺこぺこと謝る六道の言葉など耳にも入れてないように。
「恭弥君ー…」
「…ふふ、情けない声だね。」
やっと振り向き、声をかけてくれた雲雀の口角は綺麗に弧を描いていた。
「すみません、ここはヨーロッパなどではありませんしね。」
「そう、ここは日本だよ。郷に入っては郷に従えって言うでしょ。」
漸く得た許しに六道の頬も緩む。
「ありがとうございます。」
「……礼を言われるようなことは言ってないけど。」
僅かに頬を染め、また小さく顎を反らす姿に思わず飛び掛りたくなったが、ここはぐっと堪えた。
これ以上機嫌を損ねたら、取り戻すまでに相当の時間を食う。一日二日で許してもらえるなら良い方、なんてくらいに。
「…ん。」
六道の目の前に差し出された空のグラスは雲雀が先程から傾けていたのと同じデザインのもの。
自分が帰ってきたら一緒に飲むつもりだったのだと直ぐに解った。
六道が両手で受け取ると、雲雀はアイスペールから透明な氷を摘み、グラスに落とす。それはからりと耳に心地良い音を響かせた。そして陶器製の徳利からゆっくりと注がれる透明な液体。
「ありがとうございます、恭弥君。……おや、何の匂いです?もしかして焼酎、ですか?これ。」
「そうだよ。」
雲雀はくすりと笑ってまたグラスを傾けた。彼はかなり酒は強い。だが、白い肌は心持ち色付いている。焼酎をロックでつまみも口にせず飲み続ければほろ酔い加減といったところか。
「…ええ、とても良い眺めですね。」
「何処見て言ってるのさ。月を見て飲みなよね。」
視線があからさまに自分の襟の合わせ目に注がれていれば嫌でもわかる。しっしっと手で視線を払う。
「クフフ、これは失礼。…ん、不思議ですね、この味。どこか清酒にも近いような…しかし香りは全く違いますし。」
「どや。」
「……はい?」
彼の口から零れる、どこかで聞いたことのあるような癖のある方言。
「僕はどや、って言ったの。聞いてるの?君。」
『どや』、ってどういう意味でしたっけ…
六道は優秀な頭脳をフル回転させる。言葉の感じからしても 「どうだ!」と自慢してるのか、「どうだい?」と聞いているかのどちらかと推測は出来る。何かニュアンスでもあればいいのだが、どうにも前後が結びつかず。しかし聞けば、また機嫌を損ねそうで。ちびりちびりと口を付けながら雲雀をそっと伺った。
「あのー…恭弥君…」
「ん、美味しいでしょ、これ。地方の地酒で熟成時にモーツァルトを聞かせてるんだって。発想が面白いよね。しかもその装置だけでも何百万もかけて作られてるんだ。どやって名前にして、自慢したいのも解る気がする。」
「……どや、って名前なんですか?この酒が。」
「………ねえ、さっき僕が教えたの聞いてたかい?」
どうすればあれがこの焼酎の名前だって解るんですかっ!と言い返したいところをぐっと堪える。最近は忍耐強くなったものだ、と自分に感心しつつ。
「すみません、それが名前だと気が付かずに…。しかしこれ、結構アルコール強くありません?」
「そうだね、25度あるし。ロックだし。」
「25度?結構どころかかなり強いじゃないですか…」
清酒やワインで14度程度、度数の高いウィスキーやブランデーでも水割りなどにすれば25度には及ばない。
華やかな香りを楽しみながら、グラスを傾ければ米の良い香りと少し強めのアルコールが鼻を抜ける。
飲み込む瞬間は少し甘く、しかしながら喉を焼くのはやはりアルコール度数が高いからだろう。
「少し強いと思ったら水割りでもいいよ。これに合うように硬水を準備してるし。味わいが消えて勿体無いけど、カボスを絞っても美味しいんだ。」
「かぼ、す?」
「…これも知らないんだっけ?柑橘類だよ。生産されてる県では家庭用で使ってるけど、なかなか県外に流通して無いから結構な高級品。」
「へえ、面白いですね。」
雲雀は、ならばとばかりに準備をする六道の手からグラスを取り上げ、自分のグラスにも水割りを作り。
「はい、持ってて。」
グラスを手渡し、半分に切られた青い果実をぐっと絞った。
「ああ、いい香りです。」
「これを入れてしまうと何の酒でもいいような気がするけどね。」
穏かに笑みを浮かべて、雲雀はあっと言う間にグラスを干す。
「恭弥君こそ、少しは月を見たらどうです?」
「ん、もう見飽きたくらい見た。」
小さくなった氷も口に入れ、がりがりと小気味好い音を立てた。そのまま縁側にグラスを置き、ふ、と溜め息を一つ。
「よくあのサイズの氷を噛み砕けますねぇ。」
「僕は顎は丈夫なんだよ。」
「もうご馳走様ですか?」
「…ん、もう酒もなくなったしね。」
雲雀のきつい目元も今は柔らかく潤み、風に黒髪が踊ってとても 。
「綺麗ですよ、恭弥君。」
「月、じゃなくてかい?」
程よく回った酒が心地好いのか。今度は先ほどのように照れる事もなく余裕を持って切り返してくる。
「ええ、勿論。月の光に照らされて、恭弥の肌は何時もより尚一層美しい。日本人が月を愛でるのは肌が輝くと解っているからでしょうか。」
「ワオ、流石イタリア人は口が巧いね。うっかり絆されそうになったよ。」
「どうぞそのまま絆されてもらえませんか?」
うっとりと言葉を口にしながら、六道は雲雀へ顔を寄せる。
「…いいよ、今日は気分が良いからね。」
雲雀の方からするりと六道の首に手を回し、にっこりと笑んだ。
「クフフ、恭弥の笑顔は僕の狂気を駆り立てて止みませんよ。」
「それ、褒めてないんじゃ…」
何時ものように口角が曲がってしまう前に。六道はキスで雲雀の唇を塞いだ。
END