深潭なる闇からの使者 後編

「いい加減にしろ!」
雲雀は小さく身を捩るも、ハンターの手を払うことは出来ない。



「…少しおとなしくなさい。どうせ死ぬのだから。」
ハンターの言葉が妙に他人事のように感じ、己の声に乗せてみた。
「僕が、死ぬ?」
「当然でしょう?僕はハンターとして君を見逃すつもりはありません。」
にこりと優しげに微笑む男を見ていると実感は沸かない。
「じゃあどうしてすぐに殺さないんだい?」
「死出の旅路の前に少しだけ遊びましょう。僕は君が気に入りましたから。」



「…ん、」
ハンターの舌がべろりと雲雀の首筋を舐め上げた。
雲雀からあえかな声が漏れる。
「……僕の名前は六道です。雲雀君、どうか覚えて。」
「は…?名前、教えてどうするのさ…僕が支配、するよ?」
「いいえ、君には無理です。」
そう言い、しつこく首筋を舐める六道から逃れたいが、体が言う事を利かないのが恨めしい。
「ん…くっ、“止まれ、六道!”」
言葉に力を込めて六道を呼ばわった。
瞬間、ぴくりと震えるも。
「…凄い力ですね。今、瞬間痺れましたよ。」
雲雀が見惚れた笑顔で返された。
「あれだけ力を込めたのに、瞬間痺れただけって…ヴァンピールって呆れるほど鈍いんじゃないの。」
「クフフ、そうかもしれません。そう言えば雲雀君、君は同族に牙を立てたことや立てられたことはありますか?」
先程舐め、濡れた首筋を六道の指が滑る。
「…ッ、ある訳無い、でしょ。そもそもそれは禁忌だし…僕は群れるのは嫌い。」
一人を好む雲雀に誰か共に過ごした記憶はない。
だが同族に牙を立てるのは禁忌だという事は本能が知っている。
「ああそうなんですか。では同族の牙を味わってみるといいですよ。何故禁忌なのか身を持って知れるでしょうから。」
「…何を、言って…?」
「僕はヴァンピールには間違いありませんが、吸血鬼の血の方が若干強いようでしてね。」
見せ付けるように笑った口元に見えたのは。
「…牙、あるの?」
「何を驚くんです。貴方方と同じで隠していただけじゃないですか。」
気がつけば瞳の色まで変じていた。
美しいマリンブルーから右目だけが血の色に。

囚われる、と予感した。
逃げるという事すら思い浮かばない。

「純血種の力、頂きますよ。」

するり、と白い指が雲雀の首筋を撫で。
笑みを浮かべた顔がそこへ寄せられる。
首筋に掛かる吐息が熱い。
「…う、」
「僕の息だけで感じるんですか?……こんな事ではこの先までいくと君が壊れそうですね。」
「…殺す気、の癖によく言う…」
「クフフ、まあそうなんですけどねぇ…」
唇が触れる距離で話され、それにも小さく震えた。
また軽く舐められて。
ぷつり、と皮膚が破ける音を聞いた。

「…ッッ!!ぅ、ぁ、ぁ!!」

雲雀は息を呑むことしか出来なかった。
強烈、なんて物ではない。苛烈と言っても足りない。身を焼き、思考を狂わせるそれは恐らく快楽。
過ぎるそれは心地良さなど微塵も無く、苦痛にしか感じない。
もしかしたら叫んだほうが少しは楽かもしれない、そうは思えど微かに残るプライドがそれを許さなかった。
血と共に吸い出されていく力。激しい喪失感は突き抜ける恍惚を呼び、呪で縛られているのに手足がびくびくと震える。
呼吸も儘ならない。きつく閉じた眦から涙が零れ落ちた。
あたまが、おかしく、なる。

ぷちゅりと音を立てて、雲雀の首から牙を抜いた六道は口の端に付いた血を舐め取り笑った。
「おやおや。もう駄目そうですね。しかしこちらも熔かされそうなほど甘美な血ですよ。」
ぐったりとベッドに手足を投げ出した雲雀の瞳は焦点を結んでいない。
「…雲雀君、名前…教えてもらえませんか?」
「…な…ま、え…?」
「ええ、どうか僕に君の名前を教えてください。」
其処に意思は無く、自動応答する雲雀に六道は畳み掛けるように問いかける。
「な、まえ…、僕の名前…は…」

そこでけたたましい音を立てて、古めかしい大きなドアが開かれた。
吸血鬼の根城でまるで不似合いな太陽のような金色の髪を揺らし。蜂蜜色の瞳をした男が飛び込んできた。
「恭弥ーー!!今日という今日は俺と……ああ!お前!!六道骸!!何でここに!しかも俺の恭弥になにやってんだ!!」
「跳ね馬?!あの跳ね馬ディーノですか?どうして君こそここに居るんです。それにどうして雲雀君の名前を…」
跳ね馬ディーノといえば六道と負けず劣らず高名なハンターで、如何なる魔性相手でも負け知らずの腕の持ち主。

「ふぅん、“骸” に "ディーノ” か。我慢した甲斐があったな。」

割り込んだ声に二人は固まる。
今、激昂した弾みに互いの名を呼んでしまったのではなかったか。
術で抜き取られた場合や第三者から齎される “名前” は自ずから名乗った場合よりも支配力が落ちるが、能力が高い者に知れるのは非常に宜しくない。ともすれば縛られてしまう事もあるのだ。
「全く…無理してくれるよね。随分と眩暈がするよ。」
何事も無かったようにむくりと身を起こした雲雀は小さく頭を振った。
「ひ、雲雀君…その、君は僕に…」
「ああ、同族で血を吸うのが禁忌だって言うのは良く解ったよ。頭がおかしくなりそうな位気持ち良かった。」
雲雀は妖艶に微笑んで未だに赤く残る首筋の吸血痕に触れる。微かに指先に付いた己の血を赤い舌でぺろりと舐めとった。
血を吸われ、蕩ける様な快楽から目覚めた雲雀はまるで性交渉の後の様な匂い立つような色気を放っている。
「すげー…、恭弥すっげー色っぽい…」
「君は純血種を侮り過ぎだよ。そこのアナタ、ディーノもね。」
常の数倍にも色気を増し、いっそ凄艶というに相応しい表情で跳ね馬の顔を見遣った。
当然のように雲雀の媚態から目が離せなかった跳ね馬は、名を呼ばれ、蜂蜜色の瞳を覗かれてあっさりと蠱惑術に堕ちる。
輝いていた瞳から意思の光が消え、その場に立ち竦んだ。
「仮にも跳ね馬の名を受け継ぐあなたが何をあっさりと吸血鬼の術などに…」
「何言ってるんだか。君だって初めは僕の術に面白いくらいあっさり落ちたじゃない。…ねえ、骸。君はやっぱり馬鹿だ。」
そうだ、勝手に動かないでね、と瞳を覗き込まれては指も動かせない。
「…く、恭弥、君…っ」
「もう名前を呼ぶ気かい?図々しいね、君。しかし僕の力を奪うと言っただけあって完全に堕ち切らないか。」
ゆっくりとベッドから立ち上がった雲雀は跳ね馬の元へと歩み寄った。
白い手を跳ね馬の頬へと這わせ。
「…ねえ、僕の相手してくれるの?」
誘うように顔を寄せて囁く。
「…恭弥…っ」
「うん、じゃあこっち…ベッドで待ってるよ。」
ふらりと足を踏み出した跳ね馬は隣に立つ雲雀の横を通り過ぎ。ベッドへ向かってよたよたと歩みを進める。
雲雀はそれを笑みを浮かべたまま見守るだけだ。
「…え?ちょっと、恭弥君?」
「まあせいぜい頑張りなよ。跳ね馬に最後までされないようにね。」
虚ろな目をした跳ね馬の膝がベッドに乗ると、軋む様な音が上がる。動けない六道には青褪める材料でしかない。
「恭弥…恭弥…」
愛しそうにうっとりと名前を呼んで。六道を雲雀と思い込んでいる跳ね馬の手が六道の頬を撫でた。
「冗談じゃありませんよ、この馬鹿馬!!」
六道の声は全く跳ね馬に届いてない。
「ふふ、僕は邪魔者みたいだし、ここで退散するよ。折角いい城を見つけたけど君たちにあげる。仲良くすれば?」
雲雀は大きな窓の前に立ち笑う。それは悪戯が成功したときの子供のように無邪気で、目を奪われた。
「…恭弥君、僕は君が…って、跳ね馬!いい加減目を…ッッ?!」
六道の言葉は最後まで放たれる事なく、跳ね馬の咥内に消える。
「見ていくのも面白そうだけど、二人とも動くと面倒だな。」
然しもの雲雀も超級のハンターである二人を相手にしては勝算は少ない。更に力も六道に喰われて全力で動けない。
どうせなら万全の体制で咬み殺したいのだ。

窓を開けると冷たい風が入り込みベッドの上で     一方的に      熱烈な口付けを交わす二人にも届き。
「じゃあね。」
雲雀の声と共に跳ね馬に正気を取り戻させた。
「…恭弥…って!?え、何でお前?!」
「…は、ぁ…、何で、じゃありませんよ!全く早く降りなさい!!」
ようやっと自由を取り戻した六道は跳ね馬をベッドから蹴り落し、雲雀が消えた窓へと走る。
「逃げられましたか。」
その先には鬱蒼とした森しかない。

「今度は逃がしませんよ。」
小さく呟いた六道の声は夜闇の静寂に吸い込まれた。




END