おぼれる

「永四郎…大丈夫か」
「何言ってるんですか甲斐クン。俺より君でしょう」

 全国大会が終わった後、そう聞いた俺に永四郎は少し笑って答えた。
 何か重い荷物を降ろしたような、少しすっきりとしたような永四郎の顔はいつもより柔らかい表情をしている。

 俺のほうとは言えば、しゃくりあげて喋れないくらいみっともなく泣いて。
 涙も鼻水も一緒くたにタオルで拭いても拭いても、後から後から溢れ出した。

 でも、泣いている俺より永四郎の方が辛そうだと思った。




 思ったのになぁと、甲斐はぼんやりと白いシャツに包まれた背中を眺めていた。
 沖縄に帰ってきてから季節は変わってもう秋だ。

 負けたその日こそ元気のなかった木手は、次の日にはいつもの木手だった。
 泣き腫らした甲斐の目を見てやれやれと肩を竦めて、行きますよと一言言い残して先に歩き出してしまういつもの部長。

 
 それからずっと木手はいつもと変わらない。変わらないように、見せている。
 凛や寛くんは永四郎は強い奴だからと疑問にも思ってないみたいだけど、俺は何だか引っかかった。

 俺たちは本気でやってきた。
 勝つためにはどんな事もどんな練習も耐え抜いてきた。
 それでも勝てなかったからこそ、部長として率先してテニス部を率いてきた木手は悔しかったに違いないと思う。
 だって元々は木手が沖縄のテニスを全国に示すってやってきたことだし、どんな時も木手が一番懸命で必死だった。

 その木手が、負けたのに。

「永四郎」

 放課後、帰り支度をしている木手に声をかける。
 振り返った木手の前髪が、体の動きにつられてサラリと揺れた。

 部活を引退したら、皆すぐに学校から帰ってしまうようになった。
 クラスが違う人間同士でつるむ理由も無くなって、俺は凛と遊ぶことはあっても田仁志や不知火と話をすることはほとんど無い。
 勿論木手もそれは同じで、だからこうして話をするのは随分久しぶりのように思えた。

 東京から戻った木手は、髪の毛をセットしなくなった。
 誰も本当の訳は聞けないけど多分もうこいつの中で気合を入れる必要が、懸命になる必要がなくなってしまったということ。

 その事実を見せ付けられているようだった。

「何です?」
「ちょっと話があるんどー」
「…じゃぁ、帰りながら話しましょうか」

 立ち上がった木手の両手にいつもあったリストバンドもいつの間にかなくなっているのに、俺は眉を寄せる。
 そこにあるはずのものが無いと、冷たい風が吹き抜けていくような嫌な気持ちになる。

 下駄箱へ向かう木手の後ろを歩きながら、別人のようなこの男を眺めた。
 長い前髪は、時代錯誤な髪型をしていた木手とのギャップで女子の人気は上々らしいが俺は嫌いだった。

 あんなに無様に頑張ったのに、あんなに必死に歯を食いしばったのに。
 その全てを放り出してしまったような木手のあからさまな変わりようは、一緒にやってきた自分たちを突き放しているような気がした。

 その証拠に、木手が髪を下ろしてからテニス部員は余り近づかなくなった。
 レギュラーだった、一番木手の近くで戦っていた凛も寛くんも慧くんも。俺も。
 そうなると木手は余り親しい友人もいなくて、たった一人で過ごすことが多くなる。

「なぁ」
「何ですか」
「やー、テニス辞めるのか」

 誰かに聞かれたら困ると思って校門を出るまで我慢していた質問は、俺の喉に張り付いて掠れた。
 本当はこんな事聞きたくない。
 だって、そうですって言われたら、俺は多分引き止められない。
 俺は引き止める言葉を知らない。

「…あのね、甲斐クン」
「…………」
「あの日からずっと考えてることがあるの。ずーっと」
「……何」

 うん、と頷いた木手はそれから長い事何も言わなかった。
 少しだけ俯いて自分のつま先を見つめたまま、ゆっくりと歩を進めている。
 学校が離れて、木手の家の方角とは別の角を曲がって、俺たちにはお馴染みの砂浜に出た。

 いつも練習していた砂浜だ。
 練習でかいた汗も怪我をして出た血も、全部この砂浜にしみこんだ。
 弱音も愚痴も飲み込んで、みんなで優勝を誓い合った浜辺。

「あの時、手塚が言っただろ」

 そんなお前の一勝を部員達は望んでいるのか?

 波の音にまぎれて聞こえた声に、俺はしゃがみ込んだ。
 ズシッと重く響くあいつの言葉は、俺の中にも残っている。

 望んでいた。今だって望んでいるんだ。
 俺たちが誰も出来なかったことを、永四郎は出来ると証明して欲しかった。
 俺たちを引っ張っていくのはいつも永四郎だから。

「彼、全国大会が始まる前までずっと九州にいたの」
「…何でね」
「怪我の治療」

 何もかもに恵まれて順調に上手くなっていった奴なんだと思っていた。
 プロのテニスコーチが付いてたり、ジムに通って練習してるんだとばっかり。

「別にそれでじゃ無いけど…ずっと考えてた」
「…うん」
「俺たちはいつの間にか、テニスを勝たなきゃいけないと思い込んでたんじゃないかって」
「…………」
「ごめんね、甲斐クン」

 カァッと頭に血が上った。
 何で謝るんだ、負けたのはお前の所為じゃない。
 お前が試合をしたときにはもう負けは決まってた。

「永四郎!!」
「だって厳しい練習をさせたのもラフプレーの指示を出したのも俺と監督だから」
「違う!」
「強くなるためにどんな練習にも耐えて耐えて、それで勝てないと割に合わない。だから俺たちは勝たないといけない」

 海から吹く風が木手の髪の毛を舞い上げて、彼の額が露になる。
 もう直ってしまった傷の場所を、木手は指先で撫でた。

「あんな厳しい練習に耐えたんだから勝てないのはおかしいだなんて、そんな訳無いのに。どんなことをしても勝ちたいなんて、それじゃテニスじゃない。武術ですらない。…ただの喧嘩だ」
「…………」
「うちなーのテニスをしたかったはずなのにね…」

 声こそ震えていないのに、永四郎の顔はどんどん泣きそうに歪んでいく。
 泣かないのはおかしいと思ったのに、永四郎がいつもと同じでいるのがおかしいと思ったけど。
 見せられた泣き顔は、どんな怪我より痛々しかった。
 自分のやってきたことを否定する木手が、もう少しで崩れてしまいそうだった。

「そうじゃないだろ永四郎」
「だって」
「だってなんだよ!自分ばっかり責めて一人だけ悪者になってればそれでいいんばぁ!?わったーはどんな練習でも一緒に耐えてきた!やー一人じゃねぇ、わったーで耐えてきたんど!」
「だって…部長だから…俺がみんなを集めて、俺が」

 『だって』なんて普段使わないような気弱な言葉を、あの試合の後からずっと一人で抱え込んでいた。

 俺の所為、『だって』俺がみんなを集めたから。 
 俺が悪い、『だって』俺が練習の指示を出していたから。

「だったら何か!わったーがずっと嫌々やってたと思ってるんばぁ!?やーに無理やり練習させられてると思ってたか!」
「甲斐ク…」
「わったーにもうちなーの誇りはあるんばぁよ!日本中に沖縄のテニスはすごいって思わせたいさぁ!あんせーどんな練習でも必死にやってきたあんに!」

 胸倉を掴んで顔を近づけたら額が思い切りぶつかって、ゴツリと鈍い音を立てた。
 珍しくされるがままで痛みに顔をしかめる木手に、俺はようやくずっと言ってやりたかったことを言うために息を吸い込む。

「悔しいって!言えよ!!」

 きょとんと見開かれた目に、だんだん涙が浮かんでくる。
 一筋こぼれると後から後から溢れ出して、東京での俺のようだと思った。

「勝たなきゃいけないとか、どんなプレーだからテニスじゃないとか、そんな大人ぶったこと言わんけ。やーが言いたいのはそんなことじゃねーばぁ?」

 力が抜けたように膝を砂浜に付いた木手は、俺の腹の辺りに縋るみたいにしてしがみついてくる。
 鍛えた腕はまだ筋力を落としてなくて、力いっぱい締め付けられて痛い。
 それでも、俺はやっと安心して笑った。

「やー一人じゃない。わったーみんな同じど。自分ばっかり責めるのやめれ」

 背中を撫でたらひゅうっと木手の喉が音を立てる。
 泣くことに慣れてない小さい子供みたいな変な息の仕方をしながら、木手は俺の腹に額を押し付けて長いこと泣いた。

 それこそ、夕日が沈んで辺りが暗くなるくらいまでずっと。 


 END

2008/07/12:完成
2008/09/23:UP