少年1

 東京ではもう木枯らしが吹き始める季節だと言うのに、この土地では未だ太陽が幅をきかせて燃え盛っている。
 地面を焼くようなその強い日差しに、タクシーから降りた男は眉を寄せた。

 東京から着て来たスールは既に片腕に垂れ下がった荷物と化し、ネクタイも鞄の中でとぐろを巻いている。
 冷房のある場所ばかりで仕事をしている男にはこの気候は少し辛く、ため息をついて温くなったペットボトルの水を煽った。
 ゴクリと喉を鳴らして水を飲み下し、目の前の家を眺める。

 男の目の前には、古ぼけた洋館が佇んでいる。
 ここの主と同じく、どこか不気味な外観だ。煉瓦造りの壁には蔦が絡まり、庭から伸びた樹木が建物に影を落としていた。
 門柱に表札はないが、インターホンはまだ生きているらしくボタンを押すと中で音が響いているのが微かに聞こえてくる。
 日差しが強い所為で庭の樹木に遮られた玄関口の影は色濃く、男のいる場所からはよく見えない。

 目を凝らしてみても中から開く気配はなく、ひっそりと何かを待っているようだった。
 留守なのかと門扉に手をかけた男は、大した抵抗もなく開いたそれを驚いて凝視する。
 ギィと錆びて軋んだ音を立てる門扉は、奥へ誘い込むようにゆっくり開いていった。

「失礼します……」

 何となく声をかけてから奥へ進み、重厚な木の扉の前に立つ。

「知念先生、いらっしゃいますか?」

 コンコン、と扉を叩いてみても、応答は当然ながらに無い。
 鬱蒼と木々の茂った庭先に回り込もうかとも考えるが、一層闇色の濃いそこへ足を踏み入れるのに躊躇してドアノブに手をかけた。
 重そうに感じられた扉は、やはり鍵の抵抗もなくあっさりと外側へ開いていく。

「せ、先生?」

 開いた隙間から中を覗き込んだ男は、そこから見える廊下に誰もいないのを確認して扉を完全に開いた。
 沖縄の強い日差しが支配する外と比べて、家の中はまるでクーラーが付けられているかのように冷たく感じる。
 足を踏み入れると、玄関に敷き詰められたタイルと革靴が触れて硬い音が上がった。

 玄関のすぐ右側には二階へ上がる階段があり、まっすぐに奥まで伸びた廊下の奥には書斎への扉がある。
 もともと薄暗い雰囲気だと思っていた家は、家人の出迎えが無い所為かさらに暗く感じた。
 その中で、階段の上にある明かり取りの小さなステンドグラスの赤色だけが、どこか毒々しい光を帯びて輝いている。

「先生!新垣です!いらっしゃいませんか!」

 バタン、と大きな音を立てた扉に背中を押されるようにして、男は大きな声で家の中へ呼びかける。
 しかし、やはりと言うべきか静まり返った部屋の奥からも、二階からも足音はおろか人の気配すら感じられない。
 薄暗い廊下の奥の扉が、今にも開きそうな佇まいでこちらを見返していた。

「先生、お邪魔しま……す」

 革靴を脱いだ新垣は、脇に揃えられていたスリッパを履いて家に上がり込む。
 勝手な事をして見つかったら怒られるかもしれないと考えたが、東京でともに仕事をしていた彼の人となりを考えればその可能性は薄いと考え直した。

 この家の家主・知念寛は作家を生業としていた。ホラー小説好きの間では人気の作家で、コアなファンが多く付いている。
 新垣の勤める出版社のコンテストに応募してきたのがきっかけで、それから十年近く担当として一緒に作品を作り上げてきた。

 常人とはかけ離れたひょろ長い身長、くぼんだ目は鋭くて黒目が小さく、失礼だとは思ったがまるで小説に出てくる殺人鬼か悪霊のようだった。
 その外見に反して人となりは温厚で物静か、けれど人付き合いを疎ましがる所と寝食を忘れて執筆に没頭する事がある典型的な作家気質の人間だった。

 その彼が故郷の沖縄に帰りたいと漏らしたのは、今から1年程前だった。
 彼の人気は緩やかではあるが上昇気流で、これからは映像媒体にも顔を出してみてはどうかと話が持ち上がったころだ。
 知念の風貌は決して整っているとは言えないものの、印象に残る外見をしている。
 だから新垣は、始め彼が表舞台に出ることを嫌がって事かと勘繰った。
 けれど問いかけてみれば、彼は首を横に振った。

 知念が言うには、確かにテレビやラジオに出るのは嫌だがそれよりも彼が駆け出しの頃からずっと付きまとっていたファンが原因だと言う。
 熱狂的なファンが、ついにストーカー化してしまったのだとか。
 出版社としても、作家の執筆の妨げになるものは排除しなければならないと以前から色々手を回してはいた。
 それでも相手は巧みに逃げ回る。
 こちらには正体を明かすことなく、知念に対しての『ファン活動』をやめない。
 自宅へ届けられる手紙、どこから調べてきたのかプライベートで使用しているアドレスへのメール、そして自宅への電話。
 一年ほどそれが続いた後、知念があまり使用しない携帯電話の方までに接触が及んだ。
 引っ越しても電話番号を変えても、ストーカーはいつの間にか再び手紙や電話で接触してくる。
 三度目の引っ越し後、隠し撮りの写真が届いたのをきっかけに彼が地元へ戻りたいと相談してきたのだ。

 遠く離れた沖縄の地、いくら何でもそこまでは追いかけて来ないだろうと踏んでの事だった。
 それを聞いた新垣が引き留められなかったのは、当然と言えただろう。
 環境が変わったせいで作風も変わってしまうかもしれないと危惧はしたが、そんな事は杞憂でしかなかった。
 むしろ煩わしい全ての物から解放された知念は、以前よりのびのびと執筆活動を再開してくれた。

 けれどそれも3ヶ月前までの事。

 3ヶ月前から突然連絡が滞るようになり、出ても遠い親戚だと名乗る少年が先生は忙しいからと取り繋いでくれる回数が減った。
 そしてここ1ヶ月は、その彼さえ電話に出ることが無くなった。

 様子がおかしかった事と言えば、連絡が滞る少し前に彼が悪い夢を見るようになったと言い出した事だ。
 夢見が悪く、以前から悩まされていた不眠が更に強くなったと。
 夢の内容は知念が口籠って、遂に教えてくれる事は無かった。

 職業柄、知念は怪談や悪夢には強い好奇心を抱いていたと記憶していた。
 だから悪夢を疎ましがるのは珍しいなと、何となく新垣の心に引っ掛かっていた。
 今では、この時に彼の元を訪ねてちゃんと話を聞いておくべきだったと後悔している。
 けれど新垣はそれを環境が変わったせいだと決め付け、楽観的にその内慣れると言ってしまった。
 そして知念は消息を絶ち、心配した出版社の代表として新垣が沖縄へやってきた。
 警察に届けることも脳裏を掠めたが、それをするにしても一度確かめなければならない。
 彼は両親が既に逝去していて、親戚とも余り連絡を取っていなかった。
 友人も少なく、頻繁に連絡を取り合うのは彼を担当している新垣だけだ。
 そうなれば、彼の安否を確かめるのは自分の役目。

「先生、いらっしゃらないんですか?」

 廊下を奥へ進むと、階段とは反対の左手側にリビングとキッチンへ繋がる二つの扉がある。
 キッチンとリビングは硝子戸で仕切られてはいるが、開け放されて二つの部屋が中で繋がっていた。

「…………」

 シンクは綺麗に磨きあげられていて、さっきまで人がいたようだった。
 その側の籠には洗った後の食器が置かれ、その上に布巾が被せられている。
 テーブルクロスにもシミ一つなく、中央には小さな花が花瓶に生けられていた。
 それを見て、新垣は少し安心する。

 私生活の潤いと言うものには無頓着で、家の中を飾るような性格では無かった知念の家に花が飾られていた。
 と言う事はつまり、花を飾るような人間が側にいると言う事。
 恐らくは彼女、もしくはそれに近しい女性がいて同棲か何かをしているのだろう。
 親戚だとか言う少年はその女性の家族だろうか、今どきは連れ子のいる再婚も珍しくはない。


 それならそうと言ってくれればいいのにと、安心してテーブルに手を付いた新垣はザラリとした手ごたえに心臓を鷲掴みされた。
 ゆっくり手を裏返してみると、掌に埃が付着している。
 その意味を考える前に、背筋に悪寒が走った。

 この家は何かおかしい。

 食卓に生けられている花は瑞々しく咲き誇って、まるで今朝生けられたかのように鮮やかだ。
 シンクも、洗われた食器も、まだ水滴がついていてもおかしくないと思えるほどに綺麗に掃除されている。
 それなのにどうして、食卓には埃が積もっているのか。

「っせ、先生!いるんでしょう!驚かさないでくださいよ!」

 急に襲ってきた悪寒に突き動かされるようにリビングへ移動しながら叫んだ新垣に返る声は無く、家はただ静まり返っていた。
 革張りのソファにも、今は暗い画面に部屋の様子と慌てる新垣を映しているだけのテレビにも埃が積もっている。
 テレビの前のローテーブルにも、スリッパの下の床にさえ。
 けれど、テーブルにはやはり瑞々しい花が飾られていた。

 チカ、チカ、と視界の端で光る何かに気付いた新垣がそちらを振り返ると、サイドボードの上で電話がボタンを点滅させていた。
 留守番電話のメッセージが残っていることを示すボタンが青く点滅していて、新垣は誘われるようにそのボタンを押す。
 もしかしたら、知念からのメッセージがあるかもしれないとそう思ったのだ。

『……ピー、メッセージを、再生、します……』
『八月○日午前十一時四十三分…あ、もしもし、新垣です。お世話になってます。えーと、原稿の進み具合はどうかなと思ってお電話しました。またお電話します。それでは……ガチャ……』
『八月×日午後二時二十三分…もしもし、新垣です。お出かけでしょうか。メールを送りましたので、確認して折り返しご連絡いただけるとありがたいです。またお電話します。……ガチャ……』
『八月△日午後一時四十五分…知念先生、新垣です。体調を崩されてるんでしょうか。親戚のお子さんでも構いませんので一度ご連絡いただけますようお願いします。電話番号は……です。よろしくおねがいします。…ガチャ……』
『八月□日午前十時十五分…新垣です。一度そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか。携帯の方にもお電話差し上げたんですが、お留守のようですので。ではまた……ガチャ……』

 最初の四件は新垣のものだった。東京の職場と自分の携帯からかけてメッセージを残したものが再生される。
 自分の声ながら呑気な声をしているなと、冷や汗をかきながらも安堵する。再生が終わるまで聞いていた新垣は、自分のメッセージが四件終わった時点で再生が終わるだろうと予想して停止ボタンに手を伸ばした。
 しかし次の瞬間、残っていた一件の異様なメッセージに思わず悲鳴を上げそうになる。


『八月○日午後三時三十二分…………………………………………………………………………………知念先生…………、』


 上擦った男の声だ。

 無言電話ではないかと思うほどにたっぷり間を取った後、吐息のような聞き取れるかどうか怪しいほどの小さな声で知念の名を呼んだ。
 たった一言だけのメッセージだったが、新垣はこの声を知っていた。
 東京で知念を悩ませたストーカーだ。
 しつこくもあいつが知念を追いかけてきたのかと、苦々しい思いでメッセージの再生を終えようと再び電話に指先を伸ばした。


『今、そちらに行きます』


「っひ……!!」

 さっきまでの小さな声とは一変してはっきりとした強い声だった。
 けれどそこに溢れる感情に新垣は、それが自分に向けられたものでもないのにゾワリと鳥肌を立てた。
 執着心と狂気、そして歓喜。逃げた物を追う習性が人間にもあると言うが、声の主はそれを逸脱していた。
 まるですぐ後ろから声を掛けられたような、耳朶を直接舐め上げられるような、そんな生々しい感情がメッセージには焼き付けられている。

『メッセージの、再生、を終了します……』

 機械じみた女性の声で終了を告げられ、家の中は元の静寂を取り戻した。
 今までにも録音したストーカーの声は何度となく聞いていたが、彼は無言か知念の名を呼ぶ事しかしなかった。
 自宅が分かっていても押し掛けることもなかったし、あんなにはっきりとした強い声を聞いた事は知念ですらなかっただろう。

「行くって……」

 とち狂ったストーカーがこの家を見つけて何かしたのかと思い至ったら、居ても立ってもいられなかった。
 バスルームとトイレの扉を乱暴に開け放して2階へ駆け上がり、1部屋だけあるその部屋に置かれたシングルベッドと部屋の壁に掛けられた制服を見つける。
 どうやら親戚の子がこの家にいたのは本当らしい、けれどその彼の制服さえも肩の部分に埃が積もっていた。

 最悪の状況がぐるぐると頭を回る。

 逃げられたと逆上したストーカーがこの家を見つけて、そこで穏やかに暮らす知念とその親戚の少年を見つけたら。
 望むものが手に入らないと分かったストーカーが、常人が目を背けるような手法を取って無理やり相手を手に入れようとするのはよくある話だ。

 階段を降りてきた新垣は、廊下の奥の扉へと向かう。
 扉の前に立った右手側には、階段下のデッドスペースを利用した物置があった。
 確認のためにそこを開けるが、ガランとした物置には人を『隠す』スペースは無かった。

 最後に残った扉。

 玄関からまっすぐ続いた廊下の一番奥にあるこの扉の向こうは、知念が書斎に使っていた部屋だ。
 引っ越しを手伝った当時、ここへ大きな机を運び込んでいたのを新垣は覚えている。
 部屋の正面には出窓があり、そこから遠くに見える海を眺めながら仕事をするのが好きだと知念から聞いたことがあった。

「先生……」

 頼むから、中に『居て』欲しい。
 祈るようにそう思いながらノブに手をかけた新垣は、やはり軽く開くそれを勢いよく引いた。

「…………」

 部屋の中もやはりまるでさっきまで誰かがいたような状態で、けれど誰もいなかった。
 出窓からたっぷり入る日差しのおかげでこの部屋だけが明るい。
 光溢れる部屋には天井まで届きそうな大きな本棚と人並み外れた身長を持つ知念のために特注したベッドが置いてあった。
 そして彼が外の景色を見ながらの執筆に使っていた大きな机も。

 机の上に置かれたノートパソコンの前には、紙の束が静かに置かれていた。
 手掛かりを求めて机に近づく新垣の足元、部屋の真ん中あたりだろうか、何かのシミが残っている。
 血液だとか、そう言った生臭さや危険物を思わせるものではない。
 恐らく水か何かを零したのだろう、だから新垣はそれを易々と踏みつけて机へ辿りついた。

「……先生……」

 机に埃は積もっていたが、原稿に埃は積もっていない。
 やっぱりどこかへ出かけているだけか、埃は単純に掃除をしていないせいなのか。
 楽観的な考えを、新垣はすぐに打ち消した。

 紙の束の上には、封筒が置かれている。
 震える手で封筒を開けると、几帳面そうに角ばった字を書く知念が書いたとは思えない乱暴な筆致で文が綴られていた。

『この手紙を新垣君が読む頃、私はそこへいないでしょう。この作品は私の最初で最後の私小説です。信じるかどうかは君に任せます。出版するかどうかも、君に任せます。稿料も結構です。
 私自身、信じられない事の方が多いので混乱しています。いえ、信じたくないと言ったほうがいいのだろうと思います。
 随分前から、悪夢を見る事が多くなりました。君にも少し話した事があったけれど、内容までは言えませんでした。その悪夢は確実に私の体と心を蝕んで、根を張り、ちょっとやそっとじゃ引き離せないほど私の奥底に住み着いてしまいました。
 私はもう、その悪夢に囚われて逃げ出せなくなっています。これ以上、書き続けることも出来ないでしょう。
 あるいはこの悪夢から逃れられるかと書き上げた作品は、逃げられないと言うどうしようもない現実を私に示しただけでした。
 この家に悪夢が来てから半年、この原稿用紙に書かれたことが全てで、そして事実です。けれど真実は、未だ私にも明かされてはいません。
 最後に、連絡も無く姿を消す事を許してください 知念寛』

 手紙を何度読み返しても、新垣に彼の真意は分からなかった。
 しかし彼がもうこの家へ帰っては来ないと言う事と、以前彼が言っていた夢の話が思っていたよりも深刻だった事だけはわかる。
 机の上に置き去られた原稿用紙に目を落とした新垣は、椅子を引いてそこへ腰かけた。


 冒頭は、こんな書き出しだった。



『この少年が私を見つけた事が、私にとって悪夢の始まりだった。けれどそれに気付いた時にはもう、私は少年を愛してしまっていたのだ。




2010/08/02:完成&UP