幸運にもそれが夢だと実感できたのは、私がこの年になって夢精していたからだった。
恥ずべき事であるにも関わらず、心はその事実に安堵して体の方は律儀にすっきりとしている。
しかも夢の内容が内容であるだけに、永四郎に知られるのも避けたかった。
そこで私は、彼がまだ眠っている朝方に自らの下着を手洗いしなければならなかった。
家主である私がなぜ隠れるような真似をしなければいけないのかと何度もため息が漏れたが、指先に感じる滑りを水で流す度夢を思い出しては追い打ちをかけてくる。
淫らに揺れる腰が脳裏を掠めては消えていき、快楽を溶かし込んだ声が耳の奥から蘇る。
駄目だと首を振っても別の事を考えようとしても、滑らかな肌が触れた場所はまるでついさっきの事のように私にその甘美な感触を思い出させた。
恐らくは、長い間たった一人で暮らしてきた為に、欲求の解消を疎かにしていたのが原因だろう。
もともと余り性欲の強い方では無いと自覚していたため、自慰と言うものには熱中した記憶は無い。
ならばその欲求を積極的に開放してやればいい。
やはりこの年になって、と言う思いは頭を掠めるが不遇な境遇の少年を夢で辱める罪悪感に比べれば、これぐらいは大した事では無いとも思えた。
両親を亡くした彼が現在頼れる親戚は、よく知りもしない自分ただ一人だ。
そんな境遇の彼が、健気にも自分と円満な人間関係を築こうと努力してくれている。
その彼を夢や妄想で凌辱する事など、決してあってはいけない。
水洗いした下着と、他の洗濯物と一緒に洗濯機へ入れて稼働させた。
無造作に注がれ始める水は、喧しい音を立てて私の下着や衣服などを濡らしていく。
私はしばらくの間、茫然とそれを眺めていたらしい。
気が付くと隣に永四郎が立っていて、歯を磨きながら不思議そうにこちらを見上げていた。
「おはようございます」
「っ……、おはよう」
彼の唇に付着した白濁した歯磨き粉やそこに出入りする歯ブラシに、どうしたって視線が吸い寄せられる。
何とか苦労して視線を引き剥がし、落ち着くまで書斎に籠っていようと考えて私は彼から逃げ出した。
台所を通り抜ける私に、無情にも背後から声がかけられる。
「すぐ朝ご飯作りますから。もし良かったら食べてください」
「あ……、……あぁ」
その日の朝食はまるで砂を噛むようだったのを覚えている。
普段と同じ沈黙も、私の心境が違うだけでこうも違うのかと感じられるほど気まずかった。
嫌なら断ればいいのに、そして断れば永四郎が食い下がってこないのを知っているのに、私はなぜか彼と共に朝食を食べる事を選んだ。
いっそ永四郎と顔を合わせなければ、夢を見る事はないかも知れないと考える。
しかし同じ家に住んでいて、顔を合わせないのは不自然だ。
彼がここへ来た事情を慮れば、私が罪悪感から逃げるためだけに彼を孤独にしてしまう事は、余りに非情だと思えた。
食器の触れ合う音が聞こえるほど静かな食卓で、私は何度か少年を盗み見る。
彼は目を伏せて、自ら作った朝食を口に運んでいた。
ワカメと豆腐の味噌汁を啜り、それを嚥下して卵焼きに箸を伸ばす。
何でも無い食事の風景だと言うのに、その濡れた唇や微かに突き出した喉仏が上下する度何とも言えず胸が詰まって目を逸らした。
けれどもまた、私の視線は正面に座る彼に吸い寄せられてしまう。
「あの……」
「っ……!」
不意に永四郎が顔を上げて、私は驚いて竦み上がった。
見ていた事がばれただろうか、厭らしい、卑猥な目で彼を見ていた事が。
「美味しくなかったですか?余り進んでいないみたいなので……」
「いや、美味い……」
「そうですか……」
照れたように俯いてしまう彼に、途方もない罪悪感が湧きあがる。
今まで私は、自分を天上人のように良くできた人間だとは思っていなかった。
人付き合いが苦手で、話も上手くはない。
けれども、それでも人としての道に外れたことだけはしない人間だと自負していた。
なのに、私はこんな健気な少年を浅ましい欲の対象にしてしまった。
それはたった一度だったとしても、私だけでなくそれを知ってしまった場合この少年をも深く傷つけてしまう罪だと感じた。
「あ、そうだ。自転車をお借りしてもいいですか」
「……あぁ、庭に使ってないのがある」
「午前中に図書館へ行ってきます。宿題が終わってしまったので」
「あぁ、それなら……書斎にある本も読めばいい」
ふと漏らした言葉に、永四郎は俯かせていた顔を上げて私を凝視した。
その視線は気圧されるほど強く、何もかも見透かされてしまいそうな気がして慌てて顔を伏せる。
彼もまたすぐに私から視線を反らしてしまったらしく妙な圧迫感はすぐに遠退いた。
「いいんですか。大切な仕事部屋でしょう」
「本を取りに来るぐらいなら、構わんど」
自分の書斎に溜まり切った本を思い浮かべて、そう言えばどんな本を書いているのか彼に言った事はあっただろうかと考えた。
もしかすると親戚から聞いているのかもしれないが、知らずに書斎を覗いて驚かせるのは可哀想だ。
自身の著作以外にも、話を書くために取り寄せた資料が本棚には置いてあった。
中には血生臭い実話ばかりを集めたような本や、拷問方法を集めた本もある。
彼が苦手なら、それらは見せない方がいい。
「永四郎は、ホラーとかミステリーとか平気さぁ?」
「……、えぇ、大丈夫です。本は好きなので、色々な物を読みます」
少し間が空いて答えた永四郎に、私は余り重い作品を勧めないようにしようと思う。
答えに詰まったその間を、私の書くジャンルがあまり好きでは無いからこその間だと思ったからだ。
「作家の部屋って入ったことないから、少し興味があります」
「……大した部屋じゃないさぁ。ちょっと本が多いだけばぁよ」
無邪気な子供のように、彼はまさにその年齢だが普段から大人びた態度を通してきた永四郎が嬉しそうに頬を緩ませるのを見るのは悪い気がしない。
もう少し歩み寄って親密な態度をとってやった方が彼にとってはいいのかもしれないと言う考えが浮かぶ。
そして同時に、小さな闇が私の胸を沈ませた。
昨日の事は夢なのだから永四郎は知らないし、黙っていれば決してばれる事ではない。
例えば汚れた下着を見られた所で、どうしてそうなったかを誤魔化しさえすれば彼に知られることはないのだ。
けれど私はその気まずさを心に押し込めることができそうにはなかった。
だから隠れて下着を洗った。
まだ年端もいかない、多感な少年のように。
胸に去来する罪悪感に耐えながら。
その罪悪感は、彼が男でまだ子供だと言える年齢だったからだと思う。
しかも、自分に信頼を寄せてくれている上、食事まで振舞って気遣ってくれる少年だ。
これまで、恋や愛が誘発する自分の性欲は異性に向かっていた。
そのどれもが自分と同年代か、上にも下にもあまり年の離れていない成人した女性だ。
男や子供には、今までそう言う欲を抱いた事は無かった。
特に子供や若年者に対しての性欲は、弱者に向けられる身勝手さを感じて嫌悪している節すらある。
私は自らの中にある倫理感とは相反した自分の夢が、生活環境が変わった事に起因する一時的なものだと思い込もうとした。
そしてこの時点では、それはまだ正解だった。
しかし私は、次の日には夜も明けきらない内からまた洗面台の前に立つ羽目になった。
夢の中の永四郎はまたしても魅惑的な表情で誘い、猥らがましい言葉や仕草で私を夢中にさせた。
そう、私は大層な衝撃を受けたはずであるにも関わらず、たった二度目の夢に対して既に陥落し耽溺してしまっていた。
一度目と同じく動けない夢の中で、乱れる永四郎の全てを記憶に留めておこうと食い入るように見つめた。
目覚めた時に体に残る甘い余韻に堪え切れず、私は空想の中で再び彼を辱めてしまう。
包み隠さず言ってしまえば、私は永四郎の痴態を思い出して自慰をした。
この出来事は、私の心を打ち砕くには十分だった。
そして形振り構わず事態の改善を図ろうとするきっかけになるにもまた十分すぎる事だった。
手始めに私は自らの性欲を開放するのを思い立つ。
物理的に欲求を解消すれば、精神的な余裕が出て夢も見なくなるはずだと思っていた。
始めの数日、私は機械的に欲望を開放することに成功していた。
技巧も何もない、単純に射精するためだけの行為。
それはやはり自分が気付かない内に性的な欲求不満の状態にあったのを示していて、自分の予想が当たっていた事でも私を満足させた。
そしてその間はあのおぞましくも甘美な夢を見ることはなくなった。
私の睡眠は以前と同じ、漆黒の闇に彩られた平穏な時間となった。
たった数日の間だけ。
次にあの夢を見てしまったのは、二度目の夢から一週間ほどたった頃だった。
機械的な自慰作業は継続して行っていた筈なのに、私は夢の中で永四郎と肌を重ねた。
状況は確実に悪化していた。
自慰の回数が足りないのかと増やしても、三日後に再びあの夢を見た。
そしてそのまた二日後にも、私は悪夢で飛び起きた。
ただ一つの救いと言えば、下着を汚さなくなっただけだ。
そこで、私は考えた。
夢というものは頭で見るものだから肉体的な性欲だけでなく精神的な満足が必要なのかも知れないのだと。
それには永四郎に向けるよりも正常な、欲求の矛先が必要だった。
思春期以来見ていないその手の雑誌を買うには自分の中の羞恥心を押さえ込まねばならなかったが、恋人のいない私が今すぐ調達できる性欲の対象と言えばこれぐらいしかない。
それに、少年に対する非道な行為で感じる罪悪感よりは幾分か軽かった。
書店で買ってきた本を手に取って寝台に腰掛け、題名だけで容易に内容が想像ができる表紙を捲る。
目に飛び込んで来るのは滑らかな肌色と、性器にかけられた修正だけだ。
どの頁を捲っても、設定は変わっても大筋は変わらなかった。
扇情的な実写はいっそ惨たらしいほどだ。
まだ子供だった頃、どこからか回されてきた雑誌より小説の方が興奮したのを思い出す。
スプラッタホラーの冒頭部分で殺されてしまう恋人が、これから性交に持ち込もうと茂みの奥で触れ合っているだけのたった2、3行の描写だ。
その描写に何かを掻き立てられ、何度も読み返したのを覚えている。
初見であるにも関わらず暇を持て余して、私は気が付けば寝台に寝転んでぼんやりとその肌色を目で追っていた。
適当に手に取ってしまったこの雑誌が好みでないにしろ、1頁くらいは気に入った物があってもいいはずだ。
けれども、私はただ頁を捲り続けた。
最後まで捲り終えると、また始めから。
「…………」
数回繰り返す内に、嫌な予感がひたひたと足音を立てて近づいてきているのに気が付く。
もしかしたら、もう手遅れなのかも知れない。
いや、まさかそんな事は無いと自問し始めてしまったら、もう目の前の雑誌に一欠けらの興味すら持てなくなった。
私は持っていた雑誌を寝台の上に放り投げて、跨って腰を擦り付けてくる永四郎を思い出す。
皮肉な事に必死になって目に焼き付けていた所為か、彼の乱れる姿はさっき見た雑誌よりも鮮明に思い出す事が出来た。
途端に、疼くような熱が腰の辺りに蟠る。
絶望的な気分になって身を丸めた私は、自分の推測に更なる自信を持ってしまった。
もう、あの年頃の少年でなければ興奮しないのかもしれない。
それでも実際の彼を汚すぐらいなら、と変な使命感さえ湧いてきてジーンズのボタンを緩めた瞬間、部屋の扉を叩く音が響く。
思わず竦み上がった私が慌てて身繕いをしていると、扉の向こうから声が聞こえた。
「あの、お電話です。新垣さんと言う方から」
「あ……あぁ、今行く」
結局扉が開かれる事はなく、足音が遠ざかっていく。
竦み上がったまま閉じた扉を見つめていた私は、その音が聞こえなくなってようやく体の力を抜いた。
そのままぐったりと寝台に横になって、天井を見上げる。
電話の音が聞こえないほどに夢中になっていたのか、そう言えば永四郎の足音も耳には届かなかった。
そう思うとどれほど自分が熱中していたのかと、私は頭を抱えたくなる。
けれどいつまでもこうしているわけにもいかず、立ち上がって居間へ向かった。
保留にされている受話器を持ち上げながら何となく座卓の上のカップを眺める。
「もしもし」
「あ、もしもし。先生ですか?新垣です。特に急いでるって訳じゃないんですけど。どうしてるかなぁと思って」
「あぁ」
「この前送っていただいた原稿は一旦はあれで大丈夫です」
新垣の用件は、単純に言えば原稿の進み具合を確認する事だった。
壁にかかっているカレンダーを見ながらして次の締切日を確認し、今日の日付を見てもう七月も終わりだなと言う思いが頭を掠める。
新垣の投げかけてくる話題に答えながら世間話に興じていると、彼がふと永四郎の事を口に出した。
「そう言えばさっき電話に出てくれた人、先生の御家族ですか?」
「……親戚の、子さぁ。夏休みの間だけ預かってる」
「へぇ、そうなんですか。礼儀正しい子でしたね」
その時の私の気持ちを、何と説明すればいいだろうか。
うなじの辺りがさっと冷たくなるのに反して、ジワリジワリと胸が熱くなってくる。
熱は顔の方にも上って来ていて、酷く落ち着かなくなった。
後ろめたいような、誇らしいような。
相反するその心境にうろたえるしかない私は、それでも何とかして新垣の質問に答える。
「ところで先生、最近なにか変わった事はありませんか」
「変わった事……」
「ほら、あの……ストーカーとか色々、大丈夫かと思って」
話が変わった事にホッとして、私は大丈夫だと返事を返した。
事実東京で私に付きまとっていたストーカーも引っ越しには対応できなかったらしく、沖縄に来てからは一つも接触が無い。
「大丈夫、こっちに来てからは電話も手紙も来てない。他には何も……あ」
「どうかしました?」
「いや、ちょっと……最近変な夢を見る」
「変な夢って、悪い夢ですか?」
新垣のもっともな質問に、答える事は出来なかった。
つい言ってしまったものの、私はこの夢の事は誰にも相談できないと思っていたし、するつもりもなかった。
「その、アレじゃないですか?先生今までずっと一人暮らしだったじゃないですか。いつもと違う生活にちょっと緊張してるだけとか」
「あぁ、うん。そうだといい」
「きっとそうですよ。その内見なくなりますって」
明るく言ってくれる新垣に、これまでで一番感謝したいと思った。
誰かにそう言ってもらえるだけで随分気持ちが楽になる。
それからもう少し話をして電話を切った私は、首を巡らせて居間と台所を見渡した。
永四郎の姿を探したのだが、彼はそのどちらの部屋にもいない。
気を使って二階にいるのかを天井を見上げるが、とくに用事があるわけでもないのだからとまっすぐ部屋に戻ろうと廊下に出て自室の扉を開ける。
「あ、お電話終わりましたか。勝手に入ってすみません」
「っ!あ……いや」
部屋の中に先ほど探していた永四郎がいて、本棚の前に立っていた。
2010/08/02:完成
2010/08/03:UP