少年4

 彼は本の詰められた棚にゆっくりと上から順に視線を巡らせている。
 本棚の前にもいくつか本が積み上がった塔ができているのだから、一つ一つ確認すれば時間がかかるだろう。

「ほんとにたくさんの本がありますね」

 永四郎が感慨深げに呟く。
 けれどそんな事より私は、先ほどまで私自身が読んでいた雑誌の在り処が気にかかっていた。
 これまで永四郎が部屋に入る事など無かったから、すっかり気を抜いて適当に放り投げて部屋を出てしまったのを今更思い出したのだ。

「あぁ……仕事の資料も全部そこに置いてあるんさぁ」
「へぇ……。でもこれじゃぁどれを読んだらいいか……」

 彼の視線が本に向いている隙にと素早く部屋の中に視線を走らせ、私は目的の物が寝台の上に置いてあるのを見つける。
 ただ幸運な事に、雑誌はくしゃくしゃになった毛布の下敷きになっていて、角が少しはみ出ているだけだ。
 寝台に注意を払っていなければ、気付くかどうかは怪しい程度の露出だった。

 成人した男の私室にいかがわしい雑誌の一つや二つ転がっていて当たり前なのだと頭では分かっていても、それを少年に見せ付けて平気な厚顔さを私は持ち合わせていない。
 雑誌を買った理由が彼に深く関わっているのだから、見せたくない思いはさらに強かった。

 さりげなさを装い、毛布を直す振りをして雑誌を完全に覆い隠す。
 見えなくなった雑誌に安心して永四郎の傍に並ぶと丁度彼がこちらを振り仰ぐ所だった。

「何かオススメはありますか?」
「……あぁ、じゃぁ」

 こちらを見上げてきた彼の表情は、不思議と気分が高揚しているようだった。
 どうしてだかは考える間もなかった。
 私は危うくその表情に性的な意味合いを見出そうとして、慌ててそれを振り払ったのだから。
 無邪気な彼の一つ一つの表情や動きを、自分は既に欲情を刺激する物として捉えてしまっている。
 それを認めるのがどうしても怖かった。

 無理矢理本棚に視線を移した私は、ふと目に止まった本に手を伸ばす。
 焦って視線を流した時に偶然目に入ったものだが、娯楽性の高い推理小説であるこの本なら彼が読むにも適していそうだと思う。
 永四郎は私が棚から一冊本を抜き出す様子を、ただじっと見つめていた。
 初めて会った時のような強い視線は酷く落ち着かない気持ちを感じさせたが、彼は私の差し出す本を両手で丁寧に受け取るとそれを自分の胸に抱きしめる。

「じゃぁ、借りていきます」
「あぁ」
「あ、それから」

 不思議な仕草を疑問に思いつつも、私は部屋を横切って出て行く少年らしくない少年の体をつい眼で追っていた。

 中学に入ってからテニスをしているのだと、夕食の時に聞いた。
 その所為か身長は伸び、体格もずいぶん良くなって病気もしなくなったと。
 それまではすぐに体調を崩していたらしい。
 読書の癖はその時についたもので、今でもよく読んでいるのだとか。

 けれどその時、私は決してそんな事を考えて彼の体を見ていた訳ではない。
 先ほどまで見ても何の興味も引かれなかったあの雑誌の女性が取るきわどいポーズと、今無防備に背中を向ける彼を重ねてしまっていたのだ。
 程よく引き締まって筋肉の乗ったその柔らかい体を、あられもない体位で犯される女性に。

 だからこそ振り返った彼に心底驚き、そして緊張した。
 勘の鋭そうな永四郎に、見抜かれないとも限らない。

「部屋の掃除がしたいんですけど、掃除機はありますか」
「え?あぁ、……いや、別にそんな事しなくても」
「休みで暇なので。それに、お世話になっているんだからこれくらいはしたいんです」
「そうか……」

 しかし永四郎は不自然な私の行動を気にする風もなく、掃除機の在り処を聞いて部屋を出て行った
 。私は自室の扉が木手と自分の間を隔ててくれるまで、心の内を悟られることを恐れて必死に普段通りを装う。
 そして小さな音を立てて扉が閉じて初めて、力を抜いて背凭れに体を預けた。

 それから、もう駄目だと思った。
 雑誌を使ってみた所で、私の欲情ははっきりと彼に向かっているのだ。
 豊満で柔らかい肉体の女性では無く、瑞々しい張りのあるしなやかなあの少年の体がどうしようもなく私を掻き立てる。
 永四郎自身を愛しているのであればまだ言い訳は立つだろうが、残念ながらこの気持ちは純然たる欲望であり性欲だった。

 認めにくいその事実を、私はあえて受け入れる。
 受け入れるしかない。否定して己の内に溜めこんでしまう事も出来たが、いつか許容できなくなった時現実の彼に何かしてしまうかもしれないからだ。




『ん、っ……ぅ、…っ』

 湿った音が耳を刺激する。
 濡れた粘膜と粘膜の擦れ合う動きがその音を出し、私の聴覚を刺激していた。
 朦朧とした意識の中でそれを聞き、昼間あの雑誌を見たからだとぼんやり思う。

 自室の椅子に腰かけた私の上で、全裸の永四郎が奉仕している。
 背凭れごと私の身体を跨いで座り、上体を反らすようにして両手で肘掛けを握り締めその体内で懸命に私の陰茎を刺激していた。

 熱い息を吐き出す彼の唇が一種独特な色気を放っている事を、私はとうに気づいていた。
 ふっくらと肉厚な下唇と上品そうな上唇の隙間からは、時折整った綺麗な並びの歯が覗く。
 その更に奥で踊る薄い舌は、血液の色をはっきり透かせて毒々しいまでに赤かった。

『ん、っ……』
『……ぅ、っ……あぁ……っ』

 不意に息を詰めた永四郎の体内が私をきつく締め上げて、つい声を上げてしまう。
 自分のものとは思えない、堕落しきった淫蕩な声だった。

『っ、ん……これ、気持ちいいですか』

 大きく深呼吸をした永四郎が、私を見てうっすら笑みを浮かべた。
 その間にも彼の腰は包み込んだ男のモノを絶え間なく刺激すべく、緩やかな動きで腰を前後に揺すっている。
 今回も私は、指一本動かせなかった。
 夢だからか、それとも欲求と理性の狭間で自分が戦っているのだろうか。
 今の自分には、浅ましい欲以外頭に無いはずなのにだ。

『永四郎……』

 惨めにも私は先を望んで彼の名前を呼んでしまった。
 この少年を犯したい汚したいと思う欲求の一方で、動けない体を弄ばれる事にも快楽を見出している。
 頭の隅では節操無しで破廉恥な自分の思いを強烈に恥じているのだが、一方で現実ではない事実に甘えてもいた。

 足の間に私と背凭れを挟んでいる所為で、眼下には彼の表情も肢体も全てが晒されていた。
 男との交わりで興奮し勃起して濡れている彼の股間も、陰茎を咥え込む奥まった場所でさえ恥じるどころか見せつけられているようだった。
 膝を開いた状態で、永四郎がゆっくり腰を上げていく。
 深い場所から徐々に青筋の立った陰茎が外気に晒される。
 先端だけを含んだ所で縁できつく締め付けられ、再びゆっくりと腰が落ち始めた。
 私の形に合わせて広がっていく内壁が時折息を継ぐようにヒク付くのまで、内部の温かさと共にはっきりと感じられる。

『ん……っ、あ、ぁ……』

 私の下生えと永四郎の臀部が触れ合うと、彼は無防備に首を反らして溜息を零した。
 滑らかな褐色の喉元が目に焼き付いて、生唾を飲み込む動きが淫猥に映る。
 目を閉じて身の内を押し広げられる感触を味わうため、その腰がくねって円を描くように動く。
 まるでじっとしているのに耐え切れない様子で、永四郎は腰を振り立てていた。

 次第に、私は彼が自分に奉仕しているのではなく、私が彼に奉仕させられている感覚を覚える。
 目の前で繰り広げられる痴態に、どれほど興奮を覚えても決して触れられない。
 永四郎が愛撫を施しても、私はただ浅ましく息を荒げて男根を硬くするしかできなかった。
 それはまるで、私が彼の性感を刺激するためだけに作られた人形にでもなってしまったかのようだった。

 それは逃げ道でもあった。
 動けない私に、永四郎が不埒な真似を働いているのだ。
 私が彼をどうにかしている訳ではない。
 極端な話に走れば、被害者は私の方だと逃げる事が出来た。

 好きなように私の身体で快楽を貪っていた永四郎が、肘掛けについていた手を私の首に回してくる。
 密着した身体は不埒に上がった体温を私に伝え、更に深くなった結合が否応なしに快感を高めた。
 時折痙攣するように震える濡れた内側の感触は、悪い薬を塗っているのかと思うほどに心地良かった。

『あ、……っん、ぅ……』
『……永四郎っ』

 私の首元に頬を押し付けた永四郎が、熱い手で肩に触れる。
 伝わってくる熱は、粘り気を帯びて肌に滲み込んできた。
 彼の荒い吐息が喉の辺りをくすぐる事すら気持ち良く、体を開かれている感覚に堪え切れず小さく零す声に興奮を煽られる。

『先生……』

 耳元で私を呼ぶ声に、自分の中の何かがざわめいたのを感じた。
 けれど、永四郎の媚態と襲い来る快感に呑み込まれ、私は考える事を簡単に放棄してしまう。

 そんな些細な失敗がいくつも降り注いで、私の足場を少しずつ溶かしていく。
 足元に広がる深い奈落の底がもうそこまで手を伸ばしていると言うのに、それには全く気付いていなかった。
 私は天を仰ぎ、呑気にも現実でない夢の内容に苦悩し続けていた。


 本当の苦悩は、すぐそこに姿を現していたのに。


「……起きてください。もう十二時回ってますよ」

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 今の今まで腕の中で乱れていた永四郎が、私を上から覗き込んで体を揺すっている。
 反射的に動いた腕が持ち上がろうとしたが、体に掛けられていた毛布に引っかかって我に返り寝台に降ろした。

 私を起こしているのは、いつもの永四郎だった。
 眼鏡をかけた理性的な顔をしている。髪の毛は一本も乱れていないし、呼吸も正常。
 そして何より、服を着ている。
 私はその下の素肌を一度だって見たことが無いのを、急に思い出した。

「……永四郎?」
「起きましたか?もう十二時回ってます。俺はちょっとでかけてきます。何か必要なものはありますか」
「あ、あぁ……いや、……」
「そうですか。では行ってきます」

 小さな足音を立てて部屋を出て行った永四郎を、私は最後まで見送る事も出来ずに毛布を頭までかぶった。
 そして毛布の中で、自分の腕を強く握り締める。

 夢と現実の境目が寝起きで曖昧になっていた。
 永四郎に腕を伸ばそうとしたのは、きっとその所為だと何度も言い聞かせる。
 そう言い聞かせでもしなければ、私は襲い来る罪悪感に耐え切れそうになかった。
 救いは、私が意識的に行うようにしている処理のおかげで、みっともなく夢精していなかった事だろうか。
 いくら毛布の下でさえ、永四郎を目の前にしてあの粘つく感触を味わってしまったら、本当に私はおかしくなってしまうだろう。

 その一方で永四郎にとって短くはない夏休みのこの期間、彼の保護者として同居している自分が突然非道な行いに走ったとしたら彼はどんな反応を示すのだろうかと思う。
 その疑問は、私にとって酷く興味をそそられる事だった。
 唯一信頼できる頼るべき大人に裏切られ、その欲望に晒されてしまう無力な子供。
 彼は恐怖し、そして逃げ惑うだろうか。
 果敢に立ち向かおうとするだろうか。
 南の土地にあるこの静かな洋館で繰り広げられる非道な行いを、たった十五歳の少年がどう受け止めるのか。
 小説の題材にはうってつけだ。

 埃っぽい寝台の上で、私は仰向けになって天井を見上げる。
 古びてくすんだ天井が、部屋の大きな窓から差し込む陽ざしに照らされていた。

「…………」

 思い出すのは、幼い頃の事だ。
 昔から友人と遊び回るよりは、一人でホラー小説を読み漁っている方が多かった。
 好奇心の赴くままに、幽霊や怪物の出そうな場所を巡って見た事もある。
 その時も決まって一人だったから、当時は随分と奇異の目で見られ時には遠ざけられてきた。

 読んだ本の中に、蛇を殺して末代まで祟られる男の話があった。
 日頃の鬱憤を晴らそうと軽い気持ちで男が蛇を甚振って絶命させる描写を、私は自身でも試してみたいと思ったものだ。
 沖縄にも蛇はいたが、運悪くハブを捕まえると自分の身に危険が及ぶため、蛇では終ぞ試す事が出来なかった。
 そこで私が試したのはハツカネズミだった。
 店で安く売られているそれを買ってきてできるだけ小説の内容に沿うようにして絶命させたことがある。
 強い罪悪感と共に、主人公の男はこんな気持ちを味わったのかという達成感のようなものがあった。
 国語の授業では主人公の心情を答える問題があるが、私はそんな机上の推論よりもっと主人公へ近づいたような気がした。
 ネズミだけでなく、真の暗闇に嵌って狂ってしまった話を読めば一日中押し入れに籠ってみたり。合わせ鏡の中を移動している悪魔を探したり。
 今思えば浅慮で残酷だし、友人らしい友人ができなくて当たり前の奇行だ。
 大人になった今では、現実と空想の境目に立つ事はあっても自ら試したりはしない。
 理性的な部分で、自分を律する事が出来ていた。

 だが私は、早い頃から自分にそういう性質があるのだと自覚していた。
 物語の主人公と同じ行動をして主人公の心情を空想からより事実に近づけたいとの強い思いがある。
 恐慌に陥った時、狂気に走る時、そしてそれらを目の当たりにした時の恐怖。
 自ら感じて文章にしたいと、私はそう思っている。

 だからこそ、私は今回のこの誘惑を、空想より外へ出してしまってはいけなかった。
 それがどんなに強い誘惑であっても、だ。

 微かな物音がして、玄関の扉が開く音がする。
 永四郎は本当にすぐそこまで出かけただけだったらしく、彼が出て行ってから十数分程しか時間は経っていなかった。

 私は被っていた毛布をはぎ取り、起き上がって部屋の扉の前に立つ。
 冷たい扉に額を押し付けると、肌と扉に髪の毛が挟まれてザリ、と音が頭に響いた。
 そのまま扉の取っ手に片手をかける。

「永四郎」
「あ……起きましたか?」

 扉を開けた私は、廊下の一番端にある玄関で靴を脱いでいる永四郎に声をかけた。
 彼はしゃがみこんだまま顔を上げ、袋を持ち上げてみせる。

「何か飲みますか」
「あ、いや。……これから仕事が立て込んでくるから、しばらく部屋に籠る」
「そうですか」
「あんせー集中したいから、あんまり出てこんと思う。食事も、知らせなくていいさぁ」
「わかりました。邪魔しないようにします」

 玄関から廊下へ入ってくる永四郎を見ながら扉を閉めた私は、安堵の溜息を漏らした。
 長時間座っていても疲れない物をと思って選んだ仕事用の椅子に腰掛け、出窓から見える青い海を目に留める。

 仕事が立て込んでいるのは、本当でも無いが嘘でも無い。
 有難い事に連載も持っているし、短編の依頼もある。
 けれど、部屋に閉じ籠って何時間も書き続けなければならない程に切羽詰まっている仕事は、何一つとして無かった。

 椅子を軋ませて、私は机の上のパソコンに向かった。
 メールで仕事の依頼書を再確認し、一番早い締め切りの物から手を付け始める。

 仕事に没頭し始めれば、永四郎の事はいつの間にか意識の外へと消えて行った。 


 集中力が切れたのは、小さな物音が聞こえてきたせいだった。
 一度目は気のせい、二度目は意識的に打ち消す。
 けれども三度目に聞こえた時、溜息と共に立ち上がるしかなかった。

 控え目なノックは、私が邪魔されたくないと思っている事を知っている永四郎の、配慮とそしてそれでも何か言いたい事があると言う意思表示だ。
 辺りはもう夕暮れになっていて、私はいつの間にかパソコンの光だけで仕事をしていたらしい事に思い至る。
 視力が落ちてしまう事を気に掛けながら扉の傍まで行き、部屋の明かりを灯した。
 それから、扉に手をかける。

 扉を開けると、やはり彼は眉尻を下げた申し訳なさそうな顔をしてそこに立っている。
 片手には、私が医師から処方された睡眠薬入りの袋があった。

「邪魔してはいけないとは思ったんですけど、キッチンにこれを忘れていたので。必要でしょう?」
「あぁ……、わっさん。にふぇーど」
「いえ。それじゃ」
「あぁ」

 袋を受け取ると彼は頭を下げて廊下を抜け、階段を上がって行く。
 私は部屋に戻ってその袋を机の上に放り投げ、椅子に座って背凭れに寄り掛かった。

 一度は打ち消した考えを、実行しようと思った。
 永四郎に会わずに、彼がこの家を出て行く八月の終わりまでやり過ごす。
 その不自然さも現実の彼に与える不安感の事も一切を無視して、だ。
 もう八月が来るのだから、その期間は一か月と少しだ。
 一か月と少し、部屋に籠り切っていれば永四郎もそして私のなけなしの矜持も守れるだろう。

 あるいは、あの夢からも逃れられるかもしれない。




2010/08/02:完成
2010/08/03:UP