しかし私の小さな希望と浅はかな考えは、見事に打ち砕かれた。
部屋に籠って幾日かが過ぎ、今日で七月が終わる。けれど相も変わらず永四郎は私の夢に出て来ては淫らに身を捩じらせ、私はその体から逃れる事も出来ずに耽溺していた。
埃っぽい敷布の感触も、自分の匂いが染みついた毛布も何一つ現実と酷似している。
なのに私の上に乗る永四郎だけが非現実で、逃げ出したいほどの羞恥と恐怖と快楽を与えていた。
だが私が部屋に籠るようになって、変わった事もある。
「……っ!」
怠惰な夢から強引に引きずり上げられるようにして、急激に意識が覚醒した。
いきなり背中を何かに叩かれたような衝撃が、心臓をバクバクと叩き鳴らしている。
以前なら睡眠薬のお陰か、目が覚めるのは決まって日が昇ってからだった。
しかし今は、眠ってからほんの三時間程で目が覚めてしまう。
眠る時にはいつものように睡眠薬を服用していると言うのに、私の体はうまく眠ってくれなくなっていた。
「…………」
同じように、夢の内容も少し違った。
睡眠時間が少ないからなのか、途中で終わってしまう。
私は夢の中で絶頂感を味わう事が出来ずに、身の内に蟠る熱を処理しなければならなかった。
物足りない、と思わずにはいられない。これまで意識してこなかった性的な不満を夢で自覚させられ、そして今はその夢で不満を感じさせられている。
どこまでいっても自分にとって永四郎との夢は、苦悩を引きずってくるものでしかなかった。
籠り切りの生活はともかく、睡眠不足は私に多大なる負担を背負わせる。
不眠の気があったが、誰を気にする生活でも無いのに睡眠薬を処方してもらっていたのは、睡眠が私にとって非常に重要だったからだ。
不眠がある一定の線を越えると私は突然昏倒し、それまでの睡眠を一気に補うために眠り続けてしまう。
眠っている間は、誰がどう起こそうとしても頑なに目を覚まそうとはしない。
新垣に場所さえ厭わないそれを指摘された時、これでは仕事どころか寿命さえも縮めかねないと感じた。
だからこそ眠る前に睡眠薬を服用していると言うのに、眠れなくなってしまった。
その状況に、私は心底恐怖していた。
その日は夜中に飛び起き、台所に水を飲みに行こうとしていた。
部屋の扉を開けて居間の明かりが廊下に漏れていないことを確認し、私は足音を立てないように廊下を進む。
この何日か、永四郎とは全く顔を合わせていない。
私が部屋を出るのは決まって真夜中で、彼とは生活習慣から違っていた。
夏休みであっても、彼は午前中から起きて生活している。
思った通り今日も台所は静まり返っており、明かりも落とされていた。
そこまで来てようやく安堵し、時計の針が深夜の二時を回っているのだから当たり前かと考えながら台所の明かりを点けた。
眩しい明るさに軽く目を細めて冷蔵庫に手をかけた時、居間に突然電話の音が響き渡る。
一瞬飛び上るほどに驚いた私は、もう一度時間を確認して鳴り続ける電話を見つめた。
時刻はやはり深夜の二時を少し過ぎた所で、この時間に掛けてくるような無作法な知り合いは思い当たる節が無い。
リリリ、とけたたましい音を立てる不審な電話を、どうしたって取る気にはなれない。
私は冷蔵庫を開けたまま凝視するしかなかった。
しかし、音は五回ほど鳴った後不意に途切れる。
留守番電話が作動したのだ。
『ただいま、留守にしております。ピーという発信音の後に、メッセージを、どうぞ……ピー……』
無機質なアナウンスの声が流れ、録音が開始される発信音が鳴った。
けれども、それ以降電話は沈黙してしまった。
電話をかけてきた相手が何か喋れば、それはスピーカーを通して発せられるはずだ。
だがスピーカーからは物音一つ、聞こえてこない。
ついには、プツと静かな音がして回線が切れてしまった。
『八月×日、午前二時、十三分……』
ガチャリと最後に音を立てたきり、電話は完全に静かになる。
今はもう、メッセージが残っていることを知らせるボタンの点滅だけだ。
また訪れた夜中独特の静寂に、私は大きなため息をついてようやく冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出して扉を閉じた。
生温い手で腹の中を掻き回されるようなこの不快感には覚えがある。
まだ自分が東京に住んでいた頃に度々見舞われていた感覚だ。
不審な時間の電話もまた、同じように覚えていた。
まさかあのストーカーが沖縄まで追いかけてきたのかと、私は陰鬱な気持ちを覚える。
しかし用心に用心を重ね、東京で住んでいた部屋の大家にさえどこへ引っ越すのか言わなかったのだから分かるはずがない。そう、分かるはずがないのだ。
自分にそう言い聞かせて、私は水を喉に流し込んだ。
よく冷えた感触が体内に沁み渡るにつれて、何とか心も落ち着きを取り戻す。
そして電話に近づくと、さっき録音したばかりの無言のメッセージを消去した。
機械の案内音がして、点滅していたボタンも完全に沈黙した。
不意に床の軋む音がして、反射的に振り返った廊下と居間を繋ぐ場所に永四郎が立っていた。
電話の音で起きたのか、まだ少し眠そうな怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。
「電話の音が……」
「間違い電話さぁ、気にさんけ」
「……顔色が悪いですが……大丈夫ですか?」
顔色が悪いのはいつもの事だが、言われてみれば手の先が冷たくなっていた。
久々の無言電話には、思っていたよりも衝撃を受けたようだ。
顔色に関しては寝不足もあるだろう。
「お仕事が忙しいのはわかりますけど、少しは外に出た方がいいんじゃあないですか?」
「あぁ……」
「部屋にばかり籠っていたら、気持ちが塞いでしまいますよ」
「…………」
心配そうな表情でこちらを見上げてくる永四郎に、私は何と答えていいのか分からなかった。
まさか彼を避けるために籠っていたなどとは、こうして自分を気遣って心配してくれている永四郎には口が裂けても言えない。
何とも居心地の悪い思いをしている私に、永四郎は遠慮がちな口調で続けた。
「良かったら明日一緒にでかけませんか。新学期に必要な物があって、明日は少し遠出したいと思ってるんですけど」
彼を目の前にして、決意はあえなく崩れおちる。
あるいは、心のどこかでは永四郎との接触を望んでいるのかも知れなかった。
「……あぁ、そうだな」
車でやってきた大型ショッピングセンターは、夏休みという事もあってか子供が目立った。
新学期に必要な物、彼はそう言った通り文具売り場と書店を中心に見て回っている。
恐らく彼と同じくらいの年頃の子どもたちがたむろしているゲームコーナーやその他のショップは、永四郎の視界にすら入らないようだった。
書店に入った永四郎が参考書コーナーにいる間、私は専門書の棚で時間を潰していた。
別段目的の本を探していると言う訳ではなかったが、何か創作のヒントになるものがあればと思っていた。
いくつかの建築関係の書籍や医学書を眺めた後、料理関係の本が並んでいる棚へ向かう。
上の方の棚に手を伸ばしてオランダ料理の本を手に取ってパラパラと捲っていた私は、不意に誰かの気配が隣にあるのに気付いて顔を上げた。
「あの、すみません……」
「はい」
それは小柄な女性だった。黒髪を肩につく程度で切り揃えた女性。
彼女はその細い腕で頭上を指さし、恐縮そうに言う。
「申し訳ないんですが……そこの本を取ってもらっていいでしょうか」
「あぁ……」
私にとって、こう言う事は珍しくなかった。
元来引き籠る体質であるにも関わらず、身長だけは不自然なほどに伸びてしまった所為だ。
小柄な女性には届かない棚の荷物を取ってくれと言われる事は、小説が売れずにアルバイトをして食い繋いでいる間は日常茶飯事だった。
腕を伸ばして本を取ってやると、彼女は微笑んで礼を言う。
そのまま向こうへ行ってしまうのだろうと思っていたが、私の考えに反して女性はそこへ立ち止まったまま話しかけてきた。
料理をするのか、この辺りに住んでいるのか。
立て続けにされる質問を、どう答えて良いものやら分からず困惑する。
そんな事よりも、私は永四郎の方が気になっていた。
喋る女性に曖昧な返事をしながら、時間が気になって腕時計を見る。
本屋に入った時からもう三十分ほどが経過していた。
永四郎を待たせているのかもしれないと気付いて、女性に断りを入れて二つ三つ先の棚の間にいるであろう彼を探しに歩き出した。
いくつか棚を通り抜けてから、私はふと立ち止まった。
今の今まで女性の顔をまっすぐに見つめていたはずなのに、これっぽっちも記憶には残っていないのに気が付いたのだ。
恐らくその女性と対峙していた瞬間には、目鼻立ちやどんな声だったかなどをキチンと認識していたはずだ。
けれども、後になって思い出そうとしても全くと言っていいほど思い出せない。
それよりも永四郎の方を気にかけていた。
やはり夢は現実世界へ侵食してきているのだろうか。
私は、夢の中のあの永四郎を現実の永四郎に重ねてしまっているのだろうか。
あるいはこう考える事が既に、夢に囚われている証拠なのだ。
冷静になって考えてみれば、連れを気にするのは人間として当然の事。
見知らぬ異性に話しかけられれば困惑して当然の事だ。
店をさ迷った私は、最後にレジの手前までやってきてようやく永四郎を見つけた。
レジの向こう、自動ドアの外に永四郎は立っていた。
彼はこちらに背を向けて電話しているらしく、携帯を耳に当てている。
恐らくどこかから電話がかかってきて、店の外へ出て行ったのだろう。
自動ドアが開くと同時に、焼けるような夏の熱気とまるで対比するように涼しげな永四郎の声が聞こえてきた。
「……はい、心配しないでください。大丈夫です。元気でやってます」
家族との会話だろうかと考えて、彼に身近な肉親はもういないのだと思い出した。
ならば電話の相手は、私に永四郎を預けた親戚連中の誰かだろう。
そう考えたら、急に彼の背中が小さく見えた。
しっかりしていようが体格が良かろうが、彼はまだ十五歳だ。
誰かの庇護の元、将来に向けてまっすぐに育たねばならない年齢だ。
私は永四郎を辱めないためと言う建前の裏で、自分の矜持を守る事ばかりを考えていた自分を反省した。
本当に今しなければならないのは、家族を失って寂しい思いをしているだろう永四郎を気遣ってやる事だ。
しかしそれと同時に、私は自分自身が強烈な寂しさを覚えているのに気付いていた。
今でこそ私も永四郎も一人だが、夏休みが終われば永四郎は彼の祖父母に引き取られる。
そこには新しい家族がいて新しい生活がある。
孫を可愛がる祖父母に守られて、永四郎は新しい学校へ転入し新しい人間関係を築いていくのだろう。
家族を失った傷も、新しい事に追われているうちに痛むことは少なくなるはずだ。
私はいつの間にか、永四郎に自分と同じ孤独を重ねてしまっていたらしい。
私も一人、永四郎も一人。
そんな共通点を勝手に見出して、親しみを覚えていた。
そして今、事実の差に気が付いて愕然としている。
現実は、そうじゃない。
私は一人、永四郎は今は一人なだけだ。
時が経てば永四郎には新しい家族が用意されている。
私は、自分で選んだ道とは言え永遠に一人だった。
この時になって初めて、永四郎と言う一人の少年の存在が私の孤独に倦んだ心を癒してくれていたのだと気付く。
それはあの卑猥な夢の干渉を受けない、もっと純粋で透明な癒しだった。
「ええ、それじゃぁ。また連絡します」
「…………」
永四郎がそう言ったのをきっかけに、思考から現実へ引き戻される。
騒がしい周りの音が一気に聞こえてきて、何だか気分が悪かった。
「永四郎」
「あ、すみません。待たせてしまいましたか」
振り返った彼が駆け寄って聞いてくるのに首を横に振り、夕食の買い出しをしたらもう帰ろうかと伝える。
怪訝そうな顔をしていたものの、永四郎は特に追及する事も無く頷いてくれた。
2010/08/02:完成
2010/08/04:UP