スプリングの軋む音が耳に障る。
腰にかかる重みが少ないのはこれが夢だからだと分かっている。
次第にそれを不服に思うのは、あの日確かに一人きりで取り残されるような気持ちを味わってしまったからだ。
自ら望んで一人を選んできた私ではあったものの、思いの外他人との生活は心地が良かったようだった。
思慮深く事情を理解してくれる永四郎の性格もあったのだろう、だからこそ私はあれほど望んでいた彼が出て行ってしまう、と言う事実から目を背けたくなっていた。
背けた先にあるのは、かねてより私を誘惑していた淫夢だった。
私は瞬く間にその夢を受け入れ、開き直り、縋り付くようになった。
夢なのだから何をしても構わないじゃないか、誰にも迷惑をかけていないと嘯いて。
二転三転する矛盾した思いを、私はすべて夢に押し付ける。
あんな夢を見るから、夢の中で永四郎が誘うから。
私の心はすでに私の制御化を離れてしまっていたのに、気付いていなかった。
『あ、……っあ、ぅ……』
『永四郎』
私の上で永四郎がゆったりと腰を揺する度、濡れた内壁が陰茎を擦り上げる。
焦らすような緩慢な快楽を私はただ受け入れ、胸を喘がせた。
もっと激しい刺激を欲する私を見下ろす永四郎は、その唇を吊り上げて目を細め壮絶な笑みを浮かべる。
頬を上気させ、額やその肢体にはうっすらと汗を滲ませている彼は、弾んだ呼吸できつく私を絞り上げた。
『うっ、ぁ……あぁ、……』
この夢に沈んでいる限り、私は一人ではない。
こうして濃厚に肌を合わせ、快楽をくれる存在がいる。
例えそれが頭の中だけの存在だとしても。
私は泥のように重い腕を動かして、腰に跨っている永四郎の内腿を撫でる。
熱の籠ったしっとりした肌は一瞬ゾワリと粟立ち、頭の先まで震え上がっていくように体を仰け反らせた。
『は、ぁ……っ、悪い手ですね……っ』
動けない夢だったはずが、少しずつだが私の身体は自由が利くようになっていた。
けれど持ち上がった腕は決して永四郎を押しのけるためではなく、彼を愛撫するために緩慢だが積極的に動いた。
『あ、ぁっ、あ……』
天を向いて立ち上がっている永四郎の陰茎を手の中に握り込むと、彼はまるで私の手を使って自慰をするかのように腰を大きく揺すり始める。
霞がかった私の意識はより強い快楽に浸され、少しずつ意識が混濁していく。
あぁもう少しここへ居たいのに、永四郎に触れている感触が次第に薄れ始める。
私は夢に多大な未練を残したまま、今日もしっかりと睡眠を取る事が出来ずに目を覚ましてしまった。
それが届いたのは、恐らく偶然だったはずだ。
さすがに、私を絡め取る悪魔も出版社の人間まで巻き込む事はしないだろうから。
昼を少し回った頃、ちょうど私が睡眠の訪れないベッドに未練たらしくしがみついているのを止めて部屋から出た時だった。
呼び鈴が家中に響き、今から顔を出した永四郎に自分が出るからと言い置いて玄関へ向かう。
「はい」
「知念寛さんですか?お届けものです」
宅配業者の制服を着た男に手渡されるまま包装紙に包まれた箱と段ボールが剥き出しの箱を受け取り、伝票にハンコを押して家の中に戻る。
二つとも小さな箱だが、一つは細長く、一つは言うなれば分厚い辞書ほどの大きさだった。
特に何かを頼んだ覚えはないのだが。
思いながら食卓の上に箱を置いて無造作に包装紙をはがすと、それを適当に丸めてゴミ箱に投げ入れる。
包装紙を剥がれた木の箱には、知念も聞いた事がある名前が箔押しされていた。
その名前は泡盛の銘柄で、中に入っているのが酒だと分かる。
蓋を開けると思った通り、一升瓶の中に透き通った液体が詰められて鎮座していた。
中に入っている手紙から、新垣がお中元と称してこの酒を贈ってくれたのだと分かった。
目を見張るほど高級な物と言う訳でも無く、かと言って贈り物にしては失礼に当たらない程度の贈呈品だ。
「へぇ、お酒ですか。こっちは何ですか?」
ひょいと後ろから覗き込んできた永四郎は、興味なさげにそう言うと昼食の支度を始めてしまった。
未成年だからか生真面目な性格ゆえか、煙草や酒には全く関心を示さないようだった。
けれども私にとっては、少なくとも睡眠不足の私には、これが救いの滴に思えた。
酒に逃げるというのは甚だみっともなく恥ずかしい真似ではあるが、眠れないよりは随分ましだ。
彼の関心が向く段ボールの方を適当に開けると、以前私が執筆した原稿が書籍となって入っていた。
片手でそれを取り出した私はそれを永四郎に差し出した。少し驚いた様子でそれを両手で受け取り、彼の眼が私を映す。
「興味があるなら、読んでみればいい」
「いいんですか」
「わんは読まんから」
「ありがとうございます」
大きくもないそれを大事そうに腕の中に抱える様を、私は何とも言えない心地で眺めていた。
そんな物、大して価値のある物でもないだろうにと。
信じられない事にそれが嫉妬のような感情だとは、まだ気付かなかった。
さて眠ろうかと思う真夜中に、私は自室で貰った泡盛をグラスに注いだ。
無色透明の液体は光に翳しても濁り一つなく、口に含むと些か強い香りがする。
嚥下して喉を通っていったそれは腹の内側で一気に熱を発し、低体温気味な私の体を温めてくれた。
懐かしい故郷の酒だ。
度数が高く、独特の風味を持つ。
東京では贈答品は洒落たブランデーや実用品ばかりだったから、これを贈ってくれた新垣には感謝の手紙でも送ろうかと考える。
その間にも酒は進み、ほろ酔い加減になった辺りで眠気がふと頭を掠めた。
欠伸を噛み殺し、机の上のグラスは明日片づけることにして泡盛の蓋だけを律儀にしっかりと閉める。
そうしておいて、緩慢な動作で寝台に倒れ伏した。
目を閉じたまま手探りで毛布の中に潜り込み、身体の力を抜いた。
心地よく酔いの回った頭は、浮遊感を伴って意識を曖昧に霧散させていく。
浮かんでいるような、落ちているような。
目を閉じて横たわっているのにグルグルと回っているような感覚は、快感にも不快感にもよく似ている。
そうやってしばらく意識は中空を漂った後、私の思惑通り眠りの闇へと沈んでいった。
久しぶりにまともな睡眠をとる事が出来た私は、朝日が昇る頃に目を覚ました。
気だるい上半身を起こして大きく伸びをし、首を回しながら大きく安堵のため息をつく。
昨日はよく眠る事が出来た。
朝まで一度も目を覚まさなかった。
それは私にとって貴重な事であり、とてもではないが平素では体験できる事の無い睡眠だった。
そしてもう一つ、昨日は夢を見なかった。
何の夢もだ。
ただ深い深い闇の中で、睡眠を好きなだけ貪る事が出来た。
あの艶やかな少年も、酒の力には勝てなかったらしい。
それは半ば受け入れ始めていた私にとって微かな落胆を覚える事ではあったが、当初の目的を考えれば上々の成果と言えた。
ただ一つ、酒を飲んだ翌朝特有の身体の重さを除けば何も文句は無い。
それでも私は自分の策略が成功した事にほくそ笑んで、ベッドから降りる。
大きく伸びをして立ち眩みを堪え、机の向こうの窓に目をやる。
庭に生え放題の薄暗い木々の向こうに沖縄の町並みが少しだけ広がり、その先には青い海が穏やかにその姿を見せていた。
ここからの景色は私がこの家で最も気に入っていた物の一つだったが、今日のそれはまた別格だった。
青い空に白い雲、青い海。
陳腐な言葉で表せる事など到底できようもない故郷の海と空は、今日もとても美しい絵画のように私の部屋の窓に張り付いている。
海の青は空の青を映し出したものだと何処かで耳にした覚えがあるが、今日はどうでもいい。
そんな他愛のない事を考えるほどに機嫌が良かった。
「おはようございます」
私が睡眠の力を改めて感じながら部屋の外に出た時、ちょうど永四郎が階段から降りてこちらへ廊下を歩いてくる所だった。
隠微な夢の登場人物、空想の愛玩人形。
けれどそれすら、寝不足を解消した私には取るに足らない瑣末な出来事だ。
私は目の前の永四郎をあるがまま、年端もいかない可哀相な少年として純粋に同情でき慈しむ事ができそうだと初めて思った。
夏の終わりと共に彼がこの家を後にしても、その時はきっと彼の前途を思って送り出してやれるとさえ。
「おはよう、永四郎。今日は天気が良いな」
「……、えぇ、そうですね。今日は調子が良いんですか?」
「そう見えるばぁ?」
「えぇ」
不思議そうな顔をしていた彼が、ふと表情を曇らせて頷く。
しかしその真意は問う事が出来ずすぐに彼の表情の下へ隠れてしまった。
唇だけを薄く微笑ませる、菩薩のように穏やかな笑顔だ。
そしてもう一度、改めて頷いた。
「えぇ、顔色がとてもいいです」
「そうか、昨日はよく眠れたから」
「朝食は食べますか?」
その言葉に頷きながら、私は彼と共に台所へ足を向けた。
今日は久々に砂浜へ降りて、少し散歩でもしようと思う。
別段病気だった訳でもないのに私がそう考えていると、永四郎は冷蔵庫の中を覗きながら何でも無い事のように言った。
冷えたその箱の中は、私の心では無いと言うのに。
「今日は天気がいいですね。砂浜でも散歩してきたらどうですか」
「え……?」
「……、何かおかしい事でも言いましたか?」
「いや、わんも今そう思ってたから」
そうですか、と永四郎はまた微笑む。
先程より深い、安心したような笑顔だった。
それからというもの、私は眠りたい時に眠る事が出来るようになった。
勿論、酒の力を借りてだ。
この新しい私の友人は、心地よい酩酊感と共に長らく仲違をしていた睡眠を連れてきてくれる。
そうして私は昼夜問わず、仕事が一段落した時に眠りを欲するようになっていた。
しかしそれもしばらくの間だけだった。
私の体はどうにも順応性が高いのか、泥のように夢も見ず眠れたのはほんの一週間ほどの事。
それ以降は再びあの少年が私を誘いに来た。
始めのうちは断片的に、二週間も経つ頃には今まで通りだ。
酒の量が足りないのかと増やしてみても、もうあの心地よい眠りは訪れてはくれなかった。
代わりに、私は酷い二日酔いに悩む事となる。
その日もそうだった。頭痛を感じて目を覚まし、起き上がった瞬間に眩暈と吐き気に襲われてベッドに逆戻りした。
しばらくそうしておいて、収まった所を見計らって立ち上がりゆっくりと刺激しないように歩いて部屋を出る。
「…………」
「顔色が悪いですね。ここの所毎晩飲んでるんでしょう」
流石に呆れたような顔をしている永四郎が、台所に顔を出した私に水を差し出してくる。
無言でそれを受け取って飲み干すと、乾いていた身体がそれに飛びつくのが分かった。
「また眠れなかったんですか」
「……あぁ」
「大変ですね」
決して咎められているのではないのに、大人としてまだ子供の彼に失態を見せるのは気が引ける。
不調のせいにして俯いたまま顔を上げない私を見ていた永四郎の視線はふいと背けられた。
「二日酔いの薬を買ってきますね」
「あぁ、すまない」
空になった器を食卓に置いて椅子へ腰かけた私の前を、永四郎は通り過ぎて行った。
継いで廊下の歩く音から玄関の開く音がして、彼が出かけて行ったのが分かる。
食卓に伏せていた私は、ふらつく頭を何とか起こして寝室へ戻る。
ベッドの傍にある引き出しから効かない睡眠薬を手に取った。
本当ならば一歩だって動きたくないのにここへ帰ってきたのは、この薬を思い出したからだ。
医者の話だとこれ以上強い薬は無いというのだから、効かなくなれば用は無い。
酒を手に入れてからはここへ放り出していたのだが、今となっては藁にも縋る思いだ。
酒の残る体には良くないと分かっていても、袋からいくつか使っただけのシートを取り出し、飲もうと掌に押し出してふいに違和感を覚えた。
常用していた睡眠薬は、白い錠剤だったと記憶している。
いつも無造作に掌へ押し出してすぐ飲み込んでしまう所為で余り気にしてはいなかった。
けれど手の中にあるシートに納められた錠剤は、薄いオレンジ色をしている。
眉を顰めて手を裏返した私は、背面に書かれている薬の名前を見る。
そこに印字されている名前は、医者から処方されたはずの名前ではなかった。
「…………」
精神科では向精神薬と偽ってビタミン剤を出す場合があると耳にした事もあるが、私の場合は精神的なものではなく不規則な生活からくる不眠だ。
薬を偽る必要などどこにもなかった。
処方されるたびに生活を改善しろと口を酸っぱくして言われてはいたが、違う薬を出された事は無い。
貰った当初はちゃんとした名前が印字されていたのも白い錠剤がシートに収まっていたのも覚えているから、決して睡眠薬ではない物を貰ったわけではないはずだ。
ならばなぜこの手の中の薬は全く違うものになっているのか。
浮かぶ可能性は一つ、誰かがすり替えた。
誰か、そんなものは決まっている。
この家に出入りできるのは自分と、あともう一人しかいない。
隙などいくらでもあるし、永四郎は一度この薬に触っている。
私が夢に抵抗して部屋に籠ると言った時、彼はこの薬を私室にいる私に手渡してきた。
その時ならば、誰に憚ることなく堂々と薬を入れ替えられるだろう。
けれど私には無暗に彼を疑うことはできても、その理由が見つけられなかった。
私の睡眠を、わざわざ薬をすり替えてまで邪魔する理由など彼には一つとしてないはずだ。
子供が持っていていい薬ではない、とにかく彼がまだそれを持っているなら返してもらいたい。
捨ててしまったのならば、二度とこんな事はしないように諌めなければならない。
帰ってくる彼を居間で待ち受けようと自室の扉に私が手をかけた瞬間、玄関の呼び鈴が家中に響いた。
思わず手を止めて扉の外を伺ったが、玄関が開く気配はしない。
永四郎ではないらしい。
それもそのはず、永四郎は帰ってくる時にいちいち呼び鈴を鳴らしたりはしない。
合い鍵は、もう随分前に手渡していたはずだ。
半ばほっとする私に余り間を置かず再び鳴らされ、続いて何度も呼び鈴は鳴らされる。
その喧しい音に居留守が効かなさそうな相手が訪問しているのだと悟り、廊下をまっすぐ進んで玄関へ向かった。
「はい…?」
玄関を開けると外の眩しい光が視界に無理やり入りこんで、私は否応なく目を眇める事になる。
元々優しい顔立ちをしているわけでない私は、そうすることでより一層とっつきにくい表情になるのだと知り合う人間皆が口を揃えて言ったものだ。
「…………」
扉の前には誰もいなかった。
薄暗い玄関口とは違う日が当りすぎて白けたように見える少し離れた門柱の所にも、誰もいない。
近所の子供が根性試しでもしに来たのだろうか、こういう悪戯は頻繁では無いものの時たまある。
陰に隠れて、家から出てきた私を好奇心に充ち溢れた瞳で見つめているのだ。
今は感じることもできないその無邪気な悪戯の残骸に、何処か安堵した。
部屋に戻ろうと視線を落とした私は、玄関の前に置かれた白い物を見つけて立ち止まる。
それは私にとって不愉快そのものであり、できれば二度と目にしたくないものだった。
風や何かで飛んできたとは到底思えない、玄関の扉に対してまっすぐ置かれた白い封筒。
私の名を象る紫色のインクから匂い立つようなその存在感に、思わず天を仰いだ。
神とやらの存在を知っていれば聞いてみたかった、私は一体前世でどんな罪を犯してこんな罰を受けているのだろうかと。
私はとうとう見つかってしまった。逃げてきたはずの、ストーカーに。
2010/08/02:完成
2010/08/04:UP