少年7

 その時の私の心情を、何と説明すればいいか。
 生温い手で腹の中を掻き回されるような、血に濡れた他人の手が背中に貼りつくような気味の悪さ。
 ようやっと逃げ切れたと思っていたそれが、またすぐそこに迫っている。
 今の自分にはとても、それに対峙する心の余裕などないというのに。

 私はそれからしばらくの間、ただ何をするでもなく家の中をぐるぐると歩きまわっていた。
 なにぶん狭い家だから、すぐに全ての部屋を回り終えてしまう。
 けれどじっとしている事は出来なかった。

 どうすればいいのか、そればかりが頭に浮かんでは消えていく。
 全ての部屋を何度か回り終えた後戻ってきた自室に辿りついてようやく、片手に持った封筒を机の上に手放した。

 代わりに掴んだのは、机の傍に置かれている酒の瓶だった。
 新垣から送られた物はとうに無く、掴んだ瓶は私が自ら買ってきた酒だ。
 贈呈品ではなく、地元の人間が飲む強い酒。

 逃げるつもりは毛頭なかった。
 ただ少し、心を落ち着かせて欲しかった。

 煽った酒が喉を焼き、眉を潜めて噎せながら手の甲で口を拭う。
 大きく深呼吸をしてから机の上の封筒を手に取った。
 切手も消印も、差出人の名前も住所すらも無い。
 やはりストーカーは、この家を突き止め自らこの封筒を投函したのだろう。

 けれどなぜ、ここは東京からは遠く離れた沖縄であるはずなのに。

 もう一度酒を喉に通してから、封を切る。
 中には分厚く重ねられた便箋の束。
 この枚数自体は、まだファンの一人であった頃から変わらない。

 印字されている文章は、いつもと同じだった。
 最近発売された私の新作の感想と、それを生み出す私がどれほど素晴らしい人間か、それを見抜いた自分がどれほど私を愛しているか。
 そして私とこの手紙の主が、運命と言う逃れられない物で繋がっているのだと洗脳しようとする文面だ。

[ところで、お引っ越しされたそうですね。余談ですが、私も少し前に引っ越しました。なのでもうこの手紙を読んで頂ける事がないのかと、少しばかり寂しく思っていました。しかし、今回の事でやはり私と先生は運命で繋がっているのだと確信しました。]

 最後の一枚に、手紙の主が私を見つけた軽い経緯が書いてあった。
 偶然なのか、それとも探し回って追いかけてきたのかは定かではないが、そこには私を見つけた歓喜が溢れていた。

[先生が私と同じように、私を大切に思ってくださっている事は重々承知しております。ですがもうしばらくの間、姿を隠している事をお許しいただければと思います。今はまだ、私は先生の前に姿を現す事ができません。]

 十数枚にも渡る紙の束を机の上に放り出して、絶望と落胆に耐え切れず背凭れに沈み込む。
 古びた天井が迫ってくるような重苦しさに息を吐き出しても、事実は何も変えられなかった。

 相手は東京に住んでいる。
 ならば沖縄であれば、そうそうは追いかけては来られないだろう。
 相手にだって生活があるはずだ。
 そもそも、姿も現さずに陰から人を追い詰めるような真似をする人間だ。
 ならば、普段はきっとその異常性を押し殺して真面目な生活を送っているだろうと思っていた。

 しかし実際はどうだ。
 偶然、そんな訳があって堪るか。
 私が沖縄への移住を決意した頃、偶然このストーカーも沖縄へ引っ越しをしていたなんて事があるはずがない。
 この男だか女だか分からない人間は、意図的に自分を追って沖縄へ来たのに決まっている。
 どうやって?そんな事、私に分かる訳がない。
 
 投げやりな思考の裏で、執拗に自分を追ってくる存在に追い詰められる。
 金や名誉に目が眩んでいる人間の方が、まだ良い。
 このストーカーは、歪んではいるが私を求めている事がこの何年かでよく分かっていた。

 やはりあれがいけなかったのだろうか、しかしあの時点でそれが分かる訳がない。
 何度も考え言い訳した事を繰り返してから、机の一番下の引き出しを開けた。

 このストーカーの手紙は全て他のファンレターとは別に保管してあり、その場所が仕事をする机の一番下の引き出しだった。
 無言電話のテープもここに入れてある。

 もう色褪せてしまった封筒を一枚取り出して、私は片手に持ったままの酒を再び呷る。
 頭の芯が痺れ、ぼうっとし始めるのが分かった。

 証拠集めだと、新垣や出版社の人間にはそう言っていた。
 けれど本当は私自身の抑え切れない好奇心と、ほんの少しの贖罪のためだった。

 あれはまだこのストーカーが普通の一ファンだった頃だ。
 世間一般で見られる、普通の読書好きな人間であり世に出回る数えきれない程多くの書籍から私の小説を気に入ってくれた人間の一人。
 片手に余るくらいの数のファンレターがその人から届いた時、私は興味本位で手紙の返事を書いた。
 内容は在り来たりだったが、色々な期待を抱かせるものであっただろう。そう、私がそういう風に仕向けた。

 他にも手紙をくれた人は何人かいたのだが、私は一番厄介になるであろう人間を選んで接触した。
 その返事を送ってすぐ、踊り上がらんばかりの喜びを書き綴った手紙がまた投函されて、けれど私はそれには返事をしなかった。
 私の好奇心は、そこで満たされてしまったからだ。

 その人の手紙の中に微かな妄執を見つけ、それに火を付けられた人間がどこまでのめり込めるのか。
 それをこの目で見てみたくなり、そしてその人は私の好奇心に応えてくれた。

 私の返事を読んだ後の手紙は、それ以前とは一変していた。
 それから今まで、手紙の主は私に囚われている。

 新垣にもこの事は伝えていない。
 バツが悪いとかそういう理由ではなく、私は強い不快感を感じながらもその反面この手紙の主がどこまで落ちていくのかを楽しみにしている節があったからだ。
 そしてそれをいつか、書き起こしてみたいとも。

 何かしでかして警察に捕まるのも一興、巧妙に逃げ隠れをして私の所にまで辿り着くのもまた娯楽性のある結末だろう。
 私が人付き合いを好きでないのは、あの幼い日に嬲り殺したネズミと人間の差をあまり感じられないからでもあった。

 けれどもそれを、私は東京へ捨ててきた。
 捨ててきたつもりだった。
 要は飽きたからだ。

 いつまでたっても私の所へ辿り着く事も出来ず、かと言って刃物を持って襲って来る訳でも警察に捕まえられて支離滅裂な供述をするわけでもない。
 ただひたすらに私の小説を読み、手紙を送り、愛を囁く。
 それは好奇心を刺激される物では到底なかったので、私は放り出す事にしたまでだ。

 思っていた以上の執着には嫌悪感しか感じない。
 取り出した封筒と新しい封筒をまとめて引き出しに放り込み、足で蹴って閉じた。

 それからもう一度、と酒の瓶に口を付けたが空になっているのに気付く。
 いつの間にそれほど飲んでしまったのだろうか、そう思いながら立ち上がれば床が揺れる。
 酒を飲む事を何よりも楽しみとしている人間の多い沖縄で生まれ育った私だが、胸を張れるほど酒に強い訳ではない。
 飲めば酔うし、二日酔いにもなる。
 今日とて酷い二日酔いだが、それでも飲まずにはいられなかった。

 新しい酒を求めて台所へ出てきた私は、戸棚の中に入っている封を開けていない泡盛に手を伸ばす。
 ちゃぷりと微かな音を立てて揺れる私の大切な友人は、眠りの役目こそ不十分だが不快な気持ちを誤魔化すには役に立った。
 その封に手を伸ばした時、背後で電話が鳴り響く。

 リリ、と一旦短い音で切れたそれは、次の瞬間には何事も無かったようにいつもの長さで鳴り響き始める。

 断続的なそれが二日酔いの頭に響き、思考を鈍くさせる。
 外で泣き続ける煩い蝉の音が、全く聞こえなくなった。


 あの手紙の主からだ。

 私は訳も無くそう思った。

 そしてその考えは、寸分の狂いもなく命中した。

 留守番電話が、いつものメッセージで応答する。



『…………………………………………………………………………………知念先生…………、』



 足元からものすごい勢いで這い上がってくるのは、怖気だった。
 不快感でも嫌悪感でもなく、私は手紙の主に初めて恐怖した。

 ただ名前を呼ばれるだけの電話は何度も受けてきたはずなのに、この電話に限って足が震えるほどに感情を揺さぶられた。
 東京にいた頃と同じストーカーの声、しかし漕げるように暑い夏の最中にいる私は気付いてしまった。

 知っている、この声を。

『今、そちらに行きます』

 吸いこんだ息は、風鳴りのような音を立てて私の喉を塞いだ。
 通話の切れる音に弾かれて、足が勝手に電話の方へ向かう。
 震えた指先で、留守番電話の機能を切った。
 これ以上、その声を録音してほしくはなかったからだ。

 けれど電話は再び鳴り始める。

「っ……」

 延々と鳴り響く呼び出し音に、受話器を持ち上げてすぐに切った。
 静まり返った部屋の中に安心したのも束の間、電話は再び私を求めて鳴り始める。
 だから私も、受話器を持ち上げてまた切った。

 何度も、何度も。

 何度も何度も。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も!

「あああああああっ!」

 耐え切れなくなって電話ごと持ち上げ、それを床に叩きつけた。
 コードが引き千切れて呼び出し音が静まるのを背後で感じながら、自らの寝室へ駆け戻る。

 駆け戻った勢いのまま寝台に倒れ込んだ瞬間、片手に持っていた酒の瓶が滑って床に叩きつけられた。
 床が濡れてしまったと少し考えたが、私はもう何を考えるのも嫌になって毛布の中に潜り込む事にする。

 蝉の鳴く声はまだ聞こえてこない。
 静まり返った部屋の中で、目を閉じて全てから逃げ出そうと必死で眠ろうとした。

 どれほどそうしていたか、知れない。
 長い間だったような気がする。
 戻ってこない蝉の音に耳を澄ましていた私は、微かに聞こえる電子音に体を竦ませた。

 そんなはずはない。
 家の電話は先程壊してしまったのだからもう鳴らないはずだ。
 私にその恐ろしい現実を見せる事はないはずだ。
 それなのになぜ、私を呼ぶ電子音が聞こえてくるのか。

 けれどその音もだんだんと小さくなり、ついには聞こえなくなっていった。
 意識が混濁していくのを感じて、その時確かに、私は眠りに落ちたと思ったのだ。



 本当に私が落ちたのは、逃れられない悪夢の底だったというのに。



 体が鉛のように重いのは、夢の中にいるからだ。
 私はその事に酷い安堵感を覚えて、ゆっくりと目を開けた。

 唐突に目の前にいるのは、いつもと同じ人物。
 私を長い間悩ませ癒してくれた、淫らがましい夢の象徴。

「……大丈夫ですか?」
「あ……」

 柔らかい、菩薩のような微笑みを湛えた永四郎。
 熱を計るように額に当てられた手は大きく、決して女性のようにたおやかではないのに私を欲情させる手だ。
 その手が頬に触れた時、私の手は彼の肩を掴んでいた。

 やはり、女性のように華奢では無い。
 けれども、張りのある感触が何より私を興奮させた。

「っ、永四郎……!」

 寝台へ引きずり込んでも、永四郎の微笑みは崩れなかった。
 この出来事が私の頭の中の、夢の中の出来事だと言うのを現しているような気がして、私は更に安堵した。

 何をしても、咎められることはないのだここでは。
 私はこの欲望を、好きなだけこの少年にぶつけられる。

「二日酔いは、もういいんですか……?」

 しっとりと濡れた声に頷くと、そうですか、と深く頷かれる。
 言葉を紡ぐたび動く蠱惑的な唇を見つめる私に彼は続けた。

「なら……キス、してください。俺に」

 ガサリ、とビニールの擦れる音が傍でしたなど、私は気付きもしなかった。




2010/08/02:完成
2010/08/05:UP