木手は薄暗い廊下を歩いていた。
来週に他校との練習試合を控えており、晴美とその件で打ち合わせをしていたのだが思った以上に長引いたのだ。
そのおかげで、外はもうすっかり暗くなっている。
廊下の電気は付いているが光の量が弱い。
窓の外に広がるグラウンドの暗闇が、廊下にまで迫っているようだった。
生徒達の溌剌とした喧騒が昼間の学校の表情とするならば、夜はさしずめ思春期の鬱々としたやり場の無い衝動の溜まり場だ。
何色を混ぜても変わらない闇色は、ドロドロとした粘性を持ってどの生徒達の心にも絡み付いている。
木手は他人事のようにそんな事を思いながら下足室へ向かう角を曲がった。
ピチャリ、ピチャリ、とどこかで水滴の落ちる音が聞こえてくる。
誰かが蛇口を閉め忘れたのだろうとは予測が付いたが、その小さな音が耳に届くほど辺りが静かなことにまで気付いてしまった。
誰一人、校舎に生徒はいないらしい。
勿論職員室には晴美を始めとする教員達がいる事は分かっているが、その音も気配も光もここには届いていない。
下足室は廊下と違って既に明かりが落とされていて、木手は思わず足を止めた。
暗闇を怖がる年齢はもうとうに過ぎたが、流石に自分が目を開けているのかいないのかすら分からないような空間に飛び込むのは気が引ける。
木手は幽霊や怪談の類を信じない性質ではあったが、暗闇は人の本能の部分を擽って恐怖心や焦燥感を駆り立ててくる。
しばらく立ち止まって暗闇に目が慣れるのを確認して、ぼんやりと見える下足箱に片手を触れさせながら自分の靴が置いてある場所へ向かった。
手探りで何とか靴箱を見つけた時、そこでようやく下足室の明かりをつけてしまえばよかったのだと思い出して振り返った。
しかし今から戻って明かりを付け靴を履き替え、また明かりを消しに行くのは面倒で結局はそのまま靴を床に落とす。
上履きを脱いで靴を履き、爪先を床にトントンとぶつけて足に馴染ませる。
脱ぎ捨てた上履きを片手で拾い上げた、その時。
「永四郎」
悲鳴を上げなかったのは、単純に木手が幸運だっただけだ。
体が竦みあがった際、吸い込んだ空気がヒュッと音を立てて喉を塞いだから。
思わず取り落とした上履きが乾いた音を二つ、辺りに響かせる。
地を這うような低いその声に驚いたのもあった。
だが、さっき木手が振り返ったとき下足室には誰もいなかったのではないか。
誰かいたなら、木手は確実に電気を付けてくれと頼んでいるはずだ。
それに、人の近づく足音も聞こえてこなかった。
だったら、今背後から自分を呼んだのは、一体『何』だ。
一度吸い込んだ空気をみっともないくらい震える吐息で零して、ゆっくりと振り返る。
そこには、自分よりも背の高い影がぼんやりと浮かんでいた。
今度は、安堵で木手の方から力が抜ける。
「びっくり、した…怖がらせないでよ、知念クン」
黒い影は嬉しそうに笑う、笑っていると木手は思う。
実際は暗くて木手には見えないのだが、知念はよくこうして誰かを怖がらせては口元にうっすらと嬉しそうな笑みを浮かべているのだ。
「帰ったんじゃなかったの?」
しゃがみ込んだ影が、まるで暗闇の住人のように迷いの無い手つきで上履きを拾い上げて木手の靴箱へ入れる。
パタン、戸と閉めた手がしっかりとした体温を伴って木手の手首を掴みそのまま昇降口へ歩き出す。
「……待ってた。暗くなると危ないさ…」
「ここで?」
「……やーの彼氏だし……わん、夜目がきくから」
これぐらいなら見える、と声は言う。
先に立って重い扉を開けた知念の後ろから外に出ると、廊下からの光の為に校舎のすぐ側を歩けば下足室よりも外の方が幾分か明るかった。
もう木手にも十分見えるのだから手を引かれる必要は無いが、グラウンドには誰もいないのだからと木手は自分の手首を掴んでいる知念の手に指を絡ませる。
横から照らされる知念は、薄暗くとも分かるくらいには赤くなっていた。
「…あんまり驚かせないで」
「無理」
普段寡黙なくせにこういうことだけはきっぱりと断ってくる。
人が怖がったり驚いたりするのを見て面白いのかと問えば、少し考えた末にやはり頷いた。
平古場や甲斐なんかはよく部室で驚かされているらしく、コートの方にまで叫び声が響き渡る事がある。
不知火に至っては知念と二人きりになることを極端に逃げる節があり、よく新垣が引っ張られているのを見る。
今のところ人間関係に問題は無いが、やはり面白がって人を驚かすのはよくないだろう。
「なら、サプライズパーティーとかやればいいでしょう」
「ぬーやが」
「誕生日とかに、いきなりケーキやプレゼント出して驚かせるとかテレビで時々やってるでしょう」
「あぁ…」
「ああ言うのなら、みんな喜んでくれますよ」
返事が無いので彼の顔を見上げると、彼は彼なりに何か考えているらしかった。
何とか収まればいいけど、そう思いながら木手は彼の隣を歩く。
次の誕生日に、知念が真夜中に木手の自室へ忍び込み、炎色反応を利用した緑色の人魂を片手にハッピーバースデーを歌ってくれるなど木手は思いもしなかった。
end
完成:2007/12/10
UP:2007/12/10