永四郎は一本の張り詰めた糸みたいだ。
鋭利なもので触れるとすぐに弾け飛んで消えてしまいそうで、俺はいつも永四郎に接するときは恐る恐るだった。
体の外側に薄い膜を張り巡らせて、必死に自分を覆い隠している。
永四郎には自分で自分を守るように腕を回す癖がある。
人によっては腕を組んでいるようにしか見えないけれど、アレは永四郎が自分を守ろうと無意識にする仕草だと俺にはそう見える。
終わったことだと、永四郎は言ったけど。
多分あいつの中ではまだ何も終わってないし、何も始まってない。
守りたい、助けてあげたいと思ったのはいつだったか、多分アレを目の当たりにした時だと思う。
それまでだって、ある日を境に突然塞ぎこむようになった永四郎が、放課後1人で何処かへ行ってしまうのを気にしていたけど。
知らない大人に手を引かれて廃屋に連れ込まれる永四郎は、日に焼けた肌なのに真っ白い人形みたいな顔をしてた。
始めは、中で何が行われてるなんて知らなかった。
一緒に入ってバラバラに出てくる二人がいなくなるのを見送って中に入ってみたのは夏の暑い時期だ。
噎せ返るような性の臭いに、その場で吐いたのを覚えている。
次の日にすぐ、永四郎に行くなよと言えれば良かった。
でも俺は、あの廃屋で永四郎が何をされているか俺が知ってると永四郎に知られた時、あいつがどんな反応を返すのかが怖かった。
張り詰めた糸を俺が切ってしまいそうで、怖かった。
結局、行くなと言えたのはその年が終わる冬になってから。
永四郎は、知ってるの、と言ったきり何にも言わなかった。
それから、永四郎は学校が終わると真っ先に俺の家に来て部屋の隅で小さくなっていた。
今思えばあの大人が俺の家なんか知っているわけが無いと分かるのに、子供だった俺と永四郎は夜が来て永四郎の母親が迎えに来るまでビクビクしていた。
俺は、こんな顔して楽天家で夢見がちで。
永四郎に本当に好きな人が出来たら心の傷だって良くなるって思ってた。
その相手が自分だったらいいとも。
だけど月日がたって、俺も永四郎もあの知らない大人が永四郎に強いてた行為の意味をちゃんと理解できて、そしてそれが出来るようになって。
俺も永四郎もちゃんと人を好きになって。
それは俺が望んだとおり俺は永四郎で、永四郎は俺で。
『永四郎、わん…永四郎が好ちなんど。その…キスしたいとか、そういう…意味で』
だからそう言った時、俺は自分はあの知らない大人とは違うと思ってた。
事実俺は欲望だけを永四郎にぶつけたあの大人とは違うし、永四郎を傷つけるつもりも無い。
だけど、俺の告白を聞いたときの永四郎はあの日と同じ人形みたいな顔だった。
『え…?何て言ったの?』
『あ、…だ、だから…わん、永四郎ぬくとぅ、好ちなんばぁよ』
聞き返されたとき、よくもう一度言えたなと正直自分で思った。
一呼吸置いてから永四郎は少しだけ首を横に傾けて、それから俺も好きだよと答えてようやく目を細めて笑ってくれたけど。
嬉しいと思うより、背筋が凍るようだった。
それから、…それから?
俺達は付き合ってるのか、そうでないのかすごく中途半端な位置にいる。
朝練で会って、お互いの教室で授業を受けて昼飯を平古場たちと一緒に皆で食べて、放課後は部活をして、それぞれ家に帰るいつもと同じ生活の中。
部活の後、時々俺か永四郎の家、もしくは近くの浜辺で二人きりになる事が増えただけ。
俺達は自分達を頑なにあの大人とは違うと思い込んでいて、だから普通の、男女の付き合いと同じように手を繋いでみたりした。
嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになるのは俺だけで、永四郎はその頃は顔にこそ出さなかったけれど多分怖かったんじゃないかと思う。
でも駄目なんだと、本当に駄目なんだと気付いたのは俺の部屋で二人きりになった時。
馬鹿な話だけどその時の俺はまだ何にも気付いてなくて、二人きりになれるのが嬉しくてドキドキして緊張していた。
だから唇を触れ合わせたときも永四郎の体が固まったままなのを、自分と同じで緊張しているからだと思って嬉しくなったりもした。
焦る自分を抑え込んで永四郎を押し倒した時、俺はようやく気付いた。
永四郎は廃屋に連れ込まれる時と同じ表情のまま、焦点の合わない瞳でぼんやりとこちらを見ているだけで。
そこまでしてようやく、俺は自分があの大人と同じになってしまったんだと途方に暮れた。
『…永四郎』
起き上がって声をかけると、永四郎はまるで夢から醒めたようにハッとして俺のほうを見た。
俺と同じく体を起こした永四郎の目に光が戻っているのを確認した俺が肩から力を抜いたので、今度は永四郎が途方に暮れたように俯いてしまった。
でもすぐに顔を上げて、さっきの俺と同じくらい焦って自分の服に手をかけてきた。
『ごめんなさいね。でも、…知念クンが、…したいなら、できるから』
ね、だから…ね?と言い募ってくるのに、応えられなかった。
ボタンを外す手を握るとすぐに固まってしまうのに、俺にあの大人と同じ事をしろと言う。
俺は永四郎が好きなのに、永四郎が多分世の中で一番嫌な事をしろと言う。
酷い事を言うと思った。
けど多分誰よりも酷いのは、本当は永四郎が嫌がろうが泣こうがそれをしたいと思っている俺だ。
『俺は平気だから…』
泣きそうな声なのに永四郎の目には涙が少しも溜まってなくて、それが逆に痛々しい。
衣擦れの音にさえ掻き消されそうな小さな声で、だから嫌いにならないで、と永四郎が言った。
その時、昔今自分たちのいるこの部屋の隅で小さくなっていた永四郎を思い出した。
永四郎はあの時から何にも変わってなくて、俺だけが醜い欲を持った大人になろうとしているんだ。
『知念クンが好きなの…好きだから…』
『わかってるさー』
壊れたCDみたいに何度も繰り返す永四郎に触れて落ち着かせることも出来ないまま、俺はその度に頷くだけしか出来なかった。
その後も、永四郎があんまり強く乞うものだから、何度か欲望に負けて触れてみた事がある。
けれどあいつが人形のように身を強張らせてしまったら、俺はそれ以上自分の欲を押し進める気にならない。
だから、永四郎と二人になっても俺はあいつには触れない。
何かの拍子で触れてしまうと、永四郎はただ穏やかにごめんなさいね、と言う。
ドキドキするのも動揺するのも俺だけで、永四郎は俺に謝る。
自分を責めて、俺に応えられない自分を不甲斐ないと詰って。
本当に不甲斐ないのは、ただ欲を押し付けてこれっぽっちも永四郎を救えない俺なのに。
今日も部屋の中には俺と永四郎。
時間が過ぎるとどうしたって触れたいと思ってしまう俺から、永四郎はいつも不自然に目を反らす。
寂しい気持ちもあるのが本音だけど、怖いのを表に出すようになっただけでも少しマシに思えた。
「知念クン、あのね…」
「わかってるさ、わかってる」
大丈夫だからと言い聞かせるように言っても永四郎の表情は晴れない。
負い目と、不安と、一緒くたになって贖罪のようにあいつは言う。
「知念クン、俺も知念クンが好きですよ」
「わかってるさ」
「うん、ごめんなさいね。ごめんね、知念クン」
「わかってる、永四郎。わんこそ、わっさんど」
お互いに謝り合っている間、俺はいつも思う。
もし俺が、永四郎の傷を知らないまま付き合ったらどうなっていたか。
きっと俺はその傷を知らないまま永四郎を抱いただろう。
その時に永四郎がどうなってしまうのかまでは、想像したくなかった。
しばらくの沈黙の後、永四郎はため息と共に吐き出した。
「知念クン、いつか俺じゃない他の人を好きになって」
そう言われると、俺はいつも永四郎に触れたくて堪らなくなる。
触れて、犯して、永四郎にとって嫌で堪らないその瞬間に、彼の首を絞めて殺してやりたいと思う。
思うたびに、あぁ俺はやっぱりあの大人と同じなんだと途方に暮れる。
2008/01/12:完成
2009/02/07:UP