It's not over 1 -木手-

 武術以外に楽しいことなど、この世にはないと木手は思っていた。

 精神を集中して、型を追う。
 幼い頃から祖父に叩き込まれた武術の基礎を応用し、近隣の子供の誰よりも強くなった。
 土日以外の夜9時から、木手は祖父と一対一で稽古をつけてもらっていた。
 いわゆる秘蔵っ子と言う奴だと、誰かがやっかみ混じりに言っているのを聞いた事があった。

 祖父は木手に道場を継がせようと思っていたため、井の中の蛙にならないよう時折は道場で教えている子供達と試合をさせた。
 けれど祖父の弟子である師範に教えてもらっている子供達と、幼い頃から祖父直々に基礎を叩き込まれてきた木手との実力の差は歴然で全く相手にならなかった。
 だから本気を出してはいけないと祖父の教えを守って、木手は大抵の試合にわざと負けていた。


 その時、自分が一瞬本気になりかけた少年達がいたのを、木手は良く覚えている。


 木手は平日の夜は稽古に使い、それ以外の時間は全て塾と勉強に明け暮れていた。
 祖父と違って母親は木手を東京の有名私立中学へ入学させようとしていたからだ。
 幼い木手にとっては勉強よりも体を動かす武術の方が好きだったが、母親の「勉強しないと不幸になる」と言う言葉を半ば脅迫のように信じ込まされていた。

 だから木手には友人らしい友人はいない。
 唯一木手と昔から行動を共にしているのは、同じ塾に通う田仁志だった。
 同じ年代の子供にしては背の高い彼は、その分よく食べるために横にも大きかった。

 その肥満解消のため、木手の道場へ通うようになったのだ。
 けれど彼は平日塾の後に家庭教師を雇っているらしく、普通の子供が通う時間帯には到底来れない。
 木手と祖父を二人きりにして変な考えを植え付けて欲しくない母親が、それならばと強引に祖父を説得し田仁志が夜の九時からの稽古へ来る事になった。 

 塾も道場も同じ、そうなれば仲良くなるのは早い。
 始めは覚えの悪い田仁志に木手が基礎を教え、その内二人で手合わせをするようになった。
 実力は雲泥の差だったが、上達の早い田仁志を教えるのは木手自身基礎の復習になるので大いに役に立った。
 そしてその実力もじわじわとだが確実に縮まりつつある。

 その木手がテニスを知ったのは、5年生の頃だった。
 本土にいる叔父の所へ遊びに行った時、誘われて少し遊んでみた。

 元々運動も武術も得意だったから、テニスも出来ると思い込んでいた木手は自分が簡単に左右に走らされ、1ゲームも取らせてもらえないのに愕然とした。
 思いっきり打てばボールは明後日の方向へ飛んで行くし、力が弱ければ相手のコートに入らない。

 右に左にと様々な方向へ飛んでくるボールに、まだ縮地法を知らない木手は追いつけずついには転んで膝を擦りむいた。
 後にこれが慢心している木手に対しての祖父なりの戒めだったと知るのだが、この時はそんな事など全く知らなかった。

 ただ、悔しくて、そして面白かった。

 勉強も、運動も、武術も、自分の中で重要なものは大抵何でも出来たのに、さして重要とも思っていないテニスが出来ない。
 幼く、まだ狭い世界で生きている木手には、自分にできない事があるのが新鮮だった。
 悔しいと癇癪を起こさない辺りが今時の子供らしくないと叔父は祖父に進言したらしいが、祖父は僥倖だと笑ったという。


 そして、彼は瞬く間にテニスへ傾倒していった。
 勿論祖父の教えがあるから、武術の稽古は忘れない。

 限られた時間の中で削られるのは、勉強と塾だった。

 母親が猛反対するのにも関わらず、木手は父親に頼んでテニススクールへ入学した。
 塾の時間を週5日から3日に減らし、テニススクールへ通う。

 武術の型が染み付いている体にテニスの素振り練習は苦痛だった。
 フォームを教えてもらっても、すぐにおかしくなってまた直される。
 切り替えが上手くいかずにイライラしたが、次第にそれも慣れてきた。

 フォームが上手くいくとコツを掴んだも同然で、木手は上達していった。
 限られたルールの中でいかに相手を出し抜くか、ギリギリのラインにボールを叩き込むか。
 その駆け引きとスリルが、武術と同じ楽しみを木手に齎した。

 面白くないのは母親だった。
 今までは木手が武術に傾倒していたとしても勉強も手を抜かない子だったのに、テニスに興味を奪われた途端勉強に見向きもしなくなった。

 そしてついに、母親が一番恐れていた事を木手は口にした。

「母さん、俺は東京の中学へは行きません」

 それは、木手が小学6年生の夏休みだった。



 詰襟をきっちりと着こなし、通学用の鞄を手に持つ。
 鏡の前で身だしなみを整え、前髪が乱れているのに気付いてから軽く手で撫で付けた。

 小学校を卒業した次の日から、木手は田仁志と共に祖父から縮地法を教えられた。
 祖父曰く習得にはまだまだだと言うが、それでも他の有段者達に比べて上達は早いとも言われた。

「いってらっしゃい、永四郎」
「いってきます」

 母親は初めこそ激昂していたが、最後には諦めてくれた。
 私立にもテニス部はあるのよ、そっちのテニス部のほうが設備が良いに決まってるじゃない。
 母親が何度言い募っても、木手は首を横に振った。

 聡い木手は自分が母親の傀儡にされかかっているのだと気付いていたから、あえて公立の中学を選んだのだ。

 それに、初めてテニスをした時のあの感じをもう一度味わいたかった。

 上手くいかないのに楽しい、その感じを。

 玄関を出ると、一緒に行こうと約束していた田仁志がペットボトルに入ったオレンジジュースを片手に待っていた。
 田仁志の中学受験は見事玉砕し、後にはやつれた母親と勉強から解放されて心から楽しそうに道場へ通う田仁志が残された。

「おはよう、田仁志クン」
「おはよう、永四郎。…お前制服似合いすぎだ」
「田仁志クンこそ、ちっともスリムにならないね」

 既にはちきれそうな新品の制服を見ながら言えば、彼はその腹を叩きながら快活に笑った。
 昔はコンプレックスだった体型も、武術で有利になると知った彼は無理に痩せようとはしなくなった。
 現に、田仁志の大柄な体つきはゆっくりとではあるが筋肉と脂肪の比率が逆転しつつある。

「田仁志クン、あの話考えてくれた?」

 既に田仁志にはテニスのことを話していた。
 彼は武術以外には余り運動は得意ではないけれど、自分と同じくコツを掴めば何でもそれなりにやってくれる。

「んー…永四郎がやるなら付き合うよ。その内楽しくなるかもしれないしな。道場は続けるんだろ?」
「勿論」
「なら俺には文句のつけようがないな」
「ありがとう。あと、何人か誘いたい人がいるんだけど…」

 そんな話をしながらこれから通う中学校へ向かう。

 比嘉中学校には一応硬式テニス部がある。
 活動内容もそこそこだが、実績はあまり揮わないのだとか。

 ちょうど良い、木手はそう思う。

 それでこそやりがいがあるし、必ず自分がテニス部を引きずり上げてみせる。
 そのために必要な人間は、もう揃っているはずだ。

 ただ、彼らが気付いていないだけで。

 

「永四郎、俺トイレ行きたい」
「行ってきなさいよ」
「どこにあるんだ?」
「…朝からジュースなんか飲んでるからじゃない。ほらさっさと行くよ」

 会場の体育館は保護者と新入生が入り乱れ、新しい生活への緊張と不安、期待が渦巻いていた。
 そんな中でもマイペースな田仁志の言葉にため息をつきながら、木手は立ち上がった。

 少し急ぎ足で自分の前を歩く田仁志を追いかけていた木手は、彼が体育館の出口付近でよろけたのを見て首を傾げる。

「…………」

 明るい外から薄暗い体育館に入ってきたのは、新入生にしてはやたらと背の高い少年。
 けれど木手は彼を知っていた。

 道場で何度か手合わせをした少年だ。
 そして自分が、本気になりかけた少年のうちの一人。

 今はもう道場を辞めてしまっているが、筋が良いと祖父が誉めた貴重な少年でもあった。

「田仁志クン、トイレくらいさっさと済ませなさいよ」
「あいー、悪い悪い」

 田仁志に声をかけながら彼を見たが、向こうは興味の欠片も無かったようで目線は合わなかった。
 人ごみに入っても頭一つ分突出する彼の後姿を見送り、木手は前を向く。

「うっわ、裕次郎見ろよ。すんげーデブ」
「おい、凛。声がでけーよ」
「いいじゃん、デブなモンはデブなんだよ」

 そこでそんな言葉が聞こえまた先に行っていたはずの田仁志が眉を寄せてこちらを振り返っているのに気付き、田仁志を見て声を上げたらしい少年に言い放つ。

「そういう言い方よしなさいよ」
「はぁ?」

 そこにいたのは金髪の少年とオレンジ色の髪をした少年だった。
 彼らのことも、木手は知っていた。

 きつく睨みつけてくる二人は、道場での週末の部で一、二を争う実力者だ。
 いや、彼らもまた実力者「だった」少年達だ。
 いつの間にか道場に来なくなり、母親が電話で辞めると申し入れをしたらしい。

 けれど今は、それに構っている暇など無い。
 睨まれることなど慣れている木手はあっさりとそれをいなし、二人に背を向けて田仁志を急かした。

「田仁志クン、早く行かないと入学式に間に合いませんよ」
「あ、そうだな」

 未だ後ろで何か言っているのには気付いているが、振り返ることはしない。
 彼らと話をするのはもう少し後でいい、自分がテニス部の実力を見極めてからで。

「田仁志クン」
「ん?」
「俺は、絶対全国大会で優勝するよ。キミ達と」
「大きな夢だな」
「夢?違うね。予定だよ。変更の無い予定」

 校舎へ駆け出す田仁志の背中を見ながら、木手はようやく振り返って体育館の中に吸い込まれていく人の波を見つめた。


2007/08/08:完成