お狐様のお仕事

 喧しい蝉の音が響く山道を、甲斐は何の目的も無く走っていた。
 夏休みを利用して部活を休み本土の田舎にいる親戚の家にやってきていたのだが、両親は曽祖父の何十回忌とか何だかで親戚一同と一緒に昼間から酔っ払ってドンちゃん騒ぎを始めてしまったのだ。
 一緒になって飲んでも良かったが、怖い部長から旅行の間も練習を怠るなと言われたため甲斐はこうして今ジャージで山道を走っている。

 汗が流れ落ちていく不快さに顔を顰めながら山の頂上付近まで来たとき、ふと影が濃くなったのに気付いて上を見上げた。

「おぉ…」

 樹齢何百年はくだらないだろうと思われる大樹が枝を一杯に広げて日の光を遮っており、重なる青々とした葉のおかげでそこだけ温度が低く感じられる。
 後から思えば、日の光を遮っただけでこんなに涼しくなるわけではなかったのだが、甲斐はそれに気付かなかった。

 一休みしようと影の中で立ち止まると、日の光の強さの所為か影の部分は暗闇にさえ思える。
 大樹の根元に立つ朱色の鳥居を見つけて、その奥の階段に腰掛けた。

 神社でもあるのだろうか、そんなことを思いながら階段の上を振り返っていると見計らったように何か落ちてくる。
 カラン、カラン、カラカラ、カランと不規則だが美しい音色。
 涼やかな音を立てて甲斐の所まで転がり落ちてきたのは、金色に輝く鈴だった。

 石の階段を落ちてきた割に傷一つ無いその鈴を拾い上げ、目の高さまで持ってきた甲斐は軽くそれを揺らしてみる。
 カラン、カランと濁り一つ無い凛としたその音は、どこかあの男を思わせた。

「……わんって乙女だばぁ、自分がキモイ」

 大きくため息を零すと同時に、微かな声が聞こえる。
 空耳かと思って一度は無視して立ち上がったが、声は再び甲斐を呼び止めた。

「そこのお人」
「あい?わん?」
「鈴を見なんだか」

 声はすれども何とやら、自分の走ってきた山道には誰もいないのをきょろきょろして確認した甲斐は、後ろかと思い当たり再び階段を振り仰ぐ。
 思ったとおり、そこには白い着物を着た人が立っていた。
 男物の着物だから男らしい事は分かるが、逆行で顔は見えない。

「鈴、やーのか?」
「こちらへ持って来ておくれ」

 言うなり階段の向こうへ消えてしまったその人に、甲斐は無礼な奴だなと思ったもののこのまま放って帰るのも忍びないので階段を上がって行った。

「ほら、自分で取りに来ればいいさー…あれ?」

 上がりきった所にいるものだとばかり思って声を出したが、階段の頂上には誰もおらず小さな社が目の前にあるだけだった。

「あさきみよー…、まーいちゅったばぁ?」

 社の左右に立つ像は狐を象った物で、ここが稲荷を祭ったものらしいと気付く。
 狐に化かされたのかと思いながらも社に鈴を置き、パンパンと拍手を打った。
 作法など知らないが、まぁ拝むんだから許してくれるだろう、そんな事を思いながら目を閉じる。

「鈴置いとくからな。ご褒美にあいつと両思いにしてくれると嬉しいさー。…なんてな」

 思い浮かべた怖い怖い部長様は自分が今ここで油を売っているのを咎めるように睨み付けてきて、甲斐は笑いながら肩を竦める。
 まぶやーまぶやーと呟きながら目を開けると、社の屋根に1人の少年が座っていた。

 胡坐をかいて膝に頬杖を付き、微かに笑ってこちらを見下ろしている。
 褐色の肌、切れ長のきつい瞳、薄い上唇とふっくらした下唇。
 目の前にいるのは、どう考えたって木手永四郎だ。
 だが着ている服がおかしい。
 まるで死装束のような白い着物を着ている。

「あがー!」
「おや、そんなに驚くことかい?」
「やー、ぬーがくまにいるんど!!」
「ほぅ、惚れているのはこの男か。難儀だな」

 驚いて尻餅をついた甲斐の前に飛び降りてきた木手は、体重を全く感じさせない着地を見せた。
 着ている服がはためく音も、砂を踏む音すらしない。

「お前、名前は?」
「甲斐…裕次郎…」
「ほぉ、名前だけは良い名をもらっておるな」

 甲斐に背を向けて社に置かれた鈴を摘み上げ、何度かそれを鳴らして自分の手首に括りつける。
 よく見れば両手足に同じような鈴が括りつけられていたが、木手が動いてもその鈴が一切音を立てなかったのを思い出す。
 不意にゾクッと寒気が走って身を震わせた甲斐は、チラリと狐の像を見た。

「狐か」
「だったらどうする」

 間髪いれずに返した木手が肩越しにこちらを振り返る。
 そのただでさえ吊り上った瞳が更に細く吊り上り同時に口元が裂けたような気がしてハッと瞬きをすると、彼の顔はいつもの木手に戻っていた。

 ただ木手とは違う、能面のような薄い笑みをその横顔に浮かべている。

「鈴を拾った礼をしてやろう」
「礼?」
「この男に、お前も惚れてるんだろう?好きなことをさせてやる」

 どうだ?と言われてゴクリと息を呑んだ甲斐に、木手は声を上げて笑った。
 めったに見られない彼の笑顔だがやはり彼とは違う気がして、勢いよく首を横に振る。

「いらん!」
「礼などいらんと申すか」
「いらん。やーは永四郎やあらん。見た目だけ永四郎でも意味ねーさ」
「ふぅん…永四郎と言うのか、この男は」

 面白くなさそうに目を細めたその顔は、不機嫌そうな木手の顔そのままで何となくたじろぐ。
 ゆっくりと近づいてきた彼を見つめたまま固まっていると、耳元に顔を寄せてくる。

「裕次郎」
「っ…」
「裕次郎、俺を…好きにしていいんだよ」
「永四郎はそんな風にわんを呼んだりせん!!」

 振り払って後退りした甲斐は、それでも名前を呼ばれた瞬間自分の体が熱くなるのを感じていた。
 名前で呼ばれる事は、何度も頭の中で夢想した。
 呼んで欲しいと実際に頼んだ事もある、しかし木手は何故か頑なに苗字を呼び続けた。

 それが彼の答えなんじゃないかと、思ったこともある。

 だから本当なら、嘘でも木手の顔と声を持った者にそう呼ばれるのは嬉しかった。

「据え膳食わぬは男の恥ぞ」
「恥でいい。やーは永四郎じゃないんど」
「お前なぞ一生永四郎には相手にされん」
「なっ…!!」
「大方、この男の前では思いを伝える事も夜這う事も出来ずにいるのだろう。可哀想な男だ。他の男に取られるのを指を咥えて見ているのが関の山」

 図星を突かれて甲斐が掴みかかろうと手を伸ばすが、それよりも先にふわりと舞い上がった木手が社の上に降り立った。
 カラン、とその時初めて木手の手足についた鈴が鳴る。

「狐に化かされ、その狐一匹も捕まえられぬ哀れな男じゃ」
「あっがー!!くぬ野郎絶対捕まえてやるばぁ!」

 カラカラと鈴の音を響かせて社の向こう側へ消えた木手を追いかけて回り込むと、彼は森の奥へと駆けて行った。
 緑色の中をはためく白い着物はよく目立ち、甲斐は木の根や斜面に足を取られながらも必死にその背中を追いかける。

 緑が物凄い速さで左右に裂けていく。
 木手の背中を追いかけながら、少し速過ぎるんじゃないかと思うほどに。
 あるいはこれも、狐に化かされている最中なのかもしれない。

「待てこら!!」
「待たぬ。お前はそうやっていつもこの男の背中を見ておればよい」
「っ…しんけんたっくるす!」

 先を行く木手はまるで疲れを知らない。
 手が届きそうな所まで近づくのに、指を目一杯伸ばしてもあと少しのところでするりと逃げていく。
 それが現実の、沖縄に居るはずの木手と重なって甲斐はギリギリと唇を噛み締める。

 ただ見ているだけしか出来ない自分に歯痒く感じているのは自分自身で、誰よりも情け無いと思っていた。
 けれど男同士のリスクや木手がどう思うかを考えると、今の関係を壊すのが怖い。

「あぁ、一つだけ」
「っぬーがよ」
「この永四郎と言う男…、男色ぞ」
「はぁ!?うわっ、っと、あがーっ!?」

 木手の言葉に驚いて声を上げた瞬間、地面から迫り出した木の根に足が引っかかった。
 バランスを失って倒れる体が何かに掴まろうと手を伸ばした先には、木手が着ている着物の帯があった。 
 指先がそれに触れて思わず力込めると帯はスルリと解けていく。
 自分が転ぶよりも先に逃げられる事を思わず考えた甲斐が逆の手を伸ばして着物の背中を掴むのと、帯が解けたのに気付いた木手が振り返るのは同時だった。

 途端、二人とも一緒に地面へ叩きつけられる。

「いっ…、たく…ない?」

 地面は木の根が張り巡らされた固い土だったはずだ。
 だが自分達が倒れこんだ場所は、柔らかい草の生えた上に落ち葉が積み重なった緩やかな斜面だった。
 これも狐の所為かと自分の下を見た甲斐は、右肩から着物が滑り落ちた状態でこちらを見る木手と目が合う。

 太股の辺りを跨ぐように押し倒している体勢になっていると気付いて体を起こしたが、それより先に木手の右腕が伸びてきて甲斐の肩を掴まれた。
 バランスを崩して慌てて彼の頭の両脇に手を付くと、右腕はスルリと離れていく。

「え、えいしろ…っ!?」
「お前が脱がしたのではないか。何を惑う」

 ほれ、と彼が片足を立てれば白い着物の隙間から膝が突き出す動きにするすると着物がはだけて内腿が露出する。
 褐色の肌に白い着物がよく映えて、甲斐の喉が大げさに上下した。

「やしが…っやーは永四郎やあらんぞ」
「まだ言うか。面倒な男だ。永四郎とやらもさぞかし苦労しておるな」
「はぁ?」
「物欲しそうな顔で嘗め回すように見ておるのに手は出さぬ。指先が触れるのにも物怖じするのに空想ではこの男を散々嬲っておるのであろう」
「なぶっ…」

 乱れた着物の袖から左手の指先だけを出して木手が自分の首筋を撫で、鎖骨を辿って胸元を落ちていく。
 そのままかろうじてまだ隠されている股間へと滑り込ませ、甲斐と目を合わせたままゆっくり上下に動かしはじめる。

「っん…ぁ、…っ」

 始めは衣擦れだけの音、しかし次第に湿り気を帯びた小さな音が上がり、木手の動きは単調な上下運動から快楽を出来るだけ先延ばしにする動きへと変わっていった。
 乱れた合わせ目から既に露出するほど勃起したものの先端を親指の腹で擦り、いつの間にか伸ばしたもう片手の人差し指で乳首を押し潰して捏ねる。

「んんっ…」
「っ…う…ぁ…」

 想像の中でしか聞く事の無かった乱れた声に、甲斐の体が急速に温度を上げていく。
 息が詰まったように呼吸が苦しくなって、何度も大きなため息をついた。

 木手が甲斐の足の間から膝を抜いていく際、膝頭が軽く股間を掠めただけで射精しそうなほどの快楽を感じる。
 思わず声を漏らして震えた甲斐に、木手は意地の悪い笑みを浮かべた。

 甲斐の目の前で膝を開き、足を伸ばして腰へ絡み付ける。
 乱れた着物は完全に木手の体から離れ、最早腕に引っかかっているだけだった。
 全てを視線の下に曝け出す木手に、これが本物ではないと分かっていても目を反らす事は出来なかった。

「…っん…」
「…永、四郎…」
「はぁ…っぁ、あ…」

 胸を触っていた手で溢れる雫を指に絡ませて更に奥の方へと伸ばし、窄まりに指を差し入れていく。
 縁が収縮して指先を締め付け、ズブズブと中へ埋まっていくのを甲斐はただ眺めていた。
 人差し指が根元まで埋まると木手は目を伏せ、今度はゆっくり引き出していく。

「っふ、ぁ…あ、んん…ぁ…」

 時折肩を竦ませて指を抜く様は痛そうだとか苦しそうだとかではなく、どちらかと言えば弱い快楽に焦れているようでもある。
 その証拠に木手はすぐに人差し指を抜き、今度は中指と一緒に二本纏めて中へ突っ込んだ。

「あ、…あぁ…っあ…」

 根元まで押し込んだ後、抜き差しをするのではなく中で円を描くように動かして腰をくねらせる。
 指を食い締めて離さない縁がヒクヒクと蠢くのを食い入るように見つめる甲斐に、木手が甘いため息を零して告げた。

「みっともない。犬みたいな息…。そこでずっと見てなさいよ…っぁ…、」
「永四郎…」
「ずっとそうしてなさい。俺のこと犯したいって思いながらただ想像するだけで、本当は何も出来ないのよね。意気地なしよね、…甲斐クン」

 いつの間にか口調が変わったのを不思議に思う余裕は無かった。
 木手の声でいつものように名前を呼ばれた瞬間、一瞬息が止まって次の瞬間叫びだしたいような衝動が甲斐を襲う。

「っ、あ…何、甲斐クン…!?」

 突然強い力で自分の肩を掴む甲斐に怪訝そうな声を上げる木手に構わず体を裏返し、尻を覆う布地を背中の方へ捲り上げた。
 体勢を変えられたせいで木手の体内から指が抜け、甲斐が彼の腰を掴んで引き上げると赤く色づいた窄まりが眼下に晒される。
 慌てた仕草でジャージと下着を一緒に下ろすと既に硬くなって先端を濡らしている自身を掴み、咥え込むものを急に奪われて収縮を繰り返しているそこへ押し付けて一気に突き上げた。

「っひ…、ぁっ…!!」

 乱暴な挿入に逃げを打つ木手の項を、まるで獣を捕らえるときのように後ろから片手で押さえ込む。
 ひゅうひゅうと掠れた呼吸音を喉から発して声も出ないでいる木手の耳元に顔を寄せて、そこへ軽く噛み付いた。
 木手の腰を片手で掴んで引き寄せながら、自らの腰を叩きつけるように木手を揺さぶる。

「んんっ…ん、甲斐クっ…ぁ、…あっ…」
「っは…は、ぁ…っく…」
「ぁ、…駄目…や、ぁ…甲斐クンっ…奥、ぁア…っ」

 緩やかだが傾斜のある場所に押さえつけられている所為で、甲斐が突き上げるたびに自らの重みで斜面を落ちてくる。
 その度に奥の方を乱暴に擦り上げられるのが堪らないのか、嫌がるように首を左右に振って腕を伸ばし逃げようと地面に爪を立てた。

「今更、っだろ…っ」
「っひ…ぃ、…っぁ…っ…」

 逃げる体を上から体重をかけるようにして押さえ込み、片腕を掴んで自分の方へ引っ張る。
 そうしてうねうねと蠕動して甲斐を締め付けてくる内壁を突き上げると、角度が変わったのか動けない体が何度も跳ね上がった。

「あぁ、あっ…ん、ぁア、ああぁ…!」
「ぬー、がや…っ…」
「や、あっぁあ…っ、そこ…ぁアっ…」

 上擦った高い悲鳴交じりの声くを上げ、逃げようとしていた時とは打って変わってこちらに腰を押し付けてくる様子に甲斐も煽られ、木手が悦ぶ場所を意識して突いた。
 途端に内壁が一層狭くなり、次第に意識が快楽で霞んでいく。

 今自分が揺さぶっているのは木手なのか、乱れて声を上げているのは木手の姿をした人ではない者なのか。
 それすら、霞んでいく。

「…永四郎っ…、うっ…、…っ」
「甲斐クンっ、甲斐…あ、あ…ああァ…っ」

 尾を引いて溶けるような甘い声で何度も名前を呼ばれて、整えた髪を振り乱してもう駄目、と泣き声で懇願する。
 夢中で腰を振る木手の項から手を離し、頭上の草を掴んでいる彼の手を覆うように掴み甲斐も射精するためだけに彼の中を擦り上げた。

「ぁ…っはぁ、あ…甲斐クン…っあぁ…っ」
「…っふ、ぅ…永、…四郎っ…」
「っ、ア…ぁ…っ…!!」

 喉を反らせて声にならない悲鳴を上げ、木手が絶頂する。
 びく、びく、と断続的に身を震わせる度に草の上へ精液が吐き出され、甲斐を包み込む内壁が搾り取ろうとするように蠢いた。
 それを感じた途端、込み上げる射精の衝動に逆らえずそのまま木手の体内で射精する。

「っは、ぁ…っ」
「あ…あぁ…ぅ、ん…ん…」

 ぐったりと草の上に突っ伏す木手の横にゴロリと寝転がった甲斐は、荒い呼吸を整えながらぼんやりと空を見上げた。
 木々に遮られた青空から落ちてくる光を感じながら、隣にいるのが木手でも何でもいいと思って目を閉じる。
 そのままゆっくりと意識が薄れて完全に途切れる瞬間、木手が男色だと言うのは本当なんだろうかと、そんな疑問が過ぎった。




 ビクンッと大きく身を竦ませて、木手は体を起こした。
 滅多に利用しない保健室の風景は見慣れているとまではいかないもののそれでも見覚えのあるいつもの風景で、再び布団に倒れこむ。
 干されることの無い布団はどこか湿っぽくて埃臭かったが、寝不足の体には多少役には立ったようだ。
 眠る前に感じていた鈍い頭痛は、すっかり引いている。

「…………」

 自分の手を顔の上に持ってきて、握ったり開いたりを繰り返す。
 まだ熱を孕む体を持て余すように大きくため息を零して、ゴロリと寝返りを打って横を向いた。

 田舎の親戚の家へ旅行に行った甲斐は、近所の山で姿を消した。
 何度メールを送っても電話をかけても彼には繋がらず、帰ってくる予定の次の日母親から電話がかかってきた。
 山へ走りに行ってくると言ったきり、帰ってこないのだと。

「甲斐クン…」

 未だ彼がどこにいるのか分からないのに、自分は何て夢を見るんだと木手は己を戒めるように目を閉じる。
 だが瞼の裏にありありと蘇ってくる夢の内容に、結局は目を開けて天井を睨み据えた。

 下肢を甲斐自身によって押し開かれ、快楽へ叩き落される。
 夢だと言うのに触れられる感覚も、身の内を行き来する肉塊の熱さもまるで現実のように木手に迫ってきた。
 何度も突き上げられながら快楽に酩酊する意識の中で、自分の手に甲斐の手が重ねられるのを確かに見た。

 そのまま高みへ放り投げられ、気がついたら目が覚めていた。

「……っ……」

 痺れるような感覚が頭の芯に戻ってきて、木手は自分の体に腕を回してきつく抱きしめる。

 彼が無事なのかさえも分からないこんな時に、ふしだらで厭らしい、分不相応な夢を見る自分がとても身勝手な人間に思えた。

「甲斐クン…、ゆう、じろう…裕次郎…」

 冗談みたいに茶化しながら、けれど真剣な光を並々と瞳に称えて彼は名前で呼んで欲しいと言った事がある。
 木手が断ると泣きそうな表情を一瞬見せて、だよな、と笑った。
 けれど自分の方が泣きそうになったと、木手は覚えている。

 甲斐が自分の事を好きなのは、薄々感づいていた。
 それが思春期の気の迷いかもしれないと思うことも、木手は分かっている。
 そして自分が、そうではない領域に既に足を踏み入れていて、その泥の中から甲斐を望んでいるのも分かっていた。

「甲斐クン…お願いだから」

 祈るような気持ちでポケットに入れたままの携帯を取り出して見ても、着信もメールも無い。

 遊び呆けているなら、それでいい。
 自分からのメールや着信が鬱陶しくて返信しないなら、それでいい。

 とにかく、無事でいて欲しかった。

 携帯を握った手の甲を額に押し付けて、大きく息を吸い込んだ。
 今の事態こそが夢ならいいのに、今すぐ甲斐が保健室の扉を開けてくれたらいい。

 思った途端に扉が開いて、木手ははっと身を起こす。

「えー、起きたんどー」
「……平古場クン」
「やー寝てねーじらーあんに」(らしいじゃないか)
「寝てますよ。さっきも、少し寝ました」
「ゆくしだろ。甲斐が居なくなってから寝てねーってちらだ」(顔)

 ノックもせずに入ってきた平古場はズカズカと木手の座るベッドまでやってきて、ジャージのまま腰掛けた。
 少し眉を潜めた木手に気付かない振りをしながら、暢気に核心を突いた。

「心配さんけ。あにひゃーは殺しても死なねーって」
「縁起の悪い事言わないで」
「あー、んじゃ裕次郎はしぶといさー。だからよ、帰ってきたあにひゃーにどーするか決めとけ。決めたら寝れ」

 握り締めていた携帯を無理矢理に手の中から奪われて、自分がどれほど強い力を手に込めていたのか気付く。
 平古場はそれを自分のポケットにしまい込み、まだ体を起こしている木手の肩を突き飛ばした。

「どーするって…」
「ほら、グラウンド走らせるとか、遠泳させるとか、泣いてしがみつくとかあるばぁ?お、ちゅーしてやれ。あにひゃー大喜びするんどー」
「っ、馬鹿じゃないの!ゴーヤー食わすよ」
「おぉ、まぶやーまぶやー。えー、わかったな。さっさと寝れ。出てきたらたっくるすばぁ」

 一瞬いつもの調子を取り戻した木手に笑い、平古場は携帯を保険医の使う机の上に置くと保健室を出て行く。

 渋々体を倒した木手は、掌から無くなった重みの分だけ軽くなった気持ちを不快に思った。
 これでは甲斐を重荷に思っているようだ、彼をそんな風には考えた事も無いのに。

「平古場クン」
「あぁ?」
「……一年に、フォームチェックしてあげなさいよ」
「おー、わーったわーった」

 金髪を揺らして出て行く背中を見ながら、木手はもう一度だけため息を零して目を閉じる。

 


「…………」

 気がつくと、あたりは真っ赤に染まっていた。
 甲斐は鳥居に凭れて居眠りをしていたようで、体がガチガチに固まっている。

「夢…?」

 今までのはなんだったんだろう。
 そう思いながら立ち上がると、カラン、と鈴が落ちる。
 腹の上に乗っていたらしい鈴は、地面に落ちてもなお金色の光を絶やさない。

「あさきみよー…」

 呆然と声を上げて鈴を拾った甲斐は階段の上を見上げる。
 鬱蒼としたそこに夕方の光は届かず、暗闇がぽっかりと口を開けていた。
 その闇の深さに上へ上がって確かめる気にはなれず、鈴をポケットに入れてから甲斐はきた道を歩き出す。

「ぬーがよ、やーが満足したら放り出すんばぁ?」

 コツン、と後ろから何かが頭に当たって振り返った。
 小石が足元に転がって、甲斐は上を見上げる。
 木の葉の擦れる音が風に乗って辺りに響き、甲斐は誰に言うとも無くごめんちゃいと口走る。

 ダラダラと山道を歩いて親戚の家に戻ったとき、甲斐は本当の意味で青くなった。

 親戚の家には大勢の大人たちが集まっていて、その中には制服を着た警察官まで混じっている。
 大人たちは暢気な顔をして帰ってきた甲斐を見つけると一斉に大きなため息を零し、口々に甲斐を叱り始めた。

 怒られている中で状況を把握して行くうちに、どうやら自分は三日ほど行方不明にされていたらしいと知る。
 走りに行ったという山は古くから神隠しの多い山らしく、何人もの子供が浚われてそのまま帰ってこないのだとか。

 親に何度も拳骨で頭を叩かれる間に、甲斐は自分のポケットの中から携帯を取り出した。
 着信履歴には平古場や田仁志の連絡に混じって、木手の名前もある。
 どちらかと言えば、木手の名前に混じって平古場や田仁志の名前があるといった方がいいだろう。
 メールも着信も、目一杯溜まっていたがそのほとんどが木手だった。

 今どこに居るんですか?
 もう帰ってくる日のはずですが?
 体調でも崩したんですか?
 お母様から聞きました、どこにいるんですか?
 連絡してください。
 無事なんですか?
 甲斐クンお願いだから。

 安否を確認するメールが、同じような文面で何通も送られてきていた。
 恐らく部活にはちゃんと出ているのだろう、時間帯は朝、昼、夕方から夜にかけてときっちり分かれている。

 甲斐クン、無事なら今すぐ連絡をください

 今日の昼、他のメールと同じ文面なのにそれだけがやけに切羽詰っていた。
 そこまで読んでようやく連絡しなければと思いついて木手に電話をかけると、一度目の呼び出し音が途切れる前に繋がった。

「おー、えいしろ…」
「甲斐クン!無事なんですね!」
「あ、あいー…無事さー」

 間髪入れずに怒鳴られて思わず携帯を耳から離した甲斐は、怒声が続かないのを怪訝に思って恐る恐る再び耳を近づける。

「永四郎…?」
「ほんと…どれだけ迷惑かければすむんですか…」
「わっさんどー、…?」

 ぱったりと聞こえなくなった声に首を捻り、永四郎、と何度か名前を呼ぶ。
 けれど答えてくれない木手に甲斐の方が心配になり、畳み掛けるように問いかけた。

「えー、大丈夫さー。心配さんけ、わん元気やっし。な?」
「……甲斐クン」
「ぬーやが?」
「さっさと帰ってきなさいよ。そうしないとレギュラー交代するからね」

 長い長いため息を零した後、木手はそれだけ言って甲斐の返事も聞かずにぶっつりと電話を切ってしまう。
 驚いて電話をかけ直そうと一旦通話を切断すれば、今度は平古場の携帯から電話が入った。

「凛?」
『おー!裕次郎、生きてるんどー』
「えー、勝手に殺さんけ。わん元気やっし。それより、永四郎は?」
『あぁ?あにひゃー部室に戻っていちゅったんどー』

 自分と同じくらい暢気な平古場にいつもと同じような軽口を返す。
 どうやら部活中らしく、皆の声がざわざわと聞こえてきていた。

 木手は部室に戻った、の辺りでバタンッとプレハブの扉が大きな音を立てて閉じられる音が微かに聞こえたから、部室の前辺りにいるのだろうか。

『えー、裕次郎よ。やーへーさ帰って来い』
「へぇ?」
『永四郎がよー、やーにちゅーしてくれるって』
「はい!?」

 しませんよそんなこと!!と怒声が聞こえた。
 部室の中に入ったのか、辺りのざわめきが急に静まり返ってどたばたと物音が聞こえた後、また長い長いため息が洩れる。

『さっさと帰ってきなさいよ。ちゃんと、元気な姿を見せなさい』
「…おぅ…」
『帰ってきたら50キロ走の後に遠泳と古武術の稽古、してもらうから』
「えぇ!?ちゅーは!」
『………、気が向いたらね』

 ブツリとまたこちらの返事も聞かずにきった木手は、直前確かに裕次郎と呼んだ。
 切れた電話を見下ろしながらふつふつと沸きあがってくる喜びに、甲斐は自分の頬が緩むのを感じる。

 そうして、玄関先で警察や親戚、近所の人間に頭を下げている母親の後姿に声をかけた。

「えー、あんまー」
「ぬーがや、このやなわらばーが」
「うちなーにへーさ帰りたいんどー」
「こんふらーが!!謝るのが先どー!!」

 首根っこを引きずり上げられ再び母親の叱責が始まるのも、もう甲斐には気にならなかった。


END

完成:2007/12/13
UP:2007/12/13