アイスコーヒー一杯分

 人の多い通りに立つビルの二階。
 ガラス張りの喫茶店は今どき流行りのカフェではなくまさに喫茶店。
 店内はオレンジ色の薄暗いランプがあるし、天井にはシャンデリアみたいな良く分からないごちゃごちゃした照明がある。
 観葉植物や煉瓦を積み上げたような仕切りで4人掛けのボックス席を二つずつで区切っている店内は、肩パッドの入ったブラウスを着た年配の女性たちが一組と、どう見ても競馬新聞を読んでいるグレーのポロシャツを着た中年男性だけだった。

 案内された席は、窓際のボックス席。
 カウンターや先客たちよりは少し離れた席で、少し安心した。
 革張りのソファは年季が入っていて、座るとギュッと音を立てる。
 ガラスのテーブルにはレースの敷物があり、くすんでは無いはずなのに輝かんばかりの白でも無い。

「ご注文は」

 何でこんな所で働いてんねやろ、そう思うような若いウエイトレスが来た。
 人形みたいに白く塗りたくった肌と、太いアイラインに付けまつげ。
 髪の毛は飲食店らしく二つに結わえているが、鉄パイプのような巻き毛は金色だ。
 やる気ありませんと言う無表情はある男を思い出させたが、テラテラ光るグロスにげんなりする。

 思えば、中学時代からこう言う女性はあまり好きではなかった。

「レーコー」
「は……?」
「……あ、……」
「……メニューはこちらです」

 大阪のど真ん中の喫茶店でバイトしてるんやったらレーコーぐらい分かれや。

 メニューを渡された謙也は、恩師の古臭い言葉選びが移ってしまった上卒業して何年も経った今でもそれが抜けていない事が恥ずかしかった。
 だからメニューを見もしないでウエイトレスに突っ返し、アイスコーヒー、と言い直す。

「かしこまりました」

 つんとして背を向けるウエイトレスにはもう目も向けず、ガラスで隔てられた外側に視線を転じる。
 大阪では有名な橋のすぐそばにあるこの喫茶店からは、行き交う人々がよく見えた。

 友達と連れ立って歩く若い女の子、その女の子に声をかけるキャッチセールス、ティッシュ配りのバイト、あからさまなナンパ。
 自分もあの場にいてもおかしくないはずなのに、一歩引いた所で見つめると何だか醒めた気分になる。
 暢気でええなぁ、そんな嫉妬じみた感情が湧き上がるのも本音の内だ。

 一人で待っていると周りの声がよく聞こえてくる。
 肩パッドの女性たちは観劇帰りらしい、誰それがどうのシーンがどうのと興奮気味に語り合っては笑っている。

「おー、すまん。待たせたな」

 不意にそんな声が聞こえてきて店の中に視線を戻すと、目の前のソファに男が一人腰掛ける所だった。
 ギュッと、ソファが再び音を立てる。

 この男と、謙也は長い付き合いだ。
 中学から高校、そして今でも学業やバイトの合間に集まっては昔と同じような馬鹿騒ぎを繰り返している。
 最も、四天宝寺のテニス部はみんな今でも普通に集まっては騒いでいるが。
 放浪癖のある千歳と、金太郎は参加回数が極端に少ないもののそれでも白石がどこかから連れてくる。

「遅いわ」
「嘘つけ。まだ時間前やぞ。おねーちゃん、俺アイスコーヒー」

 低めのソファに座る男は、上体を屈めて尻のポケットから煙草とジッポを取り出しながらこちらに来ている最中のウエイトレスに声をかけた。
 それから俯いて箱を開け、軽く手を振って一本器用に飛び出させて唇に咥える。
 この男も、大阪のおっさんになりつつあると謙也は思う。

「んで」
「ん?」

 俯いたままこちらをチラリと見上げる視線はきつく、睨まれているようにも感じた。
 けれどもともとキツイ目つきの作りをしているこの男はそれが普通で、幼い頃から知っている謙也は対して気にもならない。

 だが高校の時にはどれだけの人数がこの目つきに好戦的な視線を返していたか、思い出すだけで肝が冷えるのだけれども。
 入学当初、ある事情からこの男はやさぐれていた。
 その所為か売られたケンカを片っ端から買って当たり散らそうとするのを、自分と小石川とでどれだけ宥めたか。

 喧嘩をすれば大けがは必至だ、ただしこの男の方が。
 弱いくせに粋がっていたのなら謙也だって放っておいたが、この男は自棄になっていた。
 一時の感情で、まだテニスをやっているのにそんな酷い生活を送るのを見過ごせなかった。

「お前が呼び出したんやろ。話があるて」
「ぉん……せやな」

 シュッと石の擦れる音がして、ジッポが火を噴く。
 男は風も無いのにその火を片手で包み込み、軽く顔を傾けて煙草に火を付けた。
 それが酷く様になっていて、謙也は彼がテーブルの上に置いたジッポをつい手に取る。

「ユウジ、お前いつから煙草吸うようになったんやっけ」
「え、あー……いつやったかなぁ」

 煙草を咥えたまま吸い込んだ息を吐き出すと、同時に一氏ユウジは背凭れに深く身体を預ける。
 フワリと舞い上がるたばこの煙は、この喫茶店の照明であるオレンジ色のランプを掠めて消えた。

「初めて吸ったんは高三や。や、吸いかけただけやけど」
「っは!?お前まだテニスやっとったやんけ」
「ぉん、好奇心でな、同じクラスの高ボンおったやろ。あれにちょっと誘われて」

 懐かしい名前を出して笑うユウジは、次にそのきつい眼尻を幸せそうに緩ませる。
 あぁ、アイツ関連の話かと、もう察しが付くほどに顕著な表情の蕩け方だ。

「別に何や言う理由も無かったけどな、ほんま何となく。一本吸ったらもうええわ、思てたんやけど」
「へぇ」
「吸おうとした所で運悪く小春に見つかってしもてな」

 どこで吸っとってん、駅前のコンビニ、アホかそら見つかるわ。
 他愛ない軽口の合間に、彼は煙草の煙が目にしみたのか目を細めて笑う。
 とても穏やかな顔で、笑う。

「んでな、小春が怒ったんや。もうあいつは俺の相方やなかったのに。俺は俺で、とりあえず立ち直ってたのに」
「…………」
「まぁ、現役で好きやったけどな」

 金色小春は自分の頭脳レベルに合った高校へ進学した。
 それは、これまで一緒に過ごしてきた仲間の誰も行けなかった高校だ。
 彼はあの笑顔で、あの口調で、柔らかく、そして残酷に別れを宣告した。
 別れの場所は、皮肉にもテニスコートの上だった。

『アタシ、自分の能力を最大限に引き出せるとこに行きたいの。ユウ君の傍じゃ、それはできへんでしょう』

 あの時の修羅場は酷かった。
 みんなで集まれば、いつも誰かがその事を口に出す。
 それほどに、ユウジは酷かった。

 最も小春も同様に酷い有様だったのだが、それを知っているのはレギュラーでも一部の人間だ。
 何しろ小春は、普段よりもよほど慎重に、ある種気狂い染みた執念でもって徹底的にその事実を隠していたのだ。
 ユウジに自分を悟られないよう、背筋が寒くなるほどの徹底ぶりだった。
 しかし、おそらく当時一番隠したかったユウジにはもうそれを知られているのだろう。

「アホやなー、アホな事したなーて思た。小春に合わせる顔ないわて」
「…………」
「せやからそれっきり二十歳越えるまでは吸ってへん。次に吸い出したんは、あぁそや、小春が……」
「お前の世界はほんま小春中心やな」

 あのユウジがここまで穏やかな顔で笑うようになったのは、やはりあの男がいたからだ。
 当たり前やろ何言うてんねん、そう言うユウジは見ていて妬ましくなるぐらいに幸せそうだ。

 すっとテーブルに伸ばされたユウジの手が、ガラスの灰皿に煙草を押し付ける。
 煙草一本分、中学時代ならそれこそ延々と小春の話をしていたユウジは、たったそれだけの間だけ小春の話をするとこちらに話を振ってきた。
 謙也はそこに、愛されている者の余裕を感じる。
 だが、小春への愛を無駄にアピールするのも忘れない。

「で、お前の用事は何やねん。ちゅうかそのライター、小春のプレゼントやねん。べたべた指紋付けんな」
「あ、おぉ……」

 手の中で弄んでいたライターをテーブルの上に戻すと、すさまじい速さでひったくってポケットからハンカチを取り出す。
 大切そうに手の中で包んで磨く様は、中学時代から何も変わらない小春命の一氏ユウジだ。

「んで?」
「うん……いや、お前に言うんもアレかなーて思ってるんやけど。その……アイツがな、呼ばせてくれへんねん」
「あぁ?」
「名前の話や。未だに名字」

 あながち嘘ではない適当な相談をでっちあげて顔を上げた謙也は、先ほどまで余裕たっぷりに笑っていたユウジを見て言葉を失った。
 ぽかんと口を開けたユウジが、唇にひっついた二本目の煙草をぷらぷらとさせている。

「何や、お前らまだ名前で呼んでへんのか」
「おぉ……」
「ちょっとびっくりしたわ。高校生ちゃうねんぞ」

 お前みたいにいつでもどこでも小春小春言えたらええねんけどな、と呟けばせやろー?と満面の笑みを浮かべる。

「まぁ、アイツはそう言うの嫌うからなぁ」
「せやねん。せやけど、お前みたいに呼んだらさぁ」
「ん」
「女の話してるのと変わらんやん、呼び方によったら。こうやって話してても、違和感なくなるし」

 謙也の言葉を、ユウジは鼻で笑い飛ばした。
 その仕草は小春が喧嘩した時に彼を馬鹿にする仕草とよく似ていて、長年一緒に濃厚な時間を過ごせば仕草まで似てくるのかと謙也に思わせる。

 小春のその仕草を初めて見た時、謙也は自分でも信じられないくらいに驚いたのを覚えていた。
 いつだって冗談のベールに包まれた金色小春が、ユウジの前ではむき出しの自分を見せる事にだ。
 もっとも、それは中学を卒業し高校を出て、大人になってからの話で、中学生の小春はそれこそ何もかもを冗談のベールに包みこんで自分の背中に隠してしまっていた。
 あの天才が何を考えてそうしたのか、彼にはどんな苦悩があったのか、謙也には小指の先ほども分からない。

「そんな理由やったら一生呼ばせてくれんわな。で、本音は」
「…………」
「なぁ謙也よ。お前どの時点で覚悟してん」
「どの時点て……」

 ただでさえキツイ目つきがさらにきつくなって、ユウジは唇から摘まみとった火の付いていない煙草で謙也を指してくる。

「ええか、お前はこれっぽっちも分かってへんから俺が言うたる」
「はぁ……」
「俺はな、世の中の人間全てに俺が小春を愛してる事を知られてもかまへんと思った時から小春て呼ぶことにしたんや。それが俺の覚悟や」
「そらお前……えらい早く道踏み外す覚悟したもんやな」

 彼が小春を名前で呼び始めたのは、中学で彼らが出会ってすぐの事だ。
 そう言えばその頃から既に小春小春とユウジが小春にまとわりついていたのも思い出す。

「当たり前や。道踏み外すんは俺だけとちゃうからな。……まぁ、そんなん言うても中学生の覚悟なんかたかが知れとる。せやけど、や。その覚悟をした時から今まで、俺は小春を愛してきたし誰に何を言われてもかまへんと思っとる。それはいっこも変わってへん。それどころかより強固になったわ。今の俺から小春を引き離したかったらミサイルでも持ってこな無理やな」

 それが俺の覚悟や、もう一度そう言うと彼は再び煙草に火を付けた。

「まぁ、そう言うてもいつだって正直に言えるわけちゃうけどな。隠さなあかん時もあるし、嘘つかなあかん時もある」
「…………」
「でもそれぐらいの覚悟やないと、俺は小春の人生背負われへんからな」

 男が男を好きになって愛し合う事と、ユウジは謙也が思っていた以上に真剣に向き合っていた。
 それは、小春とユウジが試行錯誤しぶつかり合ってお互いに成長してきた証なのかもしれない。

 そう言えば、この前遊んだ時に小春はユウジと、彼の事を呼んでいた。
 ユウくん、と言う語尾の跳ねた口調ではなく、落ち着いた口調で自然にユウジ、と。
 愛を込めて相手の名前を呼ぶという事が覚悟の証ならば、小春の覚悟も決まったのだろう。
 天才児と持て囃され、今なおその頭脳を求める人間が多くいるあの男が、同性を愛する道を選んだ。

「せやからな、謙也。言うてみぃ。お前は覚悟してんのか。中学生から今まで自分とアイツの人生横道に反らした覚悟」
「…………」
「お前がほんまは何を相談したかったんかは知らんけど、俺らが思てる以上に世間は厳しいで。このままの道突き進むつもりやったら親も敵になる事考えとけ」

 心の内まで見透かされて、なおかつユウジは気付かないままに謙也の本当の悩みも突いてきた。
 昔から人の仕草を自分に写し取ろうと人間観察を欠かさなかったユウジだ、単純な自分の事などアッサリ見抜いてしまうのだろう。

 謙也は背凭れに体を押し付けて、深いため息を漏らした。
 息を詰めていたせいか、いきなり大きく吸い込んだ喉がヒクリと痙攣する。

 アイツが名前を呼ばせてくれないのは、恐らく自分の覚悟もアイツ自身の覚悟も決まっていないからだろう。
 人前で呼ばれる自分の名前に、その裏に特別な愛情が込められているのを容認できるかどうか。
 他人が聞いても分からない自分たちだけのその秘密を、共有できるかどうか。

 目の前にいるユウジの持論に当てはめればそう言う事だ。

 恐らくそうなんだろう。
 名前云々ではなく、自分が今悩んでいるのはまだ覚悟しきれていないからだ。
 
「それやねん、ユウジ」
「は?」
「俺な……親にバレてん」

 お待たせしましたー、やる気のないウエイトレスがアイスコーヒーを二つ、テーブルの上に置いた。
 火の付いた二本目の煙草は、ユウジのあんぐり開いた唇から履いてきたカーキグリーンのボトムの上に落ちる。

「あっつ!!」

 声を上げて慌てて灰と煙草を払い落した彼は、そうかぁ、と気の抜けた声を出した。
 思った以上のリアクションに、謙也の方が面喰う。
 覚悟を決めたこの男も、さすがに自分を産み育てた親に関係がばれると言うのは衝撃的だったか。

 足の間に落ちた煙草を拾いながら、彼はぽつりと言う。

「そら……難儀やな」

 それきり、会話は途切れた。


 先に口を開いたのは、やはりユウジだった。

「アイツは、お前の事ずーっと名前で呼んでたな」
「え?ぉん、せやな」
「でもお前から呼ばれるのは嫌、か」
「……らしいわ」

 謙也にはよく分からない理論だった。
 謙也は謙也だろう、でも自分が名前で呼ばれるのは嫌だ、彼はそう言った。
 にべもない口調だった。

 謙也にもプライドがあって、別に土下座してでも名前で呼ばせてほしいなんて必死に頼む事は出来なかった。
 だから、出会いから何年も経った今でも、謙也は自分の恋人を名字で呼んでいる。

「ちゅうか何でバレたん」
「……母親が家来た時に、アイツが裸やった」
「……お前もか」
「……パンツは履いてた」

 そら親御さんショックやろな、とユウジは呟いた。

 けれども謙也の記憶には、親がショックを受けていたような様子はなかった。

 大学へ通うためにと言う名目で、でも本当はする必要のない一人暮らしをしている謙也の家に突然やってきた。
 合い鍵を渡してあるために、玄関の鍵は砦の意味をなさなかった。
 チェーンについては反省するしかない。
 そして母親は、自分と彼を見た。抱き合っていなかったのが唯一の救いと言えば救いかも知れない。

 彼を見て、自分を見て、ピクリと右眉を跳ねあげた後、思っていたよりは冷静に一度家に帰って来いと言っただけだ。
 だから、現状の把握ができていないのかと思った。
 男同士など親には遠い場所の出来事で、自分の息子には関係ないからきっと息子の友人が裸で息子の家にいたとしても何もそれが恋人だとかそう言う所には結びつかなかったのだと。

 だが母親の洞察力を甘く見てはいけなかった。
 その子も一緒に連れておいで、母親は確かに言った。

「怖いな」
「怖いやろ。もうひとつ怖い事あんねん」
「聞きたないけど聞いたろ」

「これから行くねん、実家」

 声にならない悲鳴がユウジから漏れたような気がした。
 そう、それは謙也も同感だ。

 不意に、謙也の携帯電話がメールの着信を告げる。

「あ、メールや。アイツから」
「死刑宣告やな」

 待ち合わせ場所に着いたから、という簡素なメールに素早く目を通し謙也は再び窓の外を眺める。
 人が溢れる雑多な街中で、その人はすぐに見つける事が出来た。
 手持無沙汰にぼんやりしているもう一人の死刑囚を、謙也は微笑んで見つめる。

「ぉん。また結果出たらメールなり電話なりしてこいや」
「おぉ、駆け落ちしたら匿ってや」

 冗談めかして笑う謙也に、ユウジも笑って返した。
 あながち冗談にもならない事は、お互い分かっている。



 待ってるから行くわ、そう言って恋人の名字を出した謙也は立ち上がる。
 机の端にある伝票をユウジが拾ってひらひら振れば、苦笑してそれを引っ手繰った。
 アイスコーヒー一杯分、大した金額でも無いそれを払うのに苦はないが謙也に恩を着せるのは嫌だ。

「奢ったるわ」
「当たり前じゃボケ。誰が呼び出した思てんねん」
「はいはい。ありがとうな、ユウジ」

 相談料はアイスコーヒー一杯分、それでこの重い問題を一緒に背負わされた事をチャラにしてやる。
 ユウジのその思いを分かっているのか、やけに真面目くさった顔で礼を言われてこっちが照れた。

「アホか、恥ずいわ。さっさと行け」

 だがこの言葉に二つの意味があるのを、謙也は知らないだろう。

 先ほど謙也が口に出した恋人の名字。
 その音を口にする時、まるで舌先で甘い砂糖菓子を転がすような響きを伴う。
 丁寧に柔らかく発音される無意識の音は、どこまでも深く柔らかだ。

 例えそれが名字だとは言え、謙也の言葉には自分が小春と呼ぶ時と同じくらいの深い意味が含まれている。
 落ち込む彼に覚悟が決まっていないと言ったのは、発破をかけるつもりだったのだが少しやり過ぎたかもしれないと少し反省した。

「無茶せんかったらええなぁ」

 自分の生家に帰った謙也が、どのような手段で親に打ち明け納得してもらうのか。
 器用そうに見えて不器用な男だから、周りが呆れるぐらい謙也らしいやり方なのだろうなと思う。

 ユウジは窓から見える彼の恋人を見下ろして、謙也が出てくるのを待った。
 ポケットから携帯を取り出し、メモリーのゼロ番を呼び出して通話ボタンを押すのと同時ぐらいに、ビルの入口から謙也が出てくる。 

「あ、もしもし、小春?俺、ユウジ」

 人の波を縫って横切り、一直線に恋人の元へ向かう彼は待たせた事に謝っているようだ。
 さして怒っているらしいわけでも無い彼の恋人は、良く見ればいつもと違うスーツに身を包んでいる。

「うん、今謙也帰った。これから親のとこ行ってカミングアウトするんやて」

 一方謙也はラフな格好だ。
 服装について謙也が何か言ってるらしく、スーツの裾を掴まれた恋人が不機嫌そうな顔を見せた。

『だって、親に会うんやし。ちゃんとしていかな』

 そんな風に言ってるのが手に取るように分かって、ユウジは喉の奥で笑みを噛み殺した。

「おー?うん、まぁ何とかなるんちゃうかな。上手くいってもアカンくても来週末ぐらいにみんなで飲み会したろ。……しっかしやぁ、謙也も世界の終わりか言う声で電話してきとったからなぁ。ぉん、ほなこれから帰るわ」

 さっさと行けばいいのにお互い踏ん切りがつかないのか、待ち合わせの場所から動かない二人を見ながら耳音で響く柔らかい声に胸を暖かくする。

「あ、そうや、好っきやでぇ小春〜」

 冗談めかして言えば、アホちゃうの、と言われたきり電話は切られてしまった。 
 愛しい人の声を通さなくなった電話をポケットに入れて、ようやく歩き出した二人を眺める。
 汗をかいたグラスを手にとってストローで吸い上げると、心地よい苦みが口内に広がっていく。

 並んで歩く姿が、来週末も見られればいい。
 他人事ながら真剣にそう思った。 

2009/08/02:完成
2009/08/02:UP