桃色模様、蜘蛛の糸

 キーンコーンカンコーン…、と間延びしたチャイムが鳴り響くと日直の号令よりも先に甲斐は立ち上がった。
 黒板に数式の解を書き終えたばかりの数学教師が顔を顰めたが、その頃にはもう日直が起立と号令をかけて教室は昼休みの喧騒に包まれる。

「おー、裕次郎一緒に昼飯…」
「パス!」
「ぬーが、付き合い悪いさぁ」

 誘いをかける言葉を言い終わる前に断られた平古場がぶつぶつと文句を言っているのは聞こえたが、構わず廊下へ飛び出した。
 開いた引き戸に手をかけた勢いで方向を直角に転換し、まだ人の少ない廊下に飛び出る。

 目指すは木手の教室、一番後ろの席。
 まだ教師が次の授業の連絡をしているらしく静まり返った扉の向こうに飛び込む事は出来なかったが、体を伸ばして廊下の窓から目的地を覗き込む。
 ちょうどノートを閉じている所だった彼は、使っていたシャーペンをペンケースにしまっている。
 ペンケースの蓋を閉じる前に日直の号令がかかって立ち上がると、申し訳程度に頭を下げたのを見るなり教師が出てくるより先に戸を開けた。

「えーいしろう!飯いちゅんどー!」

 瞬間静まり返った教室は、すぐに騒がしくなって甲斐の声を紛れさせる。
 元気だなー、と暢気な声を上げて甲斐の側をすり抜けていった理科の教師を見送るわけも無く人を掻き分けて一番後ろの席にたどり着くと、閉じたノートが頭に振り下ろされた。

 勿論、縦で。

「あがっ!」
「うるさいよ甲斐クン。恥ずかしいじゃない」
「だって腹減ったんばぁよ」
「平古場クンと行けばいいでしょ。どうせ皆食堂組でしょ。先に行って待ってればいいのに」

 顎で扉の方を指し示す木手は、ペンケースの蓋をきっちりと閉じてからノートとまとめて机の中にしまいこむ。
 それから鞄を机の上に置き、中から財布を取り出して制服の尻ポケットに突っ込みながら立ち上がった。

「あらん!わんはよ、その…永四郎と食べたいの!」
「だったらご飯食べながらオーダーの一つでも考えてくれるとありがたいんだけどね」
「昼休みくらい部活の事忘れてゆっくり食べたいさぁ」

 甲斐の想いをバシッと断ち切った木手と連れ立って廊下に出ると、自分達と同じく食堂へ向かう生徒達の流れに沿って歩く。
 教室側を歩いていた甲斐から顔を背けるような形でグラウンドに面した窓の方を眺めている木手の顔を見ようと回り込めば、うろちょろするなと睨みつけられてしまった。

「君はいつもじゃない。副部長なんだからもっとしっかりしなさいよ。ほんと、落ち着きがないよね」
「だからよー。わんぬ家でオーダー考えたらいいさぁ?」
「何で甲斐クンの家にいちいち行かなきゃならないの」

 目を細められて下心を見抜かれたかと冷や汗を流した甲斐はそれでも何とか笑顔を取り繕う。
 しかし次の瞬間にはもう木手の視線は自分ではなく前方の何かに向けられていて、反射的に甲斐もその視線の先を追った。
 そしてその先にあるものを認識した途端、分かりやすいほどに機嫌が下降する。

「知念クン、君も今からですか」
「あぁ」
「ちょうど良かった。一緒に行きましょう」

 階段の前、すぐ側の教室から出てきた知念に木手が言うのを甲斐は黙って聞いているしかなかった。
 以前に一度嫌がったら、思い切り拳骨で殴られたからだ。

「知念は誘われるのに、俺は先に行ってろって…不公平さぁ」

 下を向いて小さな声で呟いたが、最早返事は返ってこない。
 知念の高い身長に合わせて木手が上向いて喋るため、彼よりも少し背の低い自分が俯いて発した言葉は届きにくくなる。
 生真面目な二人がオーダーがどうのだとか次の練習試合のことだとか色々話している所為で、木手の注意は一向に甲斐に向かない。

 けれどこういう話をしている時に邪魔するとどやされるので、甲斐は校舎を出るまでは我慢した。
 そうして一歩校舎から外に足を踏み出すと、隣を歩く木手の前に躍り出て声を張り上げる。

「えーしろう!ちゅうやぬーかむんさぁ!」
「は?…あぁ、じゃぁいつもので」

 昼休みの混雑する学食でできる長い列に木手を並ばせたくないと、甲斐がいつも代わりに彼の昼食を買っている。
 本当は昼飯代も自分が出してやりたいと常々思っているのだが、中学生の少ない小遣いで他人の昼食代を出せるほど裕福ではないし、元よりまだ恋人でもない甲斐に奢られることを木手は嫌がる。
 まだ、と敢えて思う所が甲斐の楽観的な性格の一端でもあり、大抵の事はまぁいいか、であまり気にしなかった。
 例え奢られるのを嫌がる木手が、俺に恩でも売って何か言う事を聞かせようとでもいうんですかね、と思っていたとしても。

「じゃぁ知念クンもついでだから頼んだら?」
「あい?」
「えー…寛くんも?」
「何、俺は良くて知念クンは駄目なの」

 じろりと睨みつけられて、不平不満を何とか口の中までで押さえ込む。
 しかしその辺りは知念が弁えているらしく、丁寧に木手の申し出を辞退していた。

「や、裕次郎一人じゃ三人分も持てんばぁ?」
「そうですか。じゃぁ俺は先に席へ行ってますから」

 木手の詰問から救ってくれたのは嬉しいのに素直には喜べない。
 何だって木手はいつも知念の言うことならあっさり頷くのか。
 同じことを説明したって甲斐なら本当?と疑いの眼差しだし、知念ならそうですか、わかりましただ。

 日ごろの行いの差だとか木手は言うが、甲斐は信じられなかった。
 絶対、木手が知念ばっかりを贔屓してるんだと思っていた。

「知念よー」
「ん」

 食券の券売機で二人分の券を買いながら、そばで並んでいる友人を見上げる。
 甲斐の嫌そうな態度に少しも気を悪くした感じを見せない知念も、隣の券売機で券を買いながらこちらを見た。

「ぬーがや」
「…うん、やー…永四郎と仲いいばぁ?」
「そう、か?」

 頷く甲斐に、知念は少し困惑した表情を見せた。
 それはどこか苛立ちが混じったような顔にも見えたが、すぐにいつもの少し困った微笑みに取って代わったので甲斐は気がつかなかった。

「裕次郎のほうが仲いいあんに。いつも一緒さぁ」
「…そうかな」

 知念からそう見えるということは、そうなのかとも思う。
 
「そうさぁ。永四郎だって、裕次郎に気許してるあんに」
「……そっか」

 ちょうど自分たちの順番が来たせいでその話はそこで終ってしまったが、甲斐は少し安心した。
 他の人から言われるのは、木手から言われる次に実感が持てる。

 突っ走りがちな性格を自覚している甲斐には、時折薄暗い不安に付きまとわれることがあった。
 それは先ほどのように自分以外の誰かと木手が親密な態度を取った時に、嫉妬とともに甲斐の足首を掴むのが常だった。
 疎ましいと思われているかも知れない、本当は自分の相手をするのが面倒だと思っているのかもしれない。
 ひやりと這い上がってくる予感じみた考えに、拍車をかけるのはいつも知念だった。

 彼が悪いわけじゃないとわかっているのに、甲斐は怖い。
 落ち着いていて、頼りになるのが誰から見ても分かるから、木手を取られてしまいそうだと思う。
 その度にいまだ友人の位置に甘んじている自分を不甲斐なく感じていた。




 どうにかしたいという焦りばかりが募っていた甲斐にあまり良くない形で転機が訪れたのは、食堂で知念とあの会話を交わした一週間ほど後のことだった。

 その日は監督の機嫌が地の底を這っていて、練習は特に厳しかった。
 ただでさえ疲労困憊して神経がピリピリしている所に、下級生の数人が問題を起こした。
 部活をさぼって遊びにでかけ、そこで観光客と小競り合いを起こしたのだ。
 観光客の方はその日に本土へ帰る所で今は連絡も取れなくなってしまったが、揉み合った時に店先のディスプレイを壊してしまったらしくその店から通報が入った。

 そんなことがあって、木手は練習の後顧問と問題の下級生とともに店へ出向いて謝罪をし、校長と教頭と顧問の三人から徹底的に説教を受けることになった。
 全てが終わって下級生を下校させ、部室に戻ってきた時の木手の表情はまさに悪鬼だったと後に平古場が語っている。

「ほんっと、何考えてるんでしょうね!!部活中に!」

 入ってくるなり持っていた部誌を机に叩きつけ、耳がびりびりするような大きな音を立てた木手が忌々しげに吐き捨てた。
 パイプ椅子にドスンと腰掛けると、木手の剣幕に驚きながら服を着替えている部員たちを見渡す。
 まるで少しでも何かあればすぐに指摘して完膚なきまでに叩き潰してやろうと舌舐めずりでもしそうなほどの様子に、見かねた甲斐が声をかけた。

 哀れな生贄に部員の数人、おもに木手の性格をよく知っているレギュラーが心の中で十字を切る。

「永四郎、…して…あったーちゃーしたさぁ?」
「帰らせました。随分落ち込んでいたようだけど、自業自得ですね!」
「まぁまぁ…あったーも毎日練習で疲れてたさぁ。たまには、遊びたいとも思うばぁ?」

 甲斐の執り成しを鼻先で笑い飛ばした木手は、腕を組んでパイプ椅子に背中を凭れさせてふんぞり返った。
 薄い唇が少し開いたと同時に、飛び出すのは鋭い極太の針だ。

「えぇ、えぇ、疲れてるでしょうねぇ。ほんの少し肩がぶつかって方言をからかわれただけで本土の人間と喧嘩して、お店のディスプレイを投げつけて相手に怪我をさせた挙句逃げ出したんですから。うちのテニス部でそんな馬鹿な事をするのはよほど疲れている人間だけでしょうね!」
「永四郎…」
「甲斐クンはよくもそんな子たちを庇えますね。あぁ、甲斐クンもよく学校の帰りに寄り道してますもんねぇ。後ろめたい事もたくさんあるでしょうね。そりゃあの子たちを責められませんよねぇ」

 永四郎!と思わず咎めるような声を出した甲斐の顔のすぐ脇を、硬い表紙の部誌が飛んでいく。
 それがロッカーに当たる大きな音が響いて、それまでも静まり返っていた部室は完全な緊張状態に包まれた。

「練習が嫌で逃げ出した人間がやった喧嘩で!テニス部は活動停止になる所だったんですよ!そもそも疲れてる人間が喧嘩なんかしますか!疲れてるんだったら家に帰って寝てなさいよ!今公式の試合に出られなくなることがどういうことか君にはわかってるんですか!」
「…………」
「わからないでしょうね甲斐クン!君だってまともに副部長の仕事もしないでふらふらしてるような人間なんだものね!」

 誰もが言いすぎだと思ったが、甲斐は俯いたままそれを聞いていた。
 機嫌の悪い木手は甲斐に当たり散らしたいだけで、黙って聞いていればそれもすぐに収まる。
 怒鳴られたり辛辣な言葉を投げつけられるのは確かに傷つくが、自分にそれをぶつけてスッキリするならそうしてほしいと思っていた。
 心のどこかで、そうしなければ木手の鬱憤を晴らしてやることができないんだとも思っている。

「永四郎、もうやめるばぁ。裕次郎や関係ないあんに」

 だから木手が一息ついた時、静まり返った部室に響いた声を聞いて甲斐は無性に苛立った。
 まだピリピリした雰囲気を体から刺のように発散している木手に、無警戒に近づいた知念が肩に手をかける。

「知念クン…」
「テニス部に処罰はなかったばぁ?終わったことは仕方ないさぁ」
「……そう、ですね」

 木手の言葉をきっかけに、心の奥から黒い感情がとめどなく溢れてくる。
 何で自分が宥めてもダメなのに、知念の言うことならそんなにあっさり聞いてしまうのか。

 甲斐が冷たくなった指先で閉じたロッカーの扉がぶつかる音は思いもよらず大きく響き、知念の一言で緩和しかけた部室の雰囲気を再び凍らせた。

「裕次郎…」

 走ってきた後みたいに自分の呼吸が荒い。
 何度深呼吸をしても収まらない呼吸と感情の波に、ここにいたら誰かにそれをぶつけてしまいそうだと振り返った。
 部室を出て行こうと足を踏み出したが、成り行きを見守っていただけだった平古場が強い力で手首を掴んで引き止める。

「離せ」
「やしがよー…」
「ちょっと外行くだけさぁ」

 本当かと問いかけるように顔を覗き込んで来る平古場に頷いて見せると、ゆっくり手が離れて行った。

 下級生も同級生も、部員は皆驚いたようにこちらを見ている。
 さっきまで甲斐に怒鳴り散らしていた木手でさえ、目を丸くしてこちらを見ていた。
 恐らくみんながさっきの暴言に甲斐が激怒しているんだと思っているはずだったが、それを否定する余裕はない。

 木手の肩に置かれたままの知念の手を見たくなくて、甲斐は帽子の鍔を下げると部室の扉を蹴り上げる。
 不自然な音を立てて開いた扉が壊れたことは誰もが分かっていたが、誰もそれを咎める所か指摘することさえしなかった。



 甲斐が逃げ場所に選んだのは屋上だった。
 階段を駆け上がって荒い息を誤魔化し、手すりを渾身の力を込めて握りしめる。
 金属でできた手すりは甲斐の手の熱を奪ってすぐに温くなり、ざらざらした錆の感触が残るだけだった。

「…………」

 弾んだ呼吸が徐々に収まってくるようになると、それと一緒に甲斐の気分も沈んでいく。
 手すりから手を離し、今度は地面にごろりと寝転んだ。

 荒立ったこの感情の波が、本当は誰のせいでもなく自分の所為だと分かってはいる。
 単純に、知念に嫉妬しているだけだ。

 木手が甲斐より知念の言う事を素直に聞き入れるのは、当たり前だが甲斐よりも知念の方が頼れるから。
 知念が木手の暴言を止めたのは、甲斐のためと部の雰囲気をこれ以上悪くしないため。

 頭では全部分かって納得できるのに、どうしたって心がついていかない。  
 どうして自分の言う事を木手は聞いてくれないのか。
 どうして知念は木手に関する自分の居場所を奪っていくのか。

 空を睨みつけても、雲が流れて行くだけでどうにもならない。
 
 鬱積した自分の気持ちがどうにか収まるまでここにいて、みんなが帰ってから部室に戻ろうと思った。
 明日、何とかごまかせばまた元に戻るだろう。
 今日はどうしたって無理だ、そう思った。

 どれくらいそうしていたのか、ガチャリと扉の開く音で我に返った甲斐は足音の主が木手か知念じゃなければいいと思った。
 けれど平古場も田仁志もこんな静かには歩かないし、不知火や新垣だったらまっさきに声をかけてくる。
 つまりは、そう言う事だ。

「裕次郎…探した」

 木手じゃなければいいと今思ったのに、はるか上から自分を見下ろす制服姿の知念の顔を見た瞬間落胆した。
 さっきの暴言で甲斐が飛び出したと思われていても、木手にとっては迎えに来るほどのことではないのだ。
 どうせ、自分が悪いんでしょ、とでも吐き捨てて帰ったに決まってる。

「戻らんばぁ」
「うん。先けーってればいいさぁ」

 投げやりな返事をした甲斐は、寝返りを打って知念に背中を向けた。
 自分を放っておいて戻るはずの知念は、屋上の手すりに凭れてそこからグラウンドを眺め始める。

「裕次郎、永四郎も別に悪気があっていゆったわけじゃねーばぁ」
「…………」
「ただちょっとイライラしてて、つい口が滑っただけさぁ」
「…………」

 そんなことで怒っているんじゃない。
 しかしその誤解よりも木手のことを分かった風に言われるのが嫌だ。
 知念の言葉を遮って出た声は、自分で思っていたより低くて冷たかった。

「永四郎も反省して…」
「あらん」
「え?」 
「わんがわじわじーしてるんは永四郎が酷い事いゆったからじゃないばぁ」

 だったら、そう言いかけて知念が黙り込む。
 反動をつけて起き上った甲斐は、知念には背中を向けたまま膝を抱え込んでそこへ頭を埋めた。

「寛くん」
「……うん?」
「わん、永四郎が好きなんばぁよ。あんせー、寛クン永四郎取らんけ」

 ザリ、と上履きで地面を擦る音がする。
 恐る恐る振り返った先で、知念はこちらに背を向けて手すりからグラウンドを見下ろしていた。
 片足が地面を蹴るように動くたび、ザリ、と音を立てていた。

「……永四郎は物じゃねーし、わんが取るか取らんとかじゃねーさぁ」

 今度は甲斐にも分かるくらい、苛ついた声だった。
 テニス以外では余り声を荒げたりすることもなく黙っていることの多い知念があからさまにあらわした不快感に、甲斐は戸惑って振り返った。
 背中を向けたままの知念を凝視しても、彼は振り返らない。

「それに、永四郎はわんぬ事部活仲間ぐらいにしか思っちょらんばぁ」
「あぬ永四郎がやーにはでーじちむじゅらさんあんに」

 だからこそ自分がこんな鬱屈した思いを抱えているんだと思っていたのに、知念は甲斐の言葉を鼻で笑い飛ばした。

「余所行きの顔ばっかり見せられても、永四郎に信用されてないと思うだけさぁ。永四郎は裕次郎にはちゃんと思ってる事あびゆん。わじってる時だって機嫌の悪い時だって、無理にそれを隠そうとしたりせんばぁ?」
「…………」
「裕次郎には全部見せてるんばぁよ。わんには見せてくれん」

 知念の声が低いのはいつもの事だが、それとは違う暗く沈んだ声色で彼は呟く。
 優しくしてくれる事のどこに不満があるんだとはまだ思うけれど、それを知念にぶつける気にはもうなれなかった。

「寛くん…」
「わんだって永四郎が好きばぁ。やしが始めっから勝てん勝負やと思ってたさぁ。永四郎は裕次郎ばっかり見てるわけさ」
「…………」
「さっきだって、そうだったあんに」

 そんなことない、小さく呟いた甲斐の声は離れた場所にいる知念までは届かない。

 いつだって自分は、自分から行動を起こさない限りは木手の意識には留まれなかった。
 知念のように何かあれば木手に頼られる、木手が頼りにするような存在では無い。
 ずっと背中を向けられているように感じているのに、どうして知念には木手の気持ちが甲斐にあると思えるんだろうか。

「やしが、永四郎はわんぬことなんかどうも思っちょらんばぁ」
「ぬーでそう思う」
「なまだって、探しに来たりせんばぁ?わんがいなくなったってどーでもいいんどー」

 知念だって自分が木手に暴言を吐かれて怒ったと思っていたのに、その当人が探しにも来ない。
 いつだって木手は甲斐がきつい事を言われて怒っても、自業自得だと取り合ったりしないのだ。
 もちろん謝ってもらったこともないし、次の日には何事もなかったように忘れている。

「あらん。わんが止めたんさぁ」
「はぁやぁ?やっぱり永四郎は知念クンの言うことなら聞くあんに?」

 皮肉っぽい口調になったのを、宥めようとは思わなかった。
 けれど知念は首を横に振り、ようやく甲斐の方を振り返る。

「永四郎が言っても逆にわじらせるだけやさ、わんが宥めてくるっていゆった。永四郎はそれでも自分で行くっていゆったから、あにひゃーなま裕次郎のクラスまで見に行ってる」
「…………」
「裕次郎がここに居そうなこと分かってて、わん永四郎に教室見てきてほしいっていゆったばぁ」
「何でね」
「裕次郎と二人にしたくなかったさぁ。いつだってそうやさ。やーと永四郎だけにしたくない。裕次郎が不満そうなのも嫌そうなのも知ってたやしが、黙って永四郎が取られるの見てる事はできんばぁよ」

 邪魔していたんだと知らされて、不思議と怒る気にはなれなかった。

 今まで何も知らない知念に自分が勝手な思いで嫉妬していると思っていた。
 友達に対する嫉妬心や罪悪感、木手への恋情で煮詰まっていた物がストンと落ちてくる。

 知念も木手が好きで、自分を牽制していたなら嫌な気持ちになって当たり前じゃないか。 
 そう思った。

「寛クン、わん永四郎に告白する」
「…………」

 よっこらせと声を上げて立ち上がった甲斐は、俯いて何かを考えている知念を下から見上げた。
 甲斐は、きっと永四郎は知念が好きだと今でも思っている。
 知念から見た永四郎が自分を気にしているように見えたとしても、それは甲斐が自分を見てくれと必死になっているからだ。
 何もせずにいても頼られる知念とは、土俵が違う。

「探しましたよ」

 不意に背後から声が聞こえて振り返ると、扉の所に木手が立っていた。
 今しがたここへ来たのか、珍しく少し息が上がっている。

「永四郎」
「…………」
「ここにいたんですか」

 木手から顔を反らす知念を見て、何となく自分まで木手を欺いていた罪悪感を感じてしまう。
 いくら甲斐と二人きりにしたくないからと言って、好きな人に嘘をつくのは知念だって本意では無かったはずだ。

「先に謝っておかなければなりませんね。甲斐クン、少し言いすぎました。ごめんなさいね」
「あ、いや…うん。それは、別に」

 大したことじゃない。
 いつもの事なんだからと思ったら、面と向かって謝られるのが恥ずかしくて顔が熱くなる。
 それでも、木手が少しでも自分を気遣ってくれたのが嬉しくて自然に顔が緩んだ。

「永四郎」
「何ですか?」
「わん、永四郎が好きなんどー」

 眼鏡の奥で軽く瞬きをした木手は、チラリと知念の方へ視線をやってから再び甲斐を見る。
 動いた視線に気付いたのは甲斐だけでは無く背後にいる知念も同じらしく、あ、と声を上げた。

「何ですか知念クン」
「いや…」
「何かあるなら言いなさいよ」

 ほら、と促されて、知念は凭れていた手すりから甲斐の隣に並ぶ。

「わんも…その、永四郎が好きさぁ」

 玉砕する前から落胆を背負ったような声で告げられる言葉に、木手が小さくため息をついた。

 同じ立場の甲斐には、彼の気持ちがよく分かる。
 振られるかもしれない恐怖と、自分が選ばれたいと思う気持ち。
 けれど自分が選ばれたいと思う事は同時に隣にいる友人が振られてほしいと言う気持ちと同じで、強く願えば願うほどに罪悪感を引き連れてくる。
 どちらが選ばれても純粋に喜べるかどうか分からなくて、いっそ木手が二人いればいいのにと思ってしまう。

「そう…、俺も二人が好きですよ」
「永四郎…」
「そういう意味じゃなくて…」

 友人としての、じゃない。
 甲斐と知念がそう言いかけた時、木手は首を横に振った。

「いえ、そうじゃありません。俺も君たちと同じ気持ちで、君たち二人ともが好きです。おかしいと思うでしょう?だからこの気持ちは一生言うつもりはありませんでした。だけど諦めきれない内に、君たちに伝わってしまったのかもしれませんね」
「…………」
「無意識のうちに、君たちに誘いをかけていたのかもしれない」

 俯いてリストバンドを付けた腕を握りしめる木手は、いつもと違って弱弱しく見える。

 一度に二人の人間を好きになるなんて事があるんだろうか。
 思わず隣にいる知念を見上げると、彼もまた不思議そうな顔をして木手を見ていた。

「随分悩みましたよ。どちらかを諦めてしまわなければいけない。ここでどちらかを選んでも、俺は選ばなかった方が気になると思います。だから、どちらも選べません」
「永四郎…だってわったーが好きって」
「えぇ、どちらも同じくらい好きです。だからどちらかを選ぶことはできません」

 せっかく自分を好きだと言ってくれているのに、どうして振られてしまわなければならないのか。
 木手は自分が好き、でも知念の事も同じ意味で同じくらい好き。
 甲斐を選べば知念が気になるし、知念を選べば甲斐が気になる。
 だからどっちも諦める。

「そうか…それじゃぁ仕方ないさぁ」
「知念クン…」
「永四郎がそう言うなら、わんには…」

「ちょっと待て!」

 すっかり諦めムードに入ってしまっている二人の話が終わらない内に、甲斐は声を張り上げた。
 いつもなら終わるまで待っていなければ怒られるけれど、この場合終わるまで待っていたら間に合わない。

「何ですか、甲斐クン」
「ぬーで諦めるんばぁよ!永四郎も寛クンも!おかしいあんに!わんも永四郎が好きで永四郎もわんが好き、寛クンも永四郎が好きで永四郎も寛クンが好きあんに?諦める必要ねーばぁ?」
「………だからね、甲斐クン」
「あんせー!三人で付き合えばいいあんに!!」

 すごくいい思い付きだと思ったのに、二人はぽかんと口を開けたままこちらを凝視している。
 変な事言ったかなと思い返している間に我に返った知念が、言いにくそうに口を開いた。

「裕次郎…やーは平気さぁ?永四郎とわんが付き合っても」
「やしがわんも永四郎の彼氏ばぁ?わん寛クンの事嫌いじゃねーし。寛クンこそ、くぬまま諦めてそれでいいんかやー?永四郎と付き合えんのと、わんと三人でも永四郎と付き合えるんとどっちがいいばぁ?」
「…わんだって、振られるのは嫌さぁ…やしが」
「やっさーやぁ。あんせー、三人で付き合えばたーも振られんばぁ?みんな幸せどー」

 な、と同意を求めて木手の方を見たら、困ったように眉を寄せて微笑んでいる。
 薄く開いた唇から小さくため息を零して、力の入っていない声で続けた。

「では甲斐クン、君は俺に二股をかけろと、そう言うんですか」
「あらん。三人で付き合うんばぁよ。わんも寛くんもちゃんと納得してたら二股とはあらん」
「……知念クンは本当にそれでいいんですか」

 話を振られた知念は少しの間黙って木手を見つめていたが、やがて小さく頷くと照れたように項に手を当てながら言った。

「…永四郎がそれでいいなら、わんは嬉しい」
「そうですか…」
「永四郎…」
「そう言ってくれると思ってました」

 唇を釣り上げて微笑む木手が、いつもの仕草でメガネを上げる。
 さっきまでしおらしく俯いていたはずの彼が嘘のように背筋を伸ばし、顔を上げて胸を張った。
 萎れていた声もいつもと同じ張りを取り戻して、晴れ晴れとした不敵な表情を浮かべている。

「まぁ、恋人の一人や二人変わりませんよね」
「な、永四郎!わったー以外にもいるんどー!?」
「見縊らないでくださいよ甲斐クン、俺は見る目があるんです。そこらの男なんか好きになるもんですか」

 分かったらさっさと帰りますよ、そう言い残して木手はさっさと屋上を出て行ってしまう。
 残された甲斐と知念の間には生ぬるい風が通り抜け、お互い顔を見合せて笑うしかなかった。

「永四郎にはめられた気分さぁ…」
「やしが…あにひゃー見る目あるって」
「はぁやぁ、意味よー」
「わったーがあにひゃーのお眼鏡に適ったってことだばぁ?」

 嬉しそうに知念は言うが、そこは喜んでいいのか?と甲斐は思う。
 そして、喜んでいいのか、と納得した。
 知念はまだしも、普段から小言や説教を腹いっぱいいただいている自分も一応は認められているという証しだ。


 そう思う事にした。


END

-----おまけ-----

「裕次郎」
「ん?」
「やーは永四郎のうむやーばぁ?わんも永四郎のうむやー。だぁ、わんと裕次郎はぬーかやぁ」
「………どぅし、でいいあんに?」
「……よかった、うむやーなれいゆったらどうしようかと思った。絶対無理やさ」

 スタスタと木手を追いかけて歩き出す背中に言うか!と怒鳴りつければ、振り返った知念が肩を竦める。
 自分だって知念を恋人になんかしたくないが、先に拒否されると何だか魅力が無いみたいで悔しい。

「寛くん!そんな事いゆってると永四郎にあぬ事いゆってやるから!」
「あぬ事?」
「やー永四郎に信用されてないとかあびゆんばぁ?あにひゃーそういうのいっちー嫌うさぁ」

 弱みを握ってふふんと笑う甲斐に、知念はしばらく考え込んでいたが地を這うような低い声を出した。

「裕次郎」
「あい?」
「やー…永四郎にいゆったら…」
「ぬーがよ…ちゃーするっていゆんばぁ?」

 黒目の小さな目がこちらを見つめたままポケットに手を突っ込み、中で何かを握りしめている。
 けれどそれを表に出すことはなく、知念の口の端が片方堪え切れないように持ちあがった。
 ぞぞぞ、と背筋を這いあがる冷たい物に耐えられない甲斐が叫んでも、彼は不気味に呟くだけ。

「ぬ、ぬーがや!」
「ピンセットで……」
「ひ、寛くん!?」
「言えるもんなら言えばいいさぁ…」
「え、えいしろー!!」

-----おまけ終わり-----

2008/10/29:完成
2008/10/29:UP