岐路1

 暑い。
 飛行機から降りた日吉の感想はただその一言に尽きた。
 東京から着てきたファーのついたジャケットは既に脱いで腕にかけてあるのに、それでもまだジワリと背中に汗が滲んでいる。

 迎えが来ているはずだと、跡部には東京でそう言われた。

 空港のゲートをくぐってロビーに出ると、整然と並んだ椅子に1人の少年が制服姿で座っているのに気付く。
 背凭れに身を預け脚を組んで膝の上に乗せた右手で文庫本を開く少年は、自分に近づく日吉に気付いて顔を上げると軽く首を傾けた。
 アンダーフレームの眼鏡の奥から冷たい眼差しが日吉を捉えて、まるで値踏みするようにねっとりと絡みつく。
 その強い視線に日吉が警戒心を露にするのが分かったのか、彼は目を伏せて笑みを零すと本を閉じて立ち上がった。

「日吉クンですか?」
「はい」

 スラリとした体躯は十分に鍛えられ、男の無骨さをやや感じさせるがどこかまだ未成熟な体つきをしている。
 癖なのか、片方の足に重心を乗せて立つためやけに腰のラインを強調しているようにも見えた。
 肩に下げた鞄に本をしまう途中伏せた目元を覆う睫は長く、次いで上げられた視線はさっきよりも柔和な光を帯びている。

「初めまして、比嘉中3年木手永四郎です。跡部クンから話は伺ってますよ」
「日吉若です。よろしくお願いします」

 差し出された手を握り返した日吉は、彼が自分よりも少し背が高いのに今更気付いた。
 握った手はそれなりに男の手で、豆や小さな傷などが当たり前にあるのだが、スラリと伸びた指の長さに少し驚く。

 ピアノを嗜んでいると言っていた鳳の手も指が長くて綺麗だと周りの女子から頻繁に誉められていたが、日吉から見ればただのごつくて大きな男の手にしか見えなかった。
 けれど今自分が掴んでいるこの手に対しては、何故か素直に綺麗だと思えた。

「えー、永四郎。くにひゃーが東京からのお客様だばぁ?」
(おい、永四郎。こいつが東京からのお客様か?)

 突然声がして、目の前の体が少し揺れる。
 同時に木手と肩を組むように腕が回されて、日吉の視界に金髪の少年が無理に割り込んできた。

 その時、解けた手が惜しいと思ったのは多分気のせいだ。

「平古場クン、ついてきたの」
「やーがこそこそするからど。わったーに隠し事はなしどー」
「隠しているわけじゃないよ。ただ大勢で出迎えたりしたら驚くと思ってね」
「ふん、本心だばぁ?ゆくさーやっし、永四郎は」

 優等生のような風貌の木手と、金髪の少年とはタイプが違うようだが随分親しげに話をしている。
 肩を組んで顔を近づけて話す少年はニヤニヤと笑みを浮かべて木手を見つめ、不意にこちらへ視線を落とした。 

「彼は平古場クン、俺と同じ比嘉中です」
「ゆたしく」(よろしく)
「どうも」

 それは、さっき木手がこちらへよこした視線と同じく値踏みするようなものではあったが、ねっとりとした這いずるようなものではなく敵意を押し出したような視線だった。
 木手の紹介を聞きながら敏感に違いを感じ取って睨み返す日吉に、相手はふうん、と意味ありげに頷いて木手から腕を離した。

「じゃ、いちゅんどー。部室で甲斐たちがまちかんてぃーさ」
「ええ、日吉クン。行きましょうか」

 東京では呼ばれないような独特のイントネーションで自分の名前を呼ばれ、日吉は戸惑いながらも頷く。
 歩き出す木手の背中を追いながら、彼の放つイントネーション同様独特の雰囲気に呑まれかけていた。



 あの夏の全国大会で、日吉は自分と同じく武術をテニスに取り入れる比嘉中が戦っているのを見た。
 実際は跡部と共に青学の試合内容を見に行ったのだが、奇しくも共通項のある学校に興味を引かれたのは確かだ。
 それに沖縄武術は古武術を嗜んでいる自分にとっても無関係とは言い切れない。

 シングルス、タブルスと青学が勝利して行く中で、比嘉中のテンションは目に見えて落ち込んでいった。
 井の中の蛙、悪く言えばそういうことなのだろうが、意気揚々と沖縄から上京してきた彼らに現実は余りに酷だった。

 けれどその中でただ1人、比嘉中の負けが決まったときでさえ顔色を変えない少年がいた。
 それが比嘉中テニス部部長、木手永四郎だ。
 腕を組んで片足に重心を乗せ、軽く首を傾けて斜に構えた視線をコートへ向けて時折隣にいる帽子を被った少年と何事か話す。

 無表情とは違う硬質な厳しい表情を崩さない木手は、自らの試合となった途端全身から静かな闘志を発し始めた。
 気配を察知するのに長けた者だけが感じられる殺気に近いそれは、観客席で眺めていた日吉の足元に絡み付くような熱を残す。
 じりじりと肌を焼くようなその熱は、爪先からゆっくりと日吉の足を這い上がってきた。

 あの手塚を、例えハッタリだったとしてもチンケなオーラ呼ばわりできたのは、彼が人を攻撃するための武術で自身を鍛え本物の殺気を放っていたからだろう。
 常人に見えてしまうオーラなど、武術ではほとんど役には立たない。

 試合の結果は他と同じく惨敗だったが、彼の動きは他の選手とは違っていた。
 スラリとした立ち姿の木手が、重力に逆らわず体を倒しコートを滑るようにして瞬く間にネット際へ詰めて行く。

 縮地法と呼ばれる沖縄武術独特の歩行。
 通常ならば前後の動きのみにしか対応できないらしいそれを、木手の常人離れしたバランス感覚が全方向への動きに対応させていた。

 しかしそれでも手塚のプレイに翻弄され、整えられた髪を乱し激昂する木手。
 いつもなら惨めだと嘲笑うだろう、卑怯な手に打って出るなんて反吐が出る。
 だが手塚を睨みつける木手の己の身さえも燃やし尽くしてしまいそうなほど激しい闘争心に、気が付けば日吉はその試合に見入っていた。

 コートに倒れ伏した彼が額から血を流して立ち上がり、手塚の名を叫ぶ。
 次のプレイでドロップショットに追いついた木手がラケットで砂を巻き上げたが、結局ボールは木手側のコートへ静かに落とされた。

 手塚を見つめたまま立ち尽くす木手の表情は、日吉が立っていた位置からは見えない。
 けれど手塚の唇が何かを伝えたその瞬間、木手から全ての気配が失われたことを日吉は良く覚えている。

 負けていく中学に興味は無かったけれど、彼のことだけは何となく心に引っかかっていた。

 そして全国大会が終わり、引退したはずの跡部に呼び出されたのは日吉が沖縄に降り立つ一ヶ月前の事だった。
 何の用事かも聞かされないまま部室へ呼ばれた日吉は、そこに揃う元レギュラーの面々に多少面食らいながらも気丈に頷いた。

「お前、確か武術やっていたな」
「ええ、それが何か?」
「沖縄比嘉中。お前も見ただろう」
「…あぁ、全国大会2回戦であっさり青学に負けたところでしょう」

 毒舌やなぁ、日吉。
 なんて声が混ざるが日吉はそちらへ顔を向けることもせずに鼻であしらった。

「まぁ、これを見てみろ」

 跡部がリモコンで部室にあるテレビの電源をつける。
 画面に映し出されたのは全国大会での比嘉中と青学の対戦風景。

 テレビ越しにあの気配は感じられない、けれどもう3ヶ月以上も前のそれを日吉は鮮明に思い出すことが出来た。

 そうして、テレビの中の木手はやはりコートを滑るようにして移動する。
 そこで映像が一時停止され、日吉の意識は跡部に戻った。

「これだ。奴らは沖縄武術をテニスに取り入れているらしい。お前、冬休みの間行って試して来い」
「…は?」

 いきなりの命令に驚きすぎて思考回路が止まった。
 ぽかんと口を開けたまま固まる日吉に、ソファに座っていた跡部は鷹揚に足を組み替えて見せる。

「最後の部長命令だ。もう話はつけてある」
「なっ…!人にボールをぶつけたり砂をかけたりする卑怯な連中に何を教われって言うんですか!」
「あーん?誰が教わって来いって言った?俺は試して来いと言ったんだ」
「…………」
「お前があれを攻略できるならよし、覚えて身に付けられりゃ上等だ。比嘉の連中も懇切丁寧には教えてくれないぜ。それとも、弱小中学に手取り足取り教えてもらわないとできねーとでも言うのか?」

 驚きから我に返って反論する日吉を今度は跡部に鼻で笑い飛ばされ、悔しさに唇を噛み締めるしかなかった。
 俯く日吉を眺めながら、跡部はロッカーで着替えている鳳に視線をやる。

「それに、だ」
「…何ですか」
「お前、後輩から色々言われてるの分かってるんだろう」
「…、まさか跡部さんが他人の評価を気にするとは思いませんでした」
「っは、ただのやっかみなら俺も気にしねえよ」

 投げやりな皮肉も笑い飛ばされ、日吉はぐっと拳を握り締める。

 本当は自分でも分かっていた。
 下剋上だと息巻いていたにも関わらず、一度も跡部に勝利する事が出来ずに彼の引退を迎えてしまった。
 繰り上がりで自動的に頂点に立ってしまった事が、自らの矜持を揺らがせている。

 跡部が言っているのは、その事をうまく自分の中で消化できずに苛立っている事だ。
 ただでさえ馴れ合わない自身の性格とその苛立ちが重なり、後輩への気配りが疎かになっていた事も。

 そして、それは後輩から自分への悪評へ繋がっていた。

「過度な馴れ合いは俺も嫌いだが、比嘉中は部長を中心とした団結力の強い学校だ。お前も少しは見習って来い」
「っ……」

 そんな日吉を見かねたか、単に面白がっているのか横で聞いていた忍足がため息交じりに口を開いた。

「まぁまぁ、良い経験やと思うて行っといでぇな。楽しいこともあるかもしれへんで?」
「……楽しいこと?」
「そうや、沖縄には可愛い子も多いし暑い地方やから開放的やろ。露出も多いしな。仰山友達作って、帰って来たら紹介してな」

 涼しい顔をして言ってのける彼の言葉に嫌悪を露にして顔を背けた日吉は、結局断る事も出来ずに跡部の命令を受け入れた。

 冬休みの一週間、沖縄で比嘉中のテニス部と練習を共にする事になってしまった。

 


「…クン、日吉クン」

 一ヶ月前の事を思い出して歯噛みしていた日吉は、声をかけられていることに気付いてはっと顔を上げた。
 目の前にはタクシーが止まっていて、後部座席に乗り込もうとしている木手がこちらを振り返っている。
 その後に続いてタクシーへ乗り込み、気遣ってくれる木手の言葉に答えた。

「お疲れですか?」
「え…あぁ、まぁ…」
「気候が大分違いますからね。無理もない。今日は直接俺の家へ向かいましょう」

「えー!わん楽しみにしてたんどー。東京もんがどれくらいやるんかよー」

 助手席で体を捻って座席にしがみついて顔を出してくる金髪に、日吉は露骨に顔を顰める。
 同じ髪の色の先輩を思い出させる騒々しさに、視線をその金髪から外へ動かすと自分の隣からため息が聞こえた。

「平古場クン、余り日吉くんを困らせないでください。長旅でお疲れでしょうから、今日はやめておきましょう」
「はぁやぁ、ちむじゅらさんやさー、永四郎。やー、氷帝の跡部とも連絡とっとったやしが、ぬー考えとるんばぁよ?」
「別に、平古場クンには関わりの無い事です」
「まぁ?わったーはうむやーやあらんばぁ。やーがぬーしようが関係ねぇさぁ。やしが、やーぬ方が我慢でぃきんあんに」

 訛りの強い沖縄の言葉は日吉にとって最早異国の言葉も同然で、何となく文脈を読み取って彼らが大して仲良くないのかと考える。
 細かい言葉もニュアンスしか分からない日吉には、彼らの関係を正確に把握する事はまず不可能だった。
 しかし、にやりと唇の端を吊り上げた平古場の皮肉っぽい口調と、わざと日吉に分かるような言葉で言った挑発を無視する事は出来ない。

「…青学に負きた学校なら大した事ないからよー」
「…今のは聞き捨てなりませんね。比嘉中だってあっさり負けてたじゃないですか」
「はぁやぁ、喧嘩売ってるなら買うばぁ?」
「受けて立ちますよ。いつでも」

「平古場クン」

 それは痺れるような厳しい声で、決して大きくはない声なのに日吉と平古場を圧迫する。
 ニヤニヤと薄笑いを浮かべていた平古場がすっと表情を消し、前方を向いて勢いよく背凭れに背中を押し付けた。

「へぇへぇ、わんが悪いんばぁよ。わっさいびーん」(ごめんなさい)
「余計な挑発はやめなさいよ。もう大会は終わったんだから」

 ほんの少し感じた寂寥は自分達と同じ思いを彼らも味わったと言う意味で、日吉はその重い雰囲気から逃げるように再び視線を車の外へ逃がす。
 行き先の変更を運転手に告げる木手の声を聞きながら、何となく木手が手塚に負けた瞬間を思い出した。
 
「すみませんね、日吉クン」
「…全くです」

 ため息混じりに毒づけば、木手が喉の奥で微かに笑うような声が聞こえ自分が笑われているのが分かって振り返る。

 木手はタクシーの硬い座席に背中を預け自分を抱きしめるように腕を回して、左手で自らの上唇よりは少し厚い下唇を指先で軽く摘むようにして撫でている。
 無意識の癖なのか、薄く口を開いたまま何かぼんやり考え事をしているような表情でただ指先がゆっくりと動いている。

 全国大会で見せたあの厳しい表情は木手には無い、日吉に絡みついた気配も全く感じられない。
 しかしその横顔は何処かしっとりとした艶を帯びて、目を逸らしたい気恥ずかしさを感じさせると同時に視線を惹き付ける力を持っていた。

「日吉クンは…古武術をやっているそうですね」
「…、…はい」

 ぼんやりとした表情のまま、木手はこちらに視線をやることも無く聞いてきた。
 見ていないのを承知で頷くと、そこでようやく日吉が自分を見ているのに気付いたのか唇から手を離して木手もこちらへ顔を向ける。

「一度、手合わせをしてみたいですね。他の流派と試合をすることはあまりないですから」
「…そうですね」

 軽く首を傾けて掬い上げるようにこちらを見た木手の瞳の奥でユラリと炎が揺らめいたような気がして、日吉は目を見張った。
 
2009/04/13:完成
2009/04/13:UP