一週間の間、日吉は木手の家に下宿する手筈になっていた。
彼の家には使っていない離れがあり、日吉が気を使わないようそこを宿として提供してくれるのだと言う。
木手の家族は彼によく似た母親と、真面目で厳しそうな父親、そして兄によく懐いた妹だ。
彼らに暖かく迎え入れられ、何かと気を使おうとする母親を木手が少し困ったような笑顔で嗜めるのを何だか不思議な気分で見ていた。
当たり前の話だが木手にも家族がいて、心休まる時だってあるんだと。
自分だって同じなのに、試合の印象が強烈に焼きついている日吉には、そんな簡単な事が想像できなかった。
「騒々しくてすみませんね」
「いえ、道場で慣れてます」
離れはそれだけが独立した小さな平屋の一戸建てのような風貌で、木手が鍵を開けて中に入ると玄関の上がり框があり奥には小さいながらもキッチンが備えられているようだった。
キッチンと部屋の仕切りは引き戸になっているのか、壁や扉はほとんど無くワンルームにも見える部屋の作りだ。
玄関の側にある扉がトイレで、風呂はキッチンの奥にあると手早く説明する木手に頷きながら彼の後に続いて中に入る。
一足先に靴を脱いで部屋へ向かった木手は、部屋を横切ってカーテンを開ける。
外の強い光が部屋の中に差し込んできて、日吉はほんの少し目を眇めた。
「どうぞ、ここにいる間自分の家だと思ってくれて構いません。これはここの鍵です」
「はい」
部屋の隅に荷物を置くのと同時に木手が振り返り、利き手の甲で逆側の眼鏡のレンズを押し上げ鉄のリングだけが付いた鍵を手渡される。
チャリと小さな音が響いて、部屋の中がやけに静かだと日吉は気付いた。
「それから、とりあえず明日からの予定を確認しておきましょうか。午前中は比嘉中で通常通りの練習となります。メニューは彼らと同じでもいいし、氷帝の決まったものがあるならそちらを優先しても結構です。午後は道場でのトレーニングです」
「道場?」
「えぇ、元来縮地法は沖縄武術の歩行法です。武術の基礎が出来て初めて使えるようになるものですから、テニス部では教えていませんよ」
そこで一旦言葉を切り、木手はジーンズの尻ポケットに収めていた携帯電話を取り出して日吉に見せた。
「四六時中一緒にいるのも息が詰まるでしょうから。練習時間以外の行動は自己責任でどうぞ。何かあったときのために連絡先を教えておきます」
「はい」
日吉もジャケットのポケットから携帯を取り出して電話番号とメールアドレスを交換し、11の数字の羅列を見下ろす。
携帯電話会社のランダムに決められた11桁の数字と、初期設定のままらしいこれまたランダムな英数字のアドレス。
木手永四郎、その名前を登録するときはこれが大した意味を持つことなど無いと思っていた。
「夕食までにはまだ時間がありますから、ゆっくりしておいてください。俺は学校へ顔を出してきます」
「はぁ」
「では…」
「あ、木手さん」
名前を呼んだ瞬間、一瞬木手の動きが止まった。
氷帝の上級生にも「先輩」をつけない日吉は、単に敬称として「さん」をつけて呼んだだけだったが。
呼ばれなれていないのかもしれない、子供の少ないこの島では他校の下級生に会う機会などほとんど無いはずだ。
「何ですか?」
「その敬語、やめてもらえませんか。年上に敬語を使われるのは、何だか気味が悪いです」
ピクリと方眉を跳ね上げる仕草が神経質で、全国大会の片鱗を見せられたような気がした。
しかし肩を竦めた彼は軽くため息をついて口元を綻ばせ、細めた視線で日吉を捉える。
「俺の癖だから、気にしなくてもいいんだけど。それじゃぁ、また後で」
小さな足音を立てて出て行った木手を見送ってから、日吉はその場に座り込んだ。
この場に自分1人しかいない気安さからか、ごろりと畳みに寝転がって天井を見上げる。
12月だと言うのに暖房をいれずとも大して寒くない気候に、南へ来たんだなという実感と妙な違和感を覚えていた。
次の日、朝6時に起床した日吉は身支度を整え少し悩んでから氷帝のレギュラージャージに身を包んだ。
一応普通のジャージも持ってきていたし、紫色のジャージを着る比嘉中では浮いてしまうだろうと思ったが敢えてそちらを選んだ。
馴染もうと思ってきたわけではない、自分の踏み台にするために来たのだ。
昨日の夕食時に言われた集合時間より少し前に部屋を出ると、母屋の玄関から木手が出てくるところに鉢合わせた。
さすがにレギュラージャージを着る気はもう無いのか、黒いジャージの上下に身を包んでいる。
細身の体を包み込む黒いジャージは、一般的なジャージとは違い体にフィットしているようだ。
比嘉中のジャージは他の中学と違いそう言うタイプのジャージであったから、変にゆとりがあると動きにくく感じてしまうのだろうか。
漠然とそんな事を考えながら、日吉が先に小さく頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
日吉が頭を下げたのは単なる習慣と礼儀のためなのだが、木手はふいと顔を背けて先に歩き出してしまう。
そのつんと澄ました態度に一瞬不快感が頭を擡げ、日吉は彼の後ろを追いかけながら眉を寄せた。
まるで跡部さんだ、と口の中で言葉を転がす。
家の敷地から出るとそこにはやけに背の高い細身の男が立っていて、こちらは紺色に白いラインの入ったジャージを着用していた。
身長の割にスレンダーな体らしいが、この男の着ているジャージは一般的などこにでもあるゆったりとした物だ。
じゃあ木手のタイトなジャージは単に彼の好みかと、そう思う。
「おはよう、知念クン」
「はいさい」
「日吉クン、彼は知念寛くん。こちらは氷帝学園の日吉クン」
「知念寛、ゆたしく」
言葉少なに挨拶する彼に合わせて日吉もやはり儀礼的に頭だけを下げ、歩き出す木手に従う。
木手も知念も大して喋る人間ではないのか、歩いている間はほとんど口を開く事は無い。
その割に昨日は随分喋っていたと思いをめぐらせて、自分に気を使ったのだと気付いて驚いた。
テニスのプレイには自身の性格が反映されると日吉は思っている。
あの跡部が良い例だ。彼は良い意味でも悪い意味でも跡部らしい、尊大で優雅な見るものを惹き付けるテニスをする。
だが比嘉中の試合で見た限り、木手のプレイに相手に対する気遣いは微塵も見られない。
自分の得意なプレイで相手を倒すのではなく、対戦相手の弱点を素早く突くと言う嫌味なプレイスタイル。
あえて言うなら、彼は"相手の弱点を突く"のが得意なプレイなのだろう。
そのスタイルから、彼の異名は殺し屋と付くほどだ。
だから普段の彼もプライドが高く、抜け目が無く神経質で嫌味な人間だと思っていたが。
空港へ出迎えに来たときから彼の態度は一貫して柔和で落ち着いており、まるで頼れる先輩という様相を崩さなかった。
日吉が少し生意気な事を口にしても、怒るわけでも苛付きもしない。
それは一種の不均衡を日吉に感じさせて、逆に木手への警戒心を強めさせる。
古武術で培ってきたある種の洞察力が、この少年への何かを敏感に感じ取っていた。
空港の事を思い出し、日吉はあの時一瞬だけ自分に向けられたねっとりとした視線を思い出す。
日吉自身やテニスの腕を値踏みするのとは違うその視線の意味を、日吉は沖縄言葉と同じく正確に把握する事は出来ていなかった。
あるいは忍足であれば、その視線の意味も意図も理解して何らかのリアクションをする事が出来ただろう。
しかしそれにもまた、日吉は気付いていなかった。
「永四郎、知念」
不意に背後から声を駆けられて振り返れば、そこには日吉が見たことのあるノースリーブのユニフォームに身を包んだ平古場が立っている。
その隣には全国大会で木手と喋っていた帽子を被った少年がやはり比嘉中のユニフォームで立っていて、二人は足早に駆け寄ってくる。
「はぁやぁ、氷帝学園ぬ日吉ってやーけ?わん甲斐裕次郎さぁ。やーぬとぅくぬ部長でーじはばーじらーって聞いちょったんやしがしんけん?大会でちらっと見た時はふらーじらーやったばぁ?」
側に来た途端帽子の少年が矢継ぎ早に話しかけてくるが、日吉には一体何を言っているのか全く分からない。
とりあえず甲斐というこの少年の自己紹介は分かったが、昨日の平古場との会話の方がまだ理解が出来たと思っている自分と彼の間にすっと木手の腕が差し出される。
「甲斐クン。彼は東京から来てるんだから、うちなーぐちで話しかけて混乱させないで」
「あれまー。やしが交流もしねーとなぁ、折角のお客様なんだからよ」
「あんせー日吉よ。学校着いたらわんと試合すっさー」
「ちょっと平古場クン、勝手に決めないでよ」
木手が甲斐を引き離している間に平古場に詰め寄られ、日吉は彼らの人懐っこさに困惑していたが次に発せられた言葉に俄然対抗心が沸きあがった。
昨日から平古場は、挑発する時だけは日吉にも分かるような言葉を選んでいる。
「えー、いーばぁ?まさかやー、逃げんじゃねーだろーな?」
「誰が逃げるって言いました?受けて立ちますよ」
「おっし、永四郎。日吉が受けるっていっちゃさに」
「日吉クンまで…分かりました。勝手になさいな」
騒がしく二人で歓声を上げて先に歩き出した平古場と甲斐にため息を漏らす木手は、チラリと申し訳なさそうな視線を日吉に送る。
それが逆に日吉をうろたえさせて、咄嗟に目を伏せたのは多分部長という立場にいた人間にそんな態度を取られたことが無いからだろうと思い込んだ。
「俺達はもう引退してるんですけどね。1、2年では縮地法どころかまだ君の相手にもなりはしないでしょうね。特に平古場クンと甲斐クンはお世辞にも頭がいいとは言えませんから、実質テニスは久々です」
「あぁ…それは…」
邪魔をして悪いと言えばいいんだろうか、しかし自分達の前を歩く平古場と甲斐はえらく楽しそうにはしゃいでいる。
「まぁ、元々勉強が好きな子達ではないから、良い言い訳が出来たと思ってるみたいだけど」
日吉の考えを代弁するかのように言った木手の声色が、存分に苦笑を含んでいた。
木手の家から歩いて十数分のところにある比嘉中は、氷帝学園と比べていい施設だとはお世辞にも言えなかった。
高額所得者の子供が集まる私立でテニス部に力を入れている自分の学校と比べても仕方ないが、普段から最高の環境でテニスをやっている日吉にはそのお粗末な設備が酷く新鮮に見えた。
コートへ近づくと先に練習を始めていた後輩達から口々に挨拶の声が上がって、この辺りはどこも同じ運動部、そして部を全国へ導いた木手への尊敬の念も混ざっているのだろう。
「こんなところで練習してるんですか」
「ええ、まぁ氷帝には遠く及ばないけれど、うちにはうちのやり方があるのでね」
「えー!さっさとアップして試合するんどー!」
金網をくぐってコートの中に入った途端、ラケットを取り出した鞄を放り出してアップを始める平古場は日吉との試合に心底期待しているようだ。
日吉も金網の側に鞄を置いてラケットを取り出すと、ジャージをそこへ脱ぎ捨てる。
「下克上には程遠いかもしれないが…やるからには勝つ」
自分を奮い立たせる言葉を呟き、ビデオに映っていた平古場の試合を思い出しながらコートへ足を進めた。
相手をする平古場は、あの天才不二のカウンター技を一度は封じた男だ。
軌道の予測できない強烈なショットも気になる。
「じゃぁ、甲斐クン審判やってあげて。俺は知念くんと部室に居るから」
「あいー、ちゅうや知念かよー。わんはー」(えー、今日は知念かよー。俺はー)
「また今度ね」
あっさりと甲斐をいなして部室へ向かう二人を何となく見送っていた日吉は、視界の端に閃く金髪の持ち主がニヤニヤ笑っているのに気付く。
「…何ですか」
「えー、永四郎が気になるばぁ?あにひゃーちぬーやーにぬーがしよったばぁ?」
「は?すみませんが、何を言ってるのかさっぱりです。木手さんは随分気を使ってよくしてくれてますよ」
嫌な種類の笑いだ、日吉はそう思いながらふと忍足を思い出す。
平古場のテンションはどちらかと言えば強い相手と試合をするときの芥川のようだった。
しかし彼が時折浮かべる大人びた表情や、今のような日吉に理由の分からない不快感を与える笑みはむしろ忍足に酷似していた。
「あいひゃー、裕次郎よー」(あらら、裕次郎よ)
「だーるなー。わらびさ、日吉はよー」(そうだな、子供だよ日吉は)
忍足が増えた。
甲斐もまた平古場と同じ笑みを浮かべて日吉の肩に腕を回す。
よく知りもしない人間と馴れ合うのに嫌悪感を感じて彼の体を突き飛ばしたが、甲斐は別段何とも思わなかったようで日吉から腕を離してケラケラ笑っていた。
「えー、そんなくとぅより試合さー!やんどー」
「負きてぃも泣かんけー日吉」
「誰が泣きますか。そっちを泣きっ面にしてやりますよ」
ポジションへ立つ背中に向かって吐き捨て、一旦目を閉じて精神を落ち着ける。
右手を引いた独特の構えに、コートの外の部員がざわめいたのを日吉は心地よく聞いた。
「…永四郎、とぅるばらんけー」
「あぁ、…うん…っ、変わった子だ、と…思って」
薄暗く狭い部室の中、微かに汗の匂いが漂う空間は今や濃密な空気に満たされている。
二人の鞄は入り口付近に置き去られ、窓際に置かれた机の上に木手は腰掛けていた。
そこへ知念が床へ膝を付き彼の体を押さえ込むようにして覆いかぶさり、胸元へ顔を埋めている。
幼子が縋っているようにも見える体勢で、木手は彼の背中を気まぐれに撫でながら外に鉄格子の張られた窓に背を押し付け、首を捻って試合をする様子を眺めていた。
「気になるばぁ?」
「ん…そう言う、意味じゃないけど…」
「永四郎はゆくさーさぁ」
「しんけんだって…」
密やかな笑い声が木手の喉を揺らし、それを食らうように知念が彼の喉に歯を立てる。
微かに肩を震わせた彼の唇から色のついたため息が零れ落ちると、大きな手がジャージのジッパーを引きおろしていった。
肩から抜くようにして脱がせ、下に着ているTシャツを捲り上げて手を差し入れ肌をまさぐる。
滑らかな肌を辿り引き締まった腰を撫でればくすぐったいのか快楽を感じているのか、唇が笑みの形に変わった。
「知念クン…っぁ…」
「凛がちぬーいゆったばぁ?永四郎、あいつぬくとぅでーじ大事にしとるじらーあんに」
「そ、れは…ぁ、跡部くんに頼まれてるから…っん…」
「じゃ、永四郎は跡部が気になってるばぁ?」
首元に唇を落としたまま鼓膜を震わせる知念の低い声に、木手は窓の外に視線をやったまま醒めた声で呟く。
「別に、気になる人なんていませんよ。誰も」
そうして顔を上げた知念の頬に手を当て、自ら彼の唇を塞いだ。
何度か軽く唇だけを触れ合わせた後赤い舌を差し込み、知念の口腔内をゆっくり這い回る。
舌同士を擦り合わせ上顎を擽って舌を引くと、クチュリと音を立てた。
それを追いかけて差し出してきた知念の舌先に、軽く歯を立ててから今度は自分の口内で宥めるように優しく扱ってやればお互いの体が総毛立つ様に欲情するのが分かった。
「っ永四郎…ちゅうや最後までやっていいばぁ?」
「いいけど…、ちゃんと練習しなさいよ。知念クン最後までするとすぐにボーっとするんだから」
「あい、わかってるさぁ」
時折上がる歓声をBGMに聞きながら、木手は胸元に舌を這わせる彼の頭を抱えもう窓の外に目をやることは無かった。
這いまわる舌が右の突起を捕らえ、強く吸い付かれてビクリと身を跳ねさせると背中に回っていた手が腰を引き寄せて木手を机の上に寝かせ上にのしかかってくる。
「んっ…でもあの跡部クン…ぅ、…堂々と言い放ったよ」
「ぬーがよ…」
「縮地法を攻略した上で覚えて帰れる奴を送るって…」
ふん、と鼻で笑い飛ばした彼が下のジャージと下着を引き下ろす作業を腰を上げて手伝いながら、果たして日吉が縮地法を覚えて帰ることは出来るのかと考える。
「いくら古武術でも、縮地法は無理さー」
「ん…俺もそう思っ…ん、ぁ…あ…ん、ん…」
性急な仕草で木手を掌に包み込み、彼の思考を色めいたものだけに塗り替えるため知念が彼の好きなやり方で手を動かす。
言葉にならなくなったため息を飲み込むように唇を塞ぎ、身を捩って腰を押し付ける木手を弄びながらすぐに唇を離して呟く。
「やー、あにひゃーに手ぃだす気ばぁ?」
「ぁ、…しない…よ、っ…多分、…だって…、ん…経験ないでしょ、彼…」
「やーはそういゆってわんにも凛にも裕次郎にも慧くんにまで手ぃ出したあんに」
「あ、あ…っ、そう…?」
「じゅんにゆくさーさぁ、永四郎」
乱れる木手を見下ろしながら口元に笑みを浮かべた知念は、空いている手を伸ばしカーテンを引いて光を遮断した。
2009/04/13:完成
2009/04/13:UP