岐路3

「ウォンバイ、…日吉」
「あいひゃー!!負きぃたせ!!」

 息を切らし汗を滴らせて金髪を掻き上げる平古場は、ネットに近づいてくると手に持ったラケットを肩に置いて逆の手を差し出してくる。
 彼と同じように呼吸を乱して汗を拭っていた日吉がその手を取って握手を交わし、自分のバックの置いてある方へ向かった。

「あきじゃびよー、凛が負きぃたかー」
「裕次郎よー、わったーはもう引退してるんばぁよ。体がなまってるさぁ」
「言い訳ですか。口はなまってないみたいですね」
「あがー!生意気やっし日吉!」

 対戦した平古場は当然のように縮地法を駆使していたし、確かに厄介なものだった。
 あの動きは単純に動きを早めるものではなく、相手に気付かせずに移動して一瞬にして動いているように見せる技だ。
 少しでも気を抜けば相手の策に嵌り、出し抜かれてしまう。

 それでも勝てたのは、日吉がペースを乱されないために常に冷静な判断を意識して戦ったのと自分が一度彼らの試合を見て研究していたからでもある。
 認めたくはないが、青学と同じように初見で彼と戦った時今のように勝てたかどうかは分からなかった。

 バッグからタオルを取り出して汗を拭うと、横からぬっとドリンクが差し出される。

「あ…?」
「わん、田仁志どー。やー、日吉だばぁ?永四郎から聞いてるんどー」
「はぁ、ありがとうございます」

 お世辞にもスリムとはいえない田仁志はユニフォームではなく私服姿で、金網に凭れて座り込むとペットボトルのコーラを飲み始めた。
 彼に手渡されたスポーツドリンクの蓋を開けた日吉は、平古場と甲斐が自分の演武テニスのフォームを真似しているのを視界の端に捕らえながら木手の消えた部室の方へ視線を流した。

 カーテンが引かれているので中の様子は見えないが、引退した部室の中ですることなど何があるのだろうかと考える。
 跡部や忍足達もよく部室に出入りはしているが、大抵は何をするでもなくだらだらしていることが多かった。

「やー、比嘉中の練習に参加するんどー?」
「えぇ。そのつもりです」

 田仁志の問いかけに、部室から視線を外して頷く。
 木手には氷帝のメニューがあるなら、と言われたがそれは氷帝の設備があるからこそ出来るメニューだ。
 それが適わない比嘉中では、とりあえず比嘉中のメニューをこなすしかない。

「あいー、まぁ晴美ぃに捕まらねーよーに気ぃつけるばぁ」
「晴美ぃ?」

「監督ですよ。氷帝の監督よりも下品で乱暴極まりない男です」

 田仁志の向こうに黒いジャージに包まれた足が現れて、顔を上げると木手がラケットを片手に腕を組んで立っていた。
 首を俯かせてこちらを見下ろす木手は、下克上だと日吉の口癖まで真似し始めた平古場と甲斐に視線だけを一瞬やってからもう一度こちらを見た。

「試合、終わったの」
「はい」
「平古場クン、負けたね」
「…何で分かるんですか」
「君が田仁志クンと話しているから」

 良く分からない事を言いながらガットの調子を確かめ、木手はコートに入りながら向こうで遊んでいる甲斐に声をかける。

「甲斐クン、少し相手になって」
「あいー!珍しいばぁ?永四郎。知念じゃ足りんかったんさー?」
「余計な事言わないで、さっさとして。ゴーヤー食わすよ」
「あいひゃー、おっかねぇ」

 片足を後ろに引き斜に構えた状態から相手のサーブを待つ。
 甲斐が始めから裏手にラケットを持ってサーブを打つが、肩ならしだと言わんばかりの軽いステップで追いつきリターンエースを決めてしまった。

「甲斐クン、なまってますね」
「永四郎と違ってわんは勉強漬けやっし」
「俺はもう高校は決まってますからね」

 軽く打ち合っているだけでも、この中で彼が誰より強いのだと分かる。
 それは練習の手を止めて食い入るように木手を見つめる部員の眼差しからだったり、彼自身の動きからだったりするが、何よりも日吉が木手からあの時の気配を感じられていないからだ。

 完全に気を抜いた状態で、息を上げてプレイする甲斐を軽くあしらっている。

「永四郎、ありやって、あり!ビッグバン!」(あれやって、あれ!)
「どうせ返せないじゃない。無理でしょ」
「いーからやるさぁ、今日は返せそうな気するんどー」

 ポーン、ポーンとボールを何回かバウンドさせ、木手がサーブのフォームに入る。
 ビッグバンは全国大会では主に田仁志が使っていたサーブだったが、元々は木手が彼に教えたものだと言う。

 甲斐は必死にそれを打ち返そうとボールに向かって行くが、やはり気が付けばコートの端まで吹き飛ばされていた。

 今の自分なら、彼に勝てるだろうか。
 手塚戦で見せたようなあの殺気を向けてくれるだろうか、不意にそんな想いが脳裏を過ぎる。

「あがー…超いってぇ…」
「だから無理だって言ったじゃない」

 座り込む甲斐に木手がため息混じりに漏らしたのを見ながら、日吉はペットボトルを鞄の側において立ち上がった。

「木手さん」
「何?」
「試合してください」
「日吉クンと?」
「勿論です。この状況で誰とするんですか。それとも、俺に下克上されるのが怖いんですか」

 きつい視線で見据えて挑発した日吉に、木手はゆったりと唇に笑みを乗せる。
 緩慢な仕草で腕を組み、軽く首を傾げて眼鏡を上げ上目遣いでこちらを見据えてきた。

「下克上、ねぇ…一週間じゃ短いかもしれませんねぇ」
「っ…」

 完全に格下の相手をするような口調で言われ、やはり彼はプレイスタイルから受ける印象の片鱗を持っているのだと感じる。

「今すぐ下克上してやる」
「へぇ、それは楽しみだ。君からのサーブで構わないよ」

 木手から目を反らさずに甲斐のいたコートへ入った日吉は、転がっていたボールを拾ってサーブのフォームに入る。

 彼からは何の気配も感じられない。
 構えることすらせず、そこに立っているだけだ。
 この野郎、度肝を抜いてやる。心の中でそう毒づいてボールをトスした。




 こめかみを流れる汗を日吉はジャージで乱暴に拭った。
 額からも流れてくる汗も視界を邪魔されないように拭って、前方のコートで涼しい顔をしている木手を睨みつける。
 木手の方も息を上げて汗をかいてはいるが、試合内容は4−6、どう贔屓目に見ても日吉は押されていた。

 深く呼吸を繰り返して呼吸を整え、頭を冷やして打開策を巡らせる。
 そして木手がサーブを打とうとボールをトスした瞬間、コートの外から声がかかった。

「おい木手!!」

 ラケットを振りかぶっていた木手はそのまま手を下ろしてしまい、ボールはすとんと地面に落ちて転がって行く。
 試合中に声をかけてくる人間がいるなんて、という驚きが過ぎ去った後はあっさりとプレイを中断した木手に対する怒りのような物が湧き上がってきた。

 これが手塚なら、彼は止めなかったはずだ。
 格下だと思われている自分だから、彼は手加減して試合をしているし誰かの声でプレイを中断させた。

 声の主はでっぷりと太った男で、剥げた頭を掻きながら無遠慮にコートの中まで入ってくる。

「木手、ちょっと来い」
「はい。日吉クン、そういう訳だから後はみんなと練習していて」

 たった一言。

 そう声をかけただけで木手は男についていってしまった。
 審判を買って出ていた平古場があーあ、と面白くなさそうな声を上げて審判席から飛び降りこちらへ歩いてくる。

「あれが晴美ぃ。あいつに呼ばれちゃ仕方ねーな」
「監督でしょう?試合中に声をかけて連れて行くなんて非常識じゃないですか」
「あいー、晴美ぃに常識なんか通じねーさ。まぁ、あんまりわじわじーさんけー」
「わじわじ?」
「怒るなってことだばぁ。うり、あいつらランニングいちゅったばぁ?やーもいちゅんど?」

 木手の試合が終わったからか、ぞろぞろと適当な列を作って走り出して行く部員たちが見える。
 本来なら一緒について行くのがいいんだろうが、そんな気にもなれず日吉は自分の鞄の側で座り込んだ。

 すぐ側に座っていた田仁志の側にしゃがみ込む平古場と甲斐が、眉を寄せる日吉を眺めて声をかけた。

「たかが遊びの試合やっし、こだわらんけー」
「遊びの試合だろうが公式試合だろうが関係ないです」
「はぁやぁ、日吉は頭固いさー」

 軽薄な笑みを見せる平古場は、半ば意固地になる日吉に肩を竦めてため息のようにそう言う。

 もう温くなってしまったペットボトルを手に取りながら、自分でもどうしてこんなムキになっているんだろうかと思った。
 確かに、試合をしている最中に平然と中断させる監督は有り得ないとは思うが、別に決してやってはいけない事ではない。

 氷帝で試合形式で練習している時にも監督や跡部に止められてアドバイスを受ける事だってあるが、その事に不満を覚えた事は無かった。

「えー、永四郎に下剋上って、やーあいつに勝つつもりばぁ?」
「ええ、絶対勝ちます」
「あいー…やっけーど、裕次郎。永四郎がもしくにひゃーに負きぃたらわったー酷い目に遭うやっし」
(あー…厄介だな、裕次郎。永四郎がもしこいつに負けたら俺ら酷い目に遭うぞ)
「あぁ、手塚ぬ時と同じ目に遭うさぁ?」

 顔を見合わせ口調だけはうんざりとした風を装いながらも、彼ら二人の口の端は不思議と緩んでいてどこか嬉しそうにも見える。
 そうして不意に首を巡らせ、フェンスに凭れて立ちラケットを手持ち無沙汰に弄っている知念に問いかけた。
 
「えー、知念。ちゅうや、永四郎機嫌良かったばぁ?」
「……………」
「ちねーん、知念よー」
「…………あい?」
「駄目だ、あにひゃーにまぶぅやー抜かれてんどー」

 声を上げて笑う二人に知念はぼんやりとした視線を向け、何処か疲れたように大きくため息を漏らす。
 別に彼は試合も練習もまだしていないのにどうしてだろうか、日吉はそんな事を思いながら軽く首を傾げた。



 それから2日間、日吉は比嘉中と武術の道場と木手の家だけを行き来した。
 設備の無い中学での練習は主に基礎体力をつけるトレーニングと、木手や他の元レギュラーとの試合しかできなかった。
 舗装された道路をランニングするのではなく足を取られる砂浜を走るのは普段鍛えている日吉でも骨が折れたし、木手との試合は未だ彼に相手をして『もらっている』という域を出ない。
 他のレギュラーとの試合も勝ったり負けたりを繰り返しているし、少しでも気を抜けば厄介な縮地法や彼らの得意技に出し抜かれてしまう。
 けれども、これまで戦う事の無かったプレイスタイルの彼らと試合をする事は日吉の経験値を確実に上げてくれていた。

 それは道場の練習でも同じことだった。
 道場は木手の祖父が経営していて、日吉は師範であるその祖父直々に沖縄武術の基礎を教えてもらっている。
 当たり前だが縮地法は教えてもらえるわけもなく、木手や平古場たちの縮地法を見て覚えるという独学に近かったが他流派との試合は新鮮だった。

 跡部の言った通り、比嘉中は氷帝とは違って部員数が少なく一人一人の距離が近い所為か団結力があった。
 レギュラーと平部員が悲しいほど分け隔てられる氷帝でやってきた日吉にとって、部員全員が同じメニューをこなす事が無かったからだ。
 人付き合いの下手な日吉ではあったが、人懐っこい平古場や甲斐のおかげか比嘉中の面々ともそれなりに打ち解け、そこから学ぶことも少なくはない。
 彼らとの関係も、良好なうちにこの滞在を終わらせることが出来そうだった。

 沖縄へ来て4日目の夕方、道場でのトレーニングを終えた日吉は離れのバスルームでシャワーを浴びていた。
 頭から熱い湯を浴びて汗を流し、両手で髪を掻き上げる。
 ふと脳裏に木手との試合が蘇って、何かを蹴りつけたいような衝動が湧き上がってきた。

 手塚との試合で見た木手と自分の相手をしてくれている木手ではまるで別人のようだ、と3日一緒に過ごした日吉は彼へそんな印象を抱いていた。
 何か薄い膜のようなもので覆われているように、木手の気配はぼんやりとしてピントがぼけている。

 道場でのトレーニングですら、それは変わらなかった。
 最初から感じていた彼への違和感は更に顕著なものになり、何故か気にしてしまう自分に苛付きを覚える。

「このままじゃ沖縄に来た意味が無い…」

 己を奮い立たせるようそう呟き、シャワーを止めて風呂場を出る。
 竹を編みこんで作られた棚に置かれているバスタオルで体を拭い、腰に巻いて荷物の置いてある部屋に戻った。

2009/04/13:完成
2009/04/14:UP