岐路7

 6日目ともなれば比嘉中の生徒も日吉を受け入れ、ほどほどに打ち解け始めているらしい。
 打ち解ける必要などないと木手は思うが、全国大会出場するほどの実力のある選手との交流は後輩にもプラスになる事はあれどもマイナスになる事はないだろう。

 今日も1・2年生に混じって、日吉がランニングに出ようとした丁度その時、職員室にいたはずの顧問がいきなり現われて怒鳴り声を上げた。
 困惑する日吉をよそに浜辺へ集合と怒鳴り散らしたため、木手はいつも素潜りの練習をしている浜辺にいた。
 引退しているため練習には自由参加を認められているレギュラーは、真冬にも関わらず素潜りをする面々を波打ち際で眺めていた。

「あにひゃーとやったんだって?」

 隣に座ってきた平古場をチラリと睨んで、お膳立てをどうもと皮肉を言えば、彼は目を丸くしてこちらを見たがすぐに何を言っているのか分かったらしくにやりと笑った。

「で、どんな具合よ」
「……筋は良かったけどね……」
「やっぱり童貞かよ」
「そうね。初めてだって言ってた」

 ただの好奇心か、はたまた下衆な欲望から誘ってきたのかと思えば敷いた布団の上で正座したまま固まっていた。
 それを思い出して少し口元を緩ませると、木手の反対側の隣で胡坐をかいて座っていた甲斐がポツリと口を挟む。
 その表情は、日吉をからかっていたときとはまるで違う、何処かふてくされたような表情だった。

「どうせ下手糞だったんどー」
「甲斐クン、そういう言い方止めなさい。キミ、背中に跡残してたでしょう」
「知らん、わんじゃねーさ。誰がやったかなんかわかんねーだろ木手は」
「甲斐クン」

 咎めるのではなく宥めるような木手の声に、甲斐は唇を突き出してそっぽを向く。
 平古場が自分の背後に手を付いて体を反らせ、木手の後ろから甲斐の方を覗き込んだ。

「甲斐よー、諦めれ。永四郎はこういう奴なんだからよー」
「……凛が悪いんやっし!あにひゃーにいゆってよ」
「わんがいゆってなかっても木手はいつか乗っかってたさ」
「永四郎、ちゅうこそわんの相手しろよ。下手糞と遊んでもおもしろくねーだろ」(今日こそ)

 体育座りのように膝を曲げたその下で、甲斐は海岸の砂を掴んではさらさらと手の中から零している。
 こちらを見ずに言ったその言葉を聞きながら彼をしばらく見つめていた木手は、何も答えずに立ち上がった。

 元々甲斐は多少強引で我侭な所があるにせよ、日吉が来る前はこんな風に自分を誘う事は無かった。
 妬いてでもいるのかと思ったら、自然と木手の口元が綻ぶ。
 誰かが自分に夢中になっているというのは、例え自分がその人を好きでなくとも心地がいいと木手は思う。

「えー、永四郎!ニヤニヤすんな!」
「別に笑ってないでしょ。気が向いたら相手してあげるよ」
「あがー!」

 甲斐が木手の足元に砂を投げてゴロリと寝転がるのを、平古場もニヤニヤと笑いながら見つめる。
 不貞寝するようにあちらを向いてしまうのを見ながら木手が背を向けると、追いかけるように平古場から声をかけられた。

「えー、まーいちゅんば」
「一緒に潜ってきます」
「日吉が心配なんどー」
「まさか、単にそういう気分なだけです。甲斐クン、俺に勝てたら好きなことさせてあげましょうか」

 ガバッと体を起こした甲斐は、しばらく視線を宙に漂わせていたがまたゴロリと横になる。
 乗るかと思っていた木手は眉を上げて甲斐を見つめ、恐らく同じ事を考えていたらしい平古場も甲斐を見た。

「やんねーの?」
「永四郎に勝てるのは不知火ぐらいさー。わんじゃ無理やっし」
「おや、敵前逃亡ですか。じゃあ平古場クンは?」
「この季節に海に入るのはごめんさー。日吉に言ってやれよ」

 そうね、と頷いて二人に背を向けると、寝転がったはずの甲斐が立ち上がる。
 無言でジャージの上着と帽子を砂浜に置き、振り返る木手を追い抜いて波打ち際の方へ歩いていった。
 座り込んだまま甲斐を見送っていた平古場が、肩を竦めて木手を見上げる。

「約束さー。かんなじ守れよ」
「…はいはい」

 木手も平古場と同じように肩を竦め、比嘉中の部員と日吉のいる波打ち際へと歩き出した。



 有り得ない、日吉はそう思った。
 いくら気温が高いとは言え海に入って平気なほど暖かくは無い冬の沖縄で、海に潜れと竹刀を持った顧問が怒鳴るなんて。

 竹刀を持って怒鳴り散らす骨董品の教師などテレビの中でしか見たことが無い日吉にとって、彼が怒鳴り散らす精神論はただのシゴキ、と言うか最早虐待としか思えなかった。

「えー!!やったーへーさ入れ!!次行くぞ!」

 ガチガチと震えながら身を縮めて出てくる部員達と入れ替わりに、波打ち際で待機していた次の部員達が海へと入って行く。
 呆然とその光景を見ていた日吉を目に留めた顧問が、砂を蹴散らしながらこちらへ歩いてきた。

「東京者、やーも入れ」
「は?」
「比嘉中で面倒見てやってるんど、さっさとしれ!」

 怒鳴ると同時にヒュン、と竹刀が空を切る音がする。
 咄嗟に身を捩って上から打ち下ろされる竹刀を避けたが、すぐに横から薙ぎ払う動きで日吉の腕に襲い掛かってきた。
 避けるにはもう間に合わないと思い、日吉は目を強く閉じ身を硬くして衝撃を待つ。

「監督、やめてください。彼は俺の客です」
「っぐ…!!」

 しかし予想していた衝撃は来ず、代わりに木手の嗜める声と顧問の唸り声が聞こえた。
 どうやら竹刀が触れるギリギリの所で、彼が顧問の竹刀を叩き落したらしい。 
 砂浜に落ちた竹刀を拾った木手は、それで自分の肩をぽんぽんと叩く。

「便宜上監督に許可は取りましたが、指導のお願いはしてません」
「…っけ!!返せ!」
「どうぞ」

 ひったくるようにして竹刀を取り返した顧問は、ポケットから煙草を取り出して口に挟むとライターで火を付ける。
 煙を吐き出して周りの部員がじっとこちらを見つめているのに気づくと、また竹刀を一振りしてがなり立てた。

「さっさとしれ!!始めるんど!」
「日吉クンはどうしますか」

 部員たちが上着を脱いで次々と海へ入っていく中、ユニフォームのジッパーを下ろしながら木手が声をかけてくる。

「え……?木手さん入るんですか。いくらあったかいとはいえ真冬ですよ」
「3年間やってきた練習ですからね。今更どうということはないよ」

「永四郎!早くしれー」

 いつの間に来たのか、波打ち際にいる甲斐が木手を呼ぶ。
 二人でそちらに視線を転じれば、ニヤリと笑みを浮かべて言った。

「日吉よー。素潜りで永四郎に勝ったら何でも言うこと聞いてくれるんどー」
「は?」

 驚いて木手を振り返っても、彼は特に動じることもなくあっさり頷いた。
 再び甲斐へ視線をやれば、不穏な笑みを浮かべている。

 もしここで甲斐が勝てば、また木手によからぬ事を強要するんじゃないかと思った。
 平古場の話では木手も納得ずくでレギュラーと関係を持っているようだったけれど、日吉にとってそれは異質で不自然な事だった。
 下品な言い方をすれば、彼はレギュラー陣の性欲処理を押し付けられているのだ。

 そして木手がそんな場所にいる事に、不満もある。
 それが彼への独占欲から来るのか、それとも潔癖だった自分の性質から来るのかはよく分からなかった。

「わかりました。俺もやります」
「え?」
「木手さんに勝てば言う事を聞いてくれるんでしょう」

 今度は木手が驚いた顔をし、甲斐は自分が日吉に教えたにも関わらず笑みを消し去ってふてくされた。
 そのまま木手と日吉からふいと顔をそむけ、先いちゅんど、と言ってどんどん海の中へ歩いて行く。

「いいんですか。慣れない人には危険ですよ」
「大丈夫です」
「……限界が来たら素直に上がりなさいよ」

 木手に勝って何か言う事を聞いて欲しいわけではない。
 今の所、彼に対して望む事など特にありはしない。
 彼ではなく、甲斐に勝って木手に対する無茶な要求を退けてやりたかった。

 氷帝のユニフォームを脱ぎ捨てて砂浜へ落とした日吉は、靴と靴下も脱いで裸足になると先に入っている甲斐を追いかけて波打ち際へ進む。
 南国沖縄とは言え1月の海はまだ少し冷たく、素足に波が打ち寄せると心臓が縮まるような思いがした。
 長ジャージに染み込む海水も不快だったが、水深が腰辺りまできた頃にはそれも慣れてしまった。

 甲斐は日吉が乗ってきた事をやはり面白くは思っていないらしく、まだふくれた表情でこちらを見ている。
 けれど隣に並んだ日吉を見て、肩を竦めた。

「東京のもやしっ子がどんだけできるんばぁよ」
「あまり見くびると痛い目を見ますよ」
「へぇ、言うやさ」
「甲斐クン、いい加減にしなさいよ」

 後ろから追いかけてきた木手に注意されて、甲斐はつんと顔を反らしてしまう。

「だぁ、やんぞー!!」

 時代錯誤な顧問の号令で、日吉は肺一杯に空気を吸い込み海中へと身を沈めた。




 海の中で日吉が覚えているのは、誰かの吐いた空気がボコボコと上がっていく音と、東京とは違う鮮やかな海の色だ。
 周りで自分と同じように身を沈めている面々もぼやける視界の中にあったような気がしたが、誰が誰かまでは分からなかった。

「日吉クン!日吉クン大丈夫ですか!」

 気が付いたら、日吉は砂浜に寝かされていた。
 自分を覗き込む木手の向こうに、濃い青色の空が広がっている。

「あ……れ」
「気が付きましたか。俺が分かりますか?」
「……はい」

 軽く頬を叩きながら問いかけられて、頷いた日吉に木手は安堵のため息を漏らした。
 ふらつく頭を何とか押さえ込んで起き上がると、木手の隣で甲斐がこちらを心配そうに見ているのに気づいた。
 波打ち際では、まだ顧問と他の部員が練習をしている。

 そこでようやく、自分が海で溺れたのだと分かった。

「限界が来たら上がりなさいと言ったでしょう。こんなところで死ぬ気ですか君は」
「すいま……っう…!」

 口を開いたら急激に吐き気が込み上げてきて、日吉は身を捩って砂浜に吐き出す。
 出てくるものはそのほとんどが透き通った水で、口の中はあの独特な酸味と言うよりかは海水の味がした。
 背中に木手の手が触れ、上下に擦りながら日吉の考えを肯定する。

「全部吐いてしまいなさいよ。だいぶ水を飲んだみたいだからね」
「う、ぇ…っ……!」
「慣れない人には危険だと言ったでしょう。自分の限界を見定めるのも大切な事ですよ」

 耳が痛い事を言われ、日吉は返事も謝る事も出来ずに頷いた。
 一頻り水を吐き出して顔を上げるとミネラルウォーターのペットボトルが差し出され、口の中を漱げと言われる。
 正直水はもういいと思ったが、気持ち悪い感触を水で漱ぐと気分の悪さは少しましになったように思えた。

「甲斐クン、俺と日吉クンは先に帰りますね」
「だーるな、その方がいいやぁ」

 甲斐に手渡されたタオルを突っぱねる気力もなく受け取って、それに顔を埋める。
 不甲斐ない自分がとても惨めだと思った。

 もともと持久力は自分のウィークポイントだと言われていたのを知っている。
 だからこそそれを鍛える練習は欠かした事が無かったはずだった。
 悔いているのはその事ではない。

 日吉が悔いているのは自分が冷静でいられなかったことだ。
 おそらく天地が引っくり返っても氷帝ではこんな練習はしないだろうが、仮に行ったとした場合自分はこんなに無様に溺れる事はなかっただろう。
 限界ギリギリまで勝負に挑んで、そして悔しさを噛み締めながらも練習から離脱したはずだ。
 冷静でいられずに限界を見誤るなんて、持久力が足りない以前の問題だ。

「立てますか」

 ぐるぐる回る後悔の渦に沈みかけていた日吉に、木手が声をかける事で引き戻す。

「大丈夫です……」

 咄嗟にそう答え、砂浜に手をついて立ち上がった。
 けれど両足で地面を踏みしめて体を起こした瞬間、柔らかい砂浜に足を取られて軽くよろける。
 後ろに体が傾ぐのを感じて軽く後退した日吉は、突然前に引っ張られて何とか転倒を免れた。

「っ、……!」
「全然大丈夫じゃあないみたいですね」

 転倒を助けたのは木手だった。
 日吉の胸倉を思い切り掴み、片腕で体重を支えている。
 決して軽くはない自分を腕一本で易々と支えられる。

 決定的な自分と彼の差は、ここにあると思った。
2009/04/13:完成
2009/04/16:UP