岐路8

 木手に付き添われて木手家の離れに帰って来た日吉は、のろのろとシャワーを浴びて海水を洗い流した。
 シャワーを浴びたいと言い出した自分に木手は呆れたような顔をしたが、海水まみれの汚い身体で他人の家の蒲団を汚すのは耐えられない。

 風呂場からようやく上がってきた日吉は、部屋に敷かれている布団を見てぎくりと身を強張らせる。
 木手との情事を思い出したからだが、本人は日吉のために布団を敷いた後どこかへ行ったらしく部屋にはいなかった。
 それが日吉を安心させ自然と肩の力が抜けて行く。

 重い体を布団へ横たえると、そのまま眼を閉じた。

 後悔は未だ色濃く日吉の心に満ちている。
 あの時もっと冷静に自分を抑えられていれば、こんな失態はなかった。
 反省とそれを次に繋げるための原因究明は、どうしたって木手と甲斐とあの約束事に辿り着く。

 負けられないと思った。
 甲斐が木手に勝ってしまったら、甲斐は彼に酷い事を要求するだろう。
 今になって考えれば自分が勝った所でどうなると言う問題でも無いのに、絶対に実現させてはならないと思った。
 だから冷静さを見失って、無茶をしてしまった。

 木手は甲斐に勝ったのだろうか、霞む記憶を何度呼び覚ましても日吉には分からない。
 けれど自分を救ってくれたのが木手ならば、恐らく木手は勝負を放り投げて日吉を海面に引き上げたはずだ。

「…………」

 なら今、木手がいないのは甲斐の所へ向かっているからだろうか。
 勝負に勝った甲斐は、平古場や自分が木手にしたような事を要求するのか、いやもしかしたら日吉が想像もつかないような事を要求するのかも知れない。

 ジリッと胸を焼く感情にこれが嫉妬だと気付かないまま、日吉は寝転んだ布団から飛び起きる。
 けれどその瞬間に玄関の開く音がして、数秒もしないうちに木手が顔を出したため出鼻を挫かれてしまった。
 彼はトレイに乗った食事を運んでくる所で、自分を呆然と見つめている日吉に首を傾げて答える。

「木手さん……」
「何?食事はこっちでの方がいいと思って持って来たんだけど余計なお世話でしたか?」
「……いえ、すみません。ありがとうございます」
「気分が優れないなら寝てなさいよ」

 微かに食器の触れ合う音を立ててトレイを置いた木手は、その場に腰を下ろす事はせずに再び立ち上がりポケットから小さな紙切れを取り出してトレイの傍に置いた。

「これ、母屋の電話番号です。何かあったら電話して、家の人に来てもらってください。俺は少し出かけてくるから……」
「あの人の所へ行くんですか」

 言葉を遮って聞いた日吉に、立ったままの彼から興味深そうな視線が落とされる。
 意図せず咎めるような響きを伴ってしまっただろうかと思ったが、木手はそれ以上言及せずに何でもない口調で答えた。

「勝負に負けたからね。さっきメールが来ましたし」
「それは俺が溺れたからでしょう。だったら……」
「君は何か勘違いをしているんじゃないの?」
「え?」

 今度は木手が日吉の言葉を遮って問いかけ、日吉の視線を上げさせる。
 けれど木手はもう日吉を見下ろしてはおらず、携帯電話の画面を眺めていた。

「別に俺は嫌々やってる訳じゃない。嫌なら殴ってでも止めさせるからね」
「だけど……」
「別に誰が勝とうが今日は甲斐クンと寝るつもりでしたよ」

 久々だからね、なんてまるで映画を見に行くような気軽さで持って言う木手が、まるで自分とは違う人種を見ているようだと思った。

 木手とセックスした後でも、日吉の貞操観念は変わらなかった。
 好きな人と付き合って、恋人になり、セックスする。
 順序が変わってしまう事は許容できても、セックスする相手は常に恋人であると言う事は永久不変だ。
 だから日吉は、木手を恋人にしたかった。
 それは別に世間体だとか、自分の中の固定観念から外れるからだとか言う理由だけではなく。

 単純に、木手に自分以外の男と寝て欲しくない。
 それだけだった。

「わかりましたか?日吉クン」
「行かないでください。俺が相手をします。誰でもいいんでしょう。だったら俺がします」

 呆れた声で自分を呼んだ木手は、その次の言葉に一瞬眉を寄せたがすぐに唇を吊り上げた。
 何か楽しい事を見つけたようなその表情は、自分が木手の関心を引けたことを意味している。

「日吉クンが相手をしてくれるの?」
「はい」
「へぇ、あれだけしたのに足りなかった?意外と旺盛だね」

 皮肉な言葉に何と答えればいいのか分からずただ見上げる日吉を鼻で笑い飛ばして、木手はようやくその場に腰を降ろした。
 携帯をその場に置き、微かに乱れた髪の毛を撫でつける。

「だったら俺が満足するまで相手をしてもらおうじゃあないか、と言いたい所ですが、今日はもう休んだ方がいい」
「…………」

 納得していない目つきで木手を見つめる自分に、彼は子供の我儘を窘める母親のような表情をした。

 その間にも、木手の傍に置かれている携帯は畳の上で震えて光り、精一杯存在を主張する。
 鳴り続けては息を潜め、そしてまたすぐに鳴り始める。

 それを忌々しげに睨み付ける日吉の隣で、携帯の持ち主は口を開いた。

「君だって分かってるんでしょう」
「……何がですか」
「こんな事しても同じだって」

 何の事だか木手は言及しなかったが、それが甲斐と木手の事なのは明らかだ。
 そして日吉は、十分に分かっている。
 今こうして木手を引き留めても、結果は同じだと。

 明後日になれば自分は東京へ戻る事になっている。
 今どんなに木手を引き留めたって、自分がいなくなればそれは何の意味もなくなることだ。
 けれどみすみす他の男へ渡すような真似が、できるはずもない。

「木手さんは、好きな人はいないんですか」
「いませんね」
「好きでも無い人と…その、寝るのに抵抗はないんですか」
「君が言うの?今この状況で?」

 心底馬鹿にした表情で笑う木手は、未だ光と振動で存在を主張する携帯電話に手を伸ばす。
 咄嗟にその手首を掴んだ日吉に止める術はなかったが、そうせずにはいられなかった。

「俺なら木手さんを大切にできます。あの人たちみたいにみんなで共有なんかしません」
「君はやっぱり何か勘違いをしてますね。いいから横になりなさいよ。君さっき溺れたんですよ」

 やんわりと手首を掴んだ手を外され、柔らかい声で答えながら彼が携帯を手に取るのを眺める。
 木手の片手が日吉の肩に乗り、横になるのを促すように力が籠められた。

 練習でのアクシデントで疲れている体は、正直に言えば休息を求めている。
 布団に横たわれば、すぐに睡魔がやってきた。
 しかしこのままにしておくことはできない。

「木手さん」
「俺は何も女の子みたいに大事にしてほしいわけじゃありませんよ。俺は君や甲斐君たちと同じく男で、きっと君より何倍も即物的です」
「でも」
「自分がどんな風に見られているかなんて、十分理解してますよ」

 言い募る自分に対して木手は先ほどまでとは違う強い口調の声の後、うんざりしているのがありありと分かるため息が聞こえる。
 何となく、その態度は日吉に見せつけるためのものだろうなと思う。
 もちろん本心でもあるのだろうが、木手はそれを隠すだけの理性を十分に備えている。
 けれど敢えて見せつける理由は、日吉に自覚させ自ら身を引かせるためだろう。

「話は終わりです。君は今日の事で少し混乱してるみたいですね。まるで手のかかる子供みたいだ」
「…………」

 からかうような口調にも反論しない自分を、木手はしばらく見下ろしていた。
 眼鏡の奥の視線は決して穏やかなでも暖かなでも無く、面倒だと如実に表している。
 けれど一瞬目を閉じて肩を竦めた後、開いた瞳は日吉が沖縄へ来た時から一貫して木手のとっていた態度と同じく柔らかなものだった。

「まぁ、いいでしょう」
「木手さん……?」
「とりあえず今日は君の様子を見ていないと駄目ですし、明日はまた飛行機に乗るんでしょう。調子が悪くなったらすぐに言いなさいよ」

 甲斐の所へ行かないと木手が言ってくれただけで、安心した日吉の体には一気に睡魔が襲ってくる。
 瞼が急激に重くなって目が開けられなくなり始めた頃、木手の手によって体に布団がかけられるのが分かった。

「ゆくいみそーれ。日吉クン」

 それがお休み、と言う意味の言葉だと気付いたのは次の日の朝だ。




 最初に出会った空港のロビーで、日吉と木手は向かい合っていた。
 今思えば初対面でじろじろと全身を見られていたのは、テニスの腕の値踏みだけじゃなかったのだろう。
 恐らく性的な魅力があるかどうか、自分の好みの範疇にあるかどうかと見られていたはずだ。
 彼が自分をどう評価したかまではよく分からないが。

「日吉クン、どうだった。沖縄は」
「えぇ、とても有意義でした。色々と…お世話になりました」

 含みを込めて言ったつもりはなかったが、木手にはそう聞こえたかも知れない。
 クスリと笑った口元が弧を描いて、日吉はそこから視線を剥がせなかった。

 たった一週間なのに、自分は随分と変わってしまったような気がする。
 それがまるきりテニスの事だけではないのが、どことなく癪だった。

「そろそろ行きなさいよ。別れを惜しんで乗り遅れたなんて冗談じゃないですからね」
「はい」

 ロビーの先にある搭乗口の方を向いて言った木手に、頷いて一旦は背を向ける。
 そして数歩進んでから、やはりこれだけは言っておかねばと振り返った。
 腕を組んだ木手は小首を傾げてこちらを見ていて、微かだが怪訝そうに眉を寄せる。

「木手さん、また会いに来ていいですか」

 ざわつくロビーの中で、日吉はその視線で木手だけを射抜いた。
 それを、木手はまっすぐに見返す。
 目つきが悪い、視線が強いと普段から言われているが、木手も同様だと思う。
 彼の場合は、それ以上に視線を跳ね返す気の強さがあるのだろう。

 けれど、ふと視線を落とした木手は最後の最後に柔らかい余所行きの顔を作って見せた。
 その顔が木手の作り上げた偽りの表情だと分かるぐらいには、自分たちの距離は近づいている。

 日吉の持っていた考え通り、性格はその人のプレイスタイルに重要な影響力を持つ。
 木手にはやはり、自分の得意なプレイで相手を倒すのではなく対戦相手の弱点を素早く突くと言う嫌味なプレイスタイルが指し示す性格の一端をその身に潜めていた。
 素の彼はきっとプライドが高く、抜け目が無く神経質で嫌味な部分を持っている。
 だがそれは性格の一部であり、同時に気を遣うべき相手には気を遣える礼儀正しさもまた彼はその身に内在させていた。
 そして、彼自身が自認する即物的で快楽主義な部分も。
 少なくとも日吉は、その事を何となく把握するぐらいには木手と行動を共にしていたと思う。

 だからこそこの場面で、彼が自分を東京から来た客として扱った事にズキリと胸が痛んだ。

「えぇ、沖縄はいいところですからね。今度は遊びに来るといい」

 それなのに彼は、口先では歓迎するような事を言う。
 困惑して首を傾げる日吉に、木手はさぁ早く行きなさいよと急かしてきた。

 時間は余り無い。

 結局日吉は、彼の真意を最後まで測る事は出来なかった。

2009/04/13:完成
2009/04/16:UP