地下迷宮

 男の女王がいると言う噂が、ある種類の人間たちの間で出回っていた。



 何の変哲もない繁華街の一角。
 その店の外には居場所を探して徘徊する女子高生やエネルギーのやり場を持て余してただ遊び呆ける若者たち、仕事に疲れたサラリーマンなど、一夜の遊びを求めて様々な人間達が行き交っていた。
 雑居ビルの壁にあるステンレスの近代的な扉には、店の看板などは無い。
 ただ扉の真ん中にポツリと小さく、EKと書かれていた。

 上等そうなスーツに身を包んだ男が一人、その扉の前に立った。
 後ろを歩いていたサラリーマンが急に立ち止まったスーツの男にぶつかりかけ、チッと舌打ちをして傍を通り抜けていく。
 けれどそのサラリーマンは、男の前にある扉には気付きもしなかったようだった。
 男は扉に手をかけ、一つ深呼吸をしてから腕を引いた。

 扉に鍵はかかっておらず、意外にも軽く開く。
 その奥は地下へ降りる階段が広がっており、壁に埋め込まれたオレンジ色の光がその先を見通していた。
 途中で直角に折れているために何があるのかは確認できないが、男は一歩ずつゆっくりと階段を下りていく。
 二、三段下りたと事でバタン、と音を立てて扉が閉じると、防音効果が高い所為か外の喧騒が全く聞こえなくなった。

 上から見えていた踊り場まで階段を下りた男は、右手に曲がっている階段に沿ってそちらを向く。
 五段ほどの短い階段の先には、小さなカウンターが一つ、やはりオレンジの光に照らされていた。
 スツールが三つほどしか置けないそのカウンターの中にはやたらと背の高いバーテンが一人立っていて、浅黒い肌に黒いベスト姿がまるで影のようだった。
 カウンターの両脇には二つの扉があり、片方は扉の上部に赤い光がもう片方には青い光が灯されている。

「いらっしゃいませ」

 低く重い声で言うバーテンに近づいていき、男はポケットから封筒と折りたたまれたままの紙幣をカウンターに差し出す。
 受け取ったバーテンはそれを開いて中に目を通し、紙幣を手に取り青い方の光が灯された扉を指差した。

「丁度始まった所さ」



 息苦しそうな呼吸が狭い室内に充満していた。
 ともすれば黒に見間違えそうな紫色のタイル張りの部屋の中には、壁やシルバーの棚にアダルトグッズがこれ見よがしに飾られている。

 ギャグボールを口に装着された全裸の男の奴隷が、その部屋の真ん中で膝を折っていた。
 手を後ろで拘束され、二の腕の辺りで胴体を真っ赤な革のベルトで縛り上げられている。
 色白の肌によく映える赤いベルトは肌に食い込み、呼吸をするたびに軋むようだった。
 胴体を縛ったベルトは天井から下げられた鎖に繋がり、色白の男が手を付かずとも四つん這いの体勢を取れるように吊り上げている。

 その白い臀部に、パラリと乾いた音を立てて鞭の先端が触れる。
 先端がいくつかに別れたバラムチと呼ばれるそれが、臀部から腰に這い上がりまた落ちていった。
 身じろぎする奴隷は恐怖からか期待からか、恐らくは後者の感情をその胸中に満たしているのだろう。
  
 ヒュン、と静かな部屋に空気を切り裂く音がした。
 次の瞬間派手な破裂音と鎖の軋む音、無様な呻き声が聞こえ部屋の中は一気に騒がしくなる。

 打たれた臀部は薄赤く染まり、そこへ黒いピンヒールが突き刺さって再び男を悶えさせた。

『ねぇ、気持ちがいいですか?こんなもので叩かれて』

 奴隷の主人は全身真っ黒のボンデージファッションに身を包んでいる。
 ピッタリと上半身に張り付く上着はジップアップのスタンドカラーでストイックな襟元とは逆に、ノースリーブな袖で腕を完全に露出させていた。
 下半身を覆うものはかろうじてホットパンツと呼べるであろう丈のパンツと、膝上までのニーブーツだった。
 安っぽいてらてらしたものでは無いその素材は、明るいライトに照らされて鈍い革の光を放っている。

 その人間の胸は膨らんでいない。
 相手をなぶる声は低い。
 袖から露出した腕の筋肉も、腿の筋肉も女性の物ではなかった。
 上品そうな口元に薄い笑みを浮かべて、その人間は男を見下ろしている。

 取り澄ました顔をしているが、彼の頬は上気し微かに吐き出す息は熱い。
 薄く開いた唇を舐め濡らす真っ赤な舌先が、やけに鮮烈な印象を残した。


 バーテンに手紙を渡した男は、その光景をガラス越しに見ていた。
 通された部屋は、コンクリートの打ちっぱなしの殺風景な内装だった。
 その部屋の中心に、ぽつんと一つだけ一人掛けのソファが置かれている。
 異様なのは、四方を囲む壁の一つが全面ガラス張りな事だ。
 場所的に鑑みれば、カウンターを挟んだ反対側にあった扉の奥が今目の前で狂宴が繰り広げられている部屋に繋がっていたんだろう。
 ソファは、その部屋に向けて置かれている。

 男は興奮していた。
 噂に名高い彼を見つけた興奮と、その彼自身に。

『ねぇ、知ってます?君のこの姿を、誰かが見ているんですよ』

 彼はそう言うとこちらに視線をやった。
 口ぶりから向こうの部屋にはこちらの部屋の様子は見えないのだろうか。
 ガラス越しに聞こえてくる声は、マイクを通している所為か微かなノイズが混じっている。
 けれど彼は、まるで男がそこに座っている事を知っているようにこちらを射抜いた。
 欲に濡れた目が、舐めるようにこちらを見つめる。
 ややあって逸らされた視線は縛られた奴隷に戻ったが、男はその視線が忘れられない。

『嬉しいでしょう?君は見られるとその汚らしい性器からダラダラ涎を流すものね』

 縛られた全裸の男がまた、ガチャリと鎖を鳴らして呻く。
 その間にも鞭は唸り、何度となく打たれた臀部は微かに皮膚が破けて真っ赤な血が溢れ始めていた。

『あぁ、痛そうですね。可哀想に。痛い?もう嫌?』

 笑みを多分に含ませた声音で、しかし優しく囁かれて奴隷が頷く。
 興味を失ったようにバラムチを放り投げた彼が、奴隷の腕の拘束に片手をかけた。
 カチャンと言う軽い音を立ててあっさりと外れてしまったそれに、男は落胆する。
 けれどそれは奴隷もまた同じで、そして彼の策略だった。

『嫌ならもうやめますよ。俺は人の嫌がる事は嫌いなんです』

 両手が自由になった奴隷は上体を起こしたが、膝を付いたまま放心したように彼を見上げている。
 コツン、コツン、とタイルを叩くピンヒールの音を響かせながら彼は奴隷の背後に回ってギャグボールを外してしまった。
 どろりと溢れ出した唾液が糸を引いて床に落ち、奴隷が手の甲でそれを拭う。

 彼はギャグボールも放り投げ、部屋に唯一ある上等そうな椅子に腰かけた。
 ゆったりとした大きなその椅子は、主人を受け止めても軋み一つなく柔らかく沈む。
 長い足が組まれ、肘掛に頬杖を付いた彼がゆったりと目を細めた。

『さぁ、プレイは終わり。さっさと出て行ってくださいな』

 嫌だ、と呂律の回らない口で奴隷が答える。
 その場で座ったまま、ちゃんとしてくれと言うような意味合いの事を口走ったような気がした。

 けれど彼は動じない。
 ただじっと奴隷を見下ろして、この場にそぐわないのんびりとした口調で話し始めた。

『君は一体何のつもりでここへ来たんです?君、立派な学者さんなんでしょう?何だかすごい賞だって貰ってるみたいじゃないですか。その若さで期待の星なんて言われて。だけど本当の顔はこんな所で男の俺に跪いてる。相当のマゾで変態ですねぇ』

 永四郎!と焦れた奴隷が名前を呼んで立ち上がり、彼に掴みかかろうとした。
 けれどその前に彼の長い足が鈍い音を立てて奴隷の腹に突き刺さり、奴隷は糸が切れたように倒れ込む。
 嘔吐して呻き声を上げるのを見下ろし、座ったまま冷たく言い放った。

『変態のくせに俺に触るんじゃあないよ。奴隷は奴隷らしく、主人に物を頼む態度があるだろ。さっさと起きなさいよ。骨が折れるほど強くは蹴ってないでしょう』

 ヨロヨロと力なく起き上がる男の足元に、彼は手を伸ばして棚から取った手錠を放り投げる。 

『自分で付けなさいよ。君には自覚が足りない。自分でやるんだ』

 奴隷は、男と同じくここへ訪れるのが初めてなのだろうか。
 そうであれば、自らを拘束するのは酷い屈辱なはずだ。
 やはり奴隷ははっきりとその顔に苦渋の表情を浮かべ、鈍い動作で手錠を拾い上げる。

『付けたら鎖に固定して。さっさとしなさいよ。自分一人じゃ何もできないんですか君は』

 ようやく奴隷が言われた通りに自らを拘束し終えると、彼が鎖を片手で引き上げる。
 天井に滑車の取り付けられた鎖は、そのまま奴隷を両腕だけでつま先立ちになる高さまで引き上げそこで固定された。
 その操作は全て主人である彼の手元で行われ、彼は奴隷には指先一本触れていない。

 しかしそれでも、奴隷の性器は勃起して天を突いていた。

『ほら、そっちの鏡に向かって宣言しなさい。私は叩かれたり酷い言葉で侮辱されるのが何よりも気持ちがいい変態ですって』
『だってそうなんでしょう?今だって興奮して勃起してるじゃない。射精してしまいそうなんでしょう?違うの?』

 畳み掛けるような彼の言葉に、奴隷がゆっくりこちらを向いて途切れがちにだが自らの性癖を言われた通り吐露し始める。
 顔を真っ赤にして眉を顰めながら言葉を吐き出す奴隷の隣で、自らを抱きしめるような体勢で座っている彼は大きく深呼吸をした。
 興奮を抑えている事は明白だったが、足を組んでいるために決定的な事実は得られない。

『よく言えましたね。じゃぁご褒美を上げましょうか。こっちを向きなさい』

 主人の方を向いた奴隷を舐め回すように見つめた彼は、組んだ足の爪先で奴隷の性器を撫で上げる。
 思わず腰を引いたのを短く叱咤して、ブーツの裏を押し付けた。

『これに擦りつけて射精しなさいよ』

 まるでその言葉が合図にでもなったように、奴隷は自らブーツの裏に性器を擦りつけ始める。
 事前に射精を堪えるようにでも約束させられていたのか、うつろな目で恍惚とした表情を浮かべる奴隷はあられもない声を上げながら快楽に浸っている。

 それを見下ろしていた彼が不意に、こちらを見た。
 見えていないと分かっていてもドキリとした男は、その視線から少しでも離れようとソファの背凭れに背中を押し付ける。
 けれどそれで逃げられるわけもなく、そして実際は彼が自分を見ている事など無いのに男は視線に囚われてしまった。

『ブーツの裏がそんなに気持ちいいの?性器を踏みにじられるのが好きだなんて大学の人に知られたら君もう生きて行けませんね』

 彼が奴隷の性器にブーツを押し付けたまま捻った瞬間、奴隷が体を反らせて射精する。
 ビクリ、ビクリ、と痙攣する度に濃い精液がブーツに噴き上げられ、黒い革に点々と白い模様が描き出されていった。

「どうですか」

 不意に生の声をかけられて竦み上がった男は、自分の背後にいつの間にか金髪のバーテンが立っているのに気付く。
 いつの間に部屋に入ってきたのか見当もつかない。
 扉が開く音にすら、反応できなかった。

 自分がそれほど彼に見入っていたのか、それともこの金髪の男が気配を消していたのか。

「永四郎は生粋のサディストです。相手は誰でも構いませんが、若くて綺麗だと一層熱が入ります」

 一瞬目の前の部屋から視線を外した隙に奴隷はいなくなり、別の誰かがそこに登場していた。
 男はそれが、カウンターの中にいた背の高いバーテンだと気付く。

 バーテンは手袋をしたままプレイに使った器具を籠の中に放り込み部屋の隅へ寄せ、奴隷の吐瀉物を掃除する。
 味気ないプレイ後の片付けの様子を眺めるのは本来であれば興覚めとでも言えるのだが、男は飽きもせずにソファに座った彼を見つめ続ける。
 まるで電池が切れたように足を組んだままぼんやりと床を見下ろしている彼は、さっきの生き生きとした表情が嘘のように目を伏せていた。

 バーテンがポケットからハンカチを取り出し、精液の散ったブーツを拭い始める。
 長い睫毛を震わせて瞬きをした彼が何事か口を動かしたが、こちらに声は届かない。
 背の高いバーテンは丁寧にブーツを拭い終えると、ジッパーをゆっくり下ろして両手で脱がせ始める。
 その間も彼は何か言っているものの、やはりこちらには声はおろか物音一つ届かない。

「プレイは終わりましたので、マイクは切らせていただきました」

 金髪のバーテンが声をかけるが、男の耳には入らなかった。

 両方のブーツを脱がせたバーテンが、それをも籠の中に放り込む。
 ソファの肘掛けに膝を乗せたバーテンは、彼の上着のジッパーに手をかけた。

 ゆっくりと、気が遠くなるような緩慢さでその手が下に降ろされる。

「お客様。永四郎は生粋のサディストであると同時に、完璧に調教されたマゾヒストでもあります」

 男の懐から差し出された黒光りするカードを受け取り、金髪の男はポケットからリモコンを取り出した。
 ボタンを押すと、再び部屋にはあちらの声が届き始める。

「ごゆっくり、榊様」

 男はやはり、金髪のバーテンが部屋を出て行ったのに気が付かなかった。


2009/01/13:UP
2009/01/13:完成