『ボタンを押してください』
ピ…ウィーン…。
「えー、永四郎、その後どうよ」
昼休みの学食、食券売り場にいる木手に声をかけた平古場は紙パックのジュースを片手にニヤニヤと締まりの無い笑みを浮かべている。
それをチラリと肩越しに振り返った木手は、嫌そうに眉を潜めてまた食券機を見た。
「おかげさまで。どうせ甲斐クンから聞いて知ってるんでしょ」
「おー、やしが、男の沽券ってのもあんだろ。出来ませんでしたとは、なかなか言いにくいやー」
『ボタンを押してください』
ピ…ウィーン…。
大げさな動きで木手の顔を覗き込めば、ますます険悪な顔をして顔を背ける。
余り怒らせると後が怖いと知っている平古場は、まぁまぁと宥める声を出した。
「で?あにひゃー、ちゃんと使ったんどー?」
「荷物をリビングに忘れてしまったんですよ。結局俺のを使いました」
「あいひゃー」
食券機に凭れるようにして座り込むと、ストローを咥える。
一口啜った後ストローを咥えたまま話しかければ、行儀が悪いと窘められた。
「しっかしよー。やーも大変やっし」
「何がですか」
「あにひゃー晩熟だからよー。わざわざ回りくどい事してやり方教えたりな」
木手がさりげなく辺りを見渡して、自分達の会話を聞いている人間がいないかどうかを探っている。
そんなことしなくても甲斐は4時間目の授業で寝ていた所を教師に見つかってお説教の最中だし、話を聞いている人間が居てもまさか甲斐と木手がどうこうなっていると疑う奴は居ない。
ほんの一週間前の話だ。
木手に大事な話があると呼び出された平古場は、ついに甲斐と別れるのかと思った。
あまりに晩熟すぎる甲斐に散々焦れていた木手を知っていたから、まぁそれでも仕方ないとも考えていた。
だが木手は平古場の予想の上をいった。
『平古場クン、ちょっと甲斐クンにやり方教えてあげてください』
何で自他共に認める童貞の俺が男同士のセックスの手解きをしなければいけないんだと思ったりもしたが、木手が言うには未知の領域に不安があるようだから準備を整えてやれば踏み切れるだろうと言うことだった。
で、出てきたのがローションと説明書。
これを木手の差し金だと分からないように甲斐に手渡し、あまつさえ発破をかけろと恋に焦れる部長様は言ったわけだ。
だから何で童貞の俺が、と言いかけたが何だか空しくなったのでやめた。
「やーが教えてやれば良かったんじゃねーの。初めて同士で別に気にする事じゃねーだろ」
「甲斐クンは君と違って繊細なんです。男役とか女役とかすごく気にする方なの。リードできないと落ち込むんだから、仕方ないでしょう」
『ボタンを押してください』
ピ…ウィーン…
「同じ初めての俺に手解きされたら、余計に落ち込んでしまうからね」
「だーるな」
甲斐が木手と付き合うことになったと言った時は、甲斐も面倒な恋人を持ったなと思ったがどうやら甲斐も同じくらい面倒な人間らしい。
それに一緒になって協力している木手も大概だが、恋ってのはそんなもんかねと平古場は薄笑いを浮かべた。
「で?首尾は?」
「上々ですよ。飲み込みが早くて助かります」
「へぇ。甲斐の話ではよ。やー珍しくしおらしかったって?」
「それくらいしておかないと、自信がつかないでしょう」
しれっとした顔で答える部長様に、平古場は噴出した。
ストローの刺さった紙パックがベコッと音を立てて膨らみ、ジュースが溢れ出してくる。
慌てて溢れた分を飲んで見上げると、木手はチラリとその様を見て肩を竦めていた。
『ボタンを押してください』
ピ…ウィーン…
「なら演技だばぁ?傷つくぜあにひゃー」
「まさか。演技なんてしてる余裕はありませんよ。ただ甲斐クンに任せて大人しくしていただけです。始めだけ」
「始め?」
『ボタンを押してください』
ピ…ウィーン…
「どうせ俺も甲斐クンも男なんですから、相手を気持ちよくしたいとか触りたいって気持ちは同じでしょう。でも甲斐クンは男役の方がリードする、相手はしおらしく待ってるもんだって言う固定観念があるみたいでね」
「あー、だーるな」
「だから始めの一回だけ、その通りにしてあげたんですよ」
『ボタンを押してください』
ピ…ウィーン…
「それに…」
「それに?」
『ボタンを押してください』
「俺がいつまでもマグロで居たら、その辺の女に取られちゃうでしょう」
ピ…ウィーン…
木手の焦れていた原因がほんの少しだけ分かった気がして、平古場はガリガリと後頭部を掻き毟った。
恋人のプライドを保つため、恋人本人を騙してまで回りくどい手を画策するのは果たして健気なことなのだろうか、それとも目的のためにはどんな手段も厭わない非情な人間か。
全く、判断に苦しむと思った。
唯一つ言える事は、甲斐の悩みは全く杞憂と言うことだ。
雑事に追われて面倒になった木手が一番初めに切り捨てるのは甲斐ではなく、自分の良心と、部長としての面目だ。
まぁ、良心などこの比嘉中のテニス部では元々あって役に立つ物でもないが。
少なくともレギュラーではない面々から見れば、『ストイックなまでに勝利を追及する厳しい部長の木手様』がまさか彼氏とのセックスがどうこうで深刻に悩んでいるとは思わないだろう。
その辺りに関しての部長としての面目は今はまだ守られているが、とりあえず今回の事で平古場の中の木手像は大きく変貌を遂げた事は確かだ。
イイ意味でも、悪い意味でも。
「はい、平古場クン」
「ん」
「食券一週間分。どうもありがとうね」
「おー。まぁ、ちばりよー」
頑張りますよ、言われなくてもね。と部長様の冷たい目が語っている。
こんな恋人でいいのかとあの時甲斐に訪ねたつもりだったが、どうやら甲斐は全く気付いていないらしい。
「永四郎!」
「甲斐クン、遅かったですね」
丁度食堂に入ってきた甲斐の何も知らない嬉しそうな顔と、部長様のいつもとは違う柔らかい表情を見ていたらまぁどうでもいいか、と言う気持ちにならないことも、ない。
食券機に凭れたままで二人を眺めながら、ジュースを啜って手の中の食券を弄ぶ。
裕次郎に奢ってやろうかねー、と呟きながら平古場ようやく腰を上げた。
END
2007/12/23:完成
2007/12/25:UP