あとは野となれ山となれ-サンプル-



(冒頭部抜粋)


 甲斐は走っていた。テニスコートからグラウンドに出て、校門を抜けて家まで全力疾走していた。
肩からかけたテニスバッグが走るたび腰に当たって一歩足を踏み出すたび体が大げさに揺れるが、それも無視して走った。
 鍛えていても息は上がる。噴出した汗がこめかみを流れて顎のほうへ落ちていく。
(言ってやった…!)
 言ってしまったでも、言えたでも、ない。言ってやった、遂に言ってやったと思った。
 不思議な達成感とともに心の中の大きなものが抜け落ちてしまったような空しい気持ちに気付かないようにするために、甲斐はただ走っていた。
(俺は言ってやったんだ。あいつに、ようやく!)


 ほんの十数分前、放課後の話だ。


 甲斐は部活を終えて部室で着替えていた。部活中に散々汗を吸い取ったタオルで最後の汗を拭き、ロッカーに手をかけた所で一旦離してユニフォームに手をかける。しかしやっぱりそれも止めてロッカーを開け、テニスバッグを引きずり出してしゃがみ込んだ。
 そうやってわざとダラダラしている間に隣で着替えていた平古場が『お先』と声をかけて出て行く。その平古場に唸り声のような挨拶を返しているうちに知念と田仁志も帰ってしまった。ベンチに座って携帯を弄っている不知火も、片付けを終えた新垣が手早く着替え終わったのを見て一緒に部室を出て行く。
「甲斐クン、たらたらしてないで早く着替えて帰りなさいよ」
「へーい」
 後から飛んできた冷たい声に身を竦める振りをして、ユニフォームを頭から脱ぎ捨てた。ようやく立ち上がりながら振り返ると、部室の隅に置かれた事務机で木手が制服姿で部誌を書いているのが見えた。
 部室に残ったのは甲斐と木手の二人だけ。木手が残るのは珍しいことではなく、甲斐も普段からダラダラ着替えているので既に恒例と化している。
 けれどそれがわざとだとはたぶん誰も気づいていない。

 パイプ椅子に座って足を組む姿は、中学生には見えない。半袖のシャツから伸びる腕やスラックスに包まれた足は、がっちりとして筋肉の隆起が美しかった。鍛えられた筋肉は無駄なく木手の全身を覆い、身長も一年の頃に比べて急激に伸びている。立派な成人男性と変わらない体躯を、甲斐は何だかなぁと思いながら眺める。
(何でまぁ、あそこまで育ったんかねー。一年の時は、わんと変わらんかったあんに)
 良い感情も悪い感情も浮かばない、ただ何だかなぁと不毛な思いだけを感じる。それは甲斐が彼に対して持つ感情が原因だった。
 自分よりも大きな体格をしたこの同級生に、甲斐は恋心を抱いてしまっている。その上で、告白して玉砕することも胸に秘めたまま諦めることも出来ずにいた。