レンアイパーソナル・スペース

「パーソナル・スペース?」
フュリーが本を片手に発した言葉を、ジャン・ハボックは問い返した。
「はい、この心理テストの本によるとですねぇ、人間にはどの程度親しいかによって居心地のいい距離感って言うのがあるんだそうです。その距離を、パーソナル・スペースって言うらしいですよ」
「心理テストとはまたけったいな」
一応聞いてはいるものの、ブレダも少々呆れ気味だ。
「そんなこと無いです!当たるんですよ、これ。・・・それでですねぇ、一般的に、あまり好きじゃない人間に半径120cm以内に侵入されると人は不快感を感じるんだそうです」
「ほう」
「120cmってーと・・・日常生活だとどんなくらいだぁ?」
このくらいだろ?、とハボックが手で幅を示すとファルマンが頷いた。
「一般的な応接セットやテーブル席に座る場合は120cm以上必ず離れますね。使用用途としてあまり親しくない人間と囲む場合も多い応接セットは、理に適っていると言えます」
ファルマンは意外とこういう話は好きらしい。
「逆に言えば、120cmの中に侵入しようとしてくる人は、自分に親近感を持っていると言える、って書・・・」
言いかけてフュリーが途中で止まる。その視線の先を追えば、自分たちの上司と金髪の少年国家錬金術師が立ち話をしていた。
話をしながらロイがすっと近寄れば、エドワードがすすっと身を離す。更にロイが踏み出して、エドワードが更に離れる。約120cmの距離で無意識に繰り広げられている攻防に、ハボックは苦笑した。
「なるほど、侵入されて不快に感じる人間とむしろ侵入したい人間、なわけか」
「は、はは・・・」
ブレダもファルマンも苦笑いを浮かべている。自分たちの上司が、あの金髪の少年に懸想しているというのは既に周知の事実だ。
・・・いや、エドワードに惹かれている者はロイだけではない。だが、ロイ・マスタングを敵に回し、更にあのじゃじゃ馬、いやじゃじゃ豆小僧を落とそうというのはいくらなんでもハードルが高すぎる。もう色恋沙汰に突っ走れる年齢ではない大人たちは、エドワードがロイに陥落しないことを祈りつつ、指を咥えて見ているしかないというのが現状だった。
「え、ええっとですね、それでパーソナル・スペースには2段階目があるんですよ!!」
微妙な空気を払拭するようにフュリーが再び本に視線を落とす。
「よほど親密じゃないと入れない距離というのが45cmで、この距離で口説けば必ず落ちる!だそうですよ」
「ホントかよ。そんな程度のことでオトせりゃ苦労しないっつーの」
半ば自嘲も込めて肩をすくめれば、ブレダが笑って腕を組んだ。
「逆だろーよ。45cmまで入れてもらえる程まで親しければオトすのに手間はかからんってこった」
「ああ・・・」
ふと視線をやれば、焔の錬金術師と鋼の錬金術師の攻防は続いている。
「まぁ、120cm以内にも入れない人間にゃ関係ない話だな」
それはハボック自身も含めて、である。元々エドワードは猫のような気質があり、そう簡単に人を寄せ付けないような部分がある。近寄れる人間の方が少ないのだ。
一つため息をついて、再び仕事に戻ろうかと机に向かうと、ドアが開いてホークアイが入ってきた。その後ろには、大きな鎧が大量の書類を抱えている姿もある。
アルフォンスから書類を受け取ったホークアイは、二人の無意識の攻防を見て取ってすぐさまロイを追い立てて執務机に向かわせた。
しぶしぶと机に向かうロイと入れ替わりにアルフォンスがエドワードの横に並ぶ。
見上げたエドワードに、アルフォンスが少し身をかがませて何事かを話している。その間の距離を目測で測って、ハボックは呟いた。
「45cm以内、か」
「兄弟ですし、それは当たり前じゃないですか?」
「彼が入れないようでは入れる人間などいないでしょう」
どうもハボックと全く同じことをフュリーとファルマンも考えたらしい。
それに呆れたようにブレダが口を挟んだ。
「つーかハボック。お前意外と気にしてんだな」
ブレダに思いっきり図星を指されて、ハボックは慌てて振り返った。
「いやでも必ず落ちるとか言われたら気になるだろっ!?」
思いのほか大きな声が出てしまい、ハボックは慌てて口をつぐんだ。が、驚いたような顔をしてエドワードがハボックを見ている。
「何でかい声出してんだよ?」
てこてことエドワードが歩いてきた。
「い、いやぁ・・・」
流石に、お前が誰を好きなのか気になって、とは言えない。誤魔化そうと口を開いたとき、ハボックはあることに気がついた。
エドワードが歩み寄る。1歩、2歩・・・まだ止まらない。3歩。
「普通に120cm以内に入ってきてるじゃねーか・・・」
「はぁ?」
「あっ、いやいやいや。何でもねーよ」
予想より相当ハボックに近い位置で立ち止まったエドワードに、内心ちょっと嬉しくなる。嫌いな人間はこの距離に入れないことは先刻ロイが証明済みだ。・・・と、言うことは自分はエドワードに割りと気に入られている、ということになる。
「な、大将。今日夜空いてねぇ?一緒に晩飯食いにいかねぇか?」
誘うと、エドワードはニカッと笑った。
「いいぜ!」
「待て待て待て鋼のっ!!」
エドワードの即答で纏まりかけたところにロイが割り込んでくる。
「君は今さっきディナーに誘ったら断ったではないか!!何故ハボックは拒否しないんだ!?」
「えーだって大佐ディナーとか言うし。オレ堅っ苦しい食事キライ」
エドワードは悪びれもせずしれっと言い放つ。普通の女を口説くならば高級レストランは喜ばれるアイテムだが、この少年には逆効果らしい。
「大将、バイキングでいいか?食い放題」
「行く行く!!」
「ハーボーック〜〜〜〜〜〜!!」
恨みがましい目で見ている上司はこの際無視することにする。折角のチャンスだ。
「少尉仕事何時に終わんの?」
「ああ、今日はそんなに仕事ねぇから、6・・・」
「ハボック!鉄道爆破のテロ事件と隊の所有機器の書類と新しい装備の稟議書を今日中に片付けろ!!」
「はぁ?!それ3つとも大佐が処理してくんねぇから止まってるやつじゃないですか!!」
文句を言うなり、ロイの分の処理が終わった書類が突き出される。
「必ず、今日中に、片付けろ」
子供じみた嫌がらせを始めたロイに周囲もあきれた顔をしている。
「つーか大佐、普段からそのスピードで仕事してくださいよ・・・」
「四の五の言うな!!」
ロイの不機嫌度はMAXだ。これは、逆らうだけ損をする。とにかく仕事を片付けるしかなさそうだ。
「少尉、仕事沢山あるのかよ?」
「いや、今増えた・・・」
コトの元凶であるエドワードはきょとんとしている。どうも自分のせいでロイの機嫌が悪くなっていることに気がついていないらしい。
「あんま遅くなって待たせるのも悪ぃよなぁ・・・」
軽く見積もっても今日中となれば10時は超えそうだ。困ってハボックが後ろ頭を掻くと、エドワードが首を傾げた。
「オレ、手伝おうか?」
「へ?何を?」
「だから、仕事」
「え、お前図書館とか行くんじゃねーの?」
エドワードは常に錬金術の研究が一番で、それ以外のことに時間を取られるのを嫌う性質だというのはハボックも知っている。
食事に誘ったのをOKしてもらっただけでも奇跡的なのだ。
「それがさぁ。今日目当ての錬金術研究書が軍に届くって言うから来たのに、この前の鉄道テロのせいでまだ届いてないっつーんだよ。この近くの図書館の本は全部読んじまったし、明日研究書が届くまでオレヒマなんだよな」
そういう間にもエドワードは手近な椅子を引き寄せ、ハボックのデスクの上の荷物を寄せて、自分の作業スペースを確保している。
「ここでやるのか?」
「オレがいくら天才国家錬金術師って言ったって軍の書類初見で全部書けるってわけにゃいかねーっての」
「自分で天才とか言うなよ。ま、事実だってのは認めるけどよ」
ツッコミを入れるとエドワードはへへっと笑った。
「ま、大体は分かると思うんだけど、分かんないとこいちいち訊きに来るの面倒だしさー」
だから一緒にやる、と言ったエドワードの笑顔を、可愛いなぁとしみじみ眺めていると、凄まじい殺気が飛んできた。
はっと振り返れば、ロイが顔は笑っているものの周囲に暗黒のオーラを発している。ハボックとロイの間の席に座っているフュリーが青い顔をして書類で顔を隠していた。
「良かったじゃないか、ハボック。早く仕事が終わりそうで」
「は、ハハ・・・」
やばい。不機嫌がMAXを通り越してオーバーしている。エドワードが目の前に居るから押さえているだけだ。どうしたもんかな、と考えていると、エドワードがくりっとロイを振り返った。
「つーか大佐さっきからグダグダグダグダうざいっ!!」
・・・その瞬間、その場に居た全員に『ガーン』という効果音が聞こえたという・・・
「ああ・・・これでもう今日は一日役立たずだわ・・・」
ホークアイが眉間を指で押さえてため息をついている。
「子供って残酷だよな・・・」
ブレダは苦笑いとも笑いをかみ殺しているとも取れる表情をしている。フュリーとファルマンは哀れみの眼差しでロイをうかがっている。
そして当のロイは真っ白に燃え尽きて硬直していた。
「大将、お前さぁ・・・」
「ん?何だよ?」
「そこまで大佐のこと嫌いなんか?」
「だぁってさぁ。大佐うるせーんだもん。一々一々茶しよーだのディナー行こうだの近くに来たら顔出せだの面倒くせぇ」
「ハボック、煽らないで頂戴」
「あっスンマセン」
ロイは最早デスクの上に崩れ落ちている。まぁ、口説くために言っている事を全て煩いで片付けられてはたまったものではないが。
「ハボック少尉!仕事!!すんだろ!?」
ばしばしと腕を叩かれてハッとする。椅子に座りなおし、すぐ横に陣取ったエドワードに書類を渡そうとして、ハボックはふと先刻の心理テストを思い出した。
必要にかられて、ではあるが。今現在、エドワードは自分と45cm目前の距離に居るではないか。それも、エドワードのほうから寄ってきた。
でも、ギリギリ外なんだよなぁ・・・と考えていると。
「少尉?何変な顔してんだよ?まーいつも変な顔だけど」
覗き込んできたエドワードが、あっさり45cmラインも突破してしまった。
「・・・・・・」
「・・・おーい。反論しねーのかー?」
エドワードがひらひらとハボックの目の前で手を振っている。
「マジで大丈夫かー?」
ハボックの膝に手をついて覗き込んでくるエドワードは、ちょっと身体を倒せばキスできそうなほど至近距離にいる。
45cm以内なら必ず落ちる?これは口説くべきか?口説くべきなのか?
「たっ・・・大将!」
「うん?何だよ?」
がっしと肩を掴んでも、エドワードは気にするそぶりもない。ハボックはつばを飲みこんだ。
「お、俺とつきあってくれっ!!」
「え?ああ、いいよ?」
あまりにあっさりと即答したエドワードに、その場の時間が止まった。
「ちっ・・・ちょっと待ったーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」
「おおっとここで大佐からちょっと待ったコールっ!」
静寂を打ち破ったロイに、アルフォンスがノリノリで合いの手を入れる。
「何をのんきなことを言っているアルフォンス!君の兄が同性愛者になるかどうかの瀬戸際なんだぞっ!!」
バン!と机を叩いたロイに、アルフォンスが首を傾げた。
「大佐が言うことなんでしょうか?ソレ」
無邪気な口調のツッコミは的確だ。兄貴の方はこの手のことにはとんと疎いが、弟はしっかり気付いているらしい。
うっと詰まってしまったロイを尻目に、アルフォンスがんー、と鎧の顎の部分に手を当てる。
「でも確かにいきなり祝福はできないですよねー」
「そ、そうだろう?!」
すがるようなロイを放置してアルフォンスがエドワードを振り返る。
「ねぇ、兄さん」
「何だよ?」
「ハボック少尉の言う『付き合う』の意味、ちゃんとわかって返事してる?」
エドワードはきょとんとして目を瞬かせた。
「知ってるよ。ピーーピーーピーしたりするんだろ?」
しれっと言い放たれた言葉に部屋中にさまざまな悲鳴が交錯する。
「可愛い顔してピーーとか言うなぁぁぁぁ!!」
「即物的な物言いはやめたまえっ!!」
「いくらなんでも下品だよ兄さんっ!!」
「エエエエエドワード君の口からそんな言葉聞きたくない〜〜〜〜っ」
あまりの不評っぷりに言った本人が口を尖らせた。
「何だよ、別にいいじゃねーかよ」
「よくねぇって・・・」
がっくりとうなだれたハボックをエドワードが振り返る。
「でも、間違ってねーだろ?」
「いや、そりゃまぁそうなんだけど!!なんつーか、それだけじゃないだろ?!こうデートしたり手繋いだりとかさぁ!!」
ハボックの言い分に、エドワードが目を見開いた。それから、くすくすと笑い出す。
「少尉って、案外ロマンチストなのな」
「ほ、ほっとけ!」
言われて見れば、ハボックがシモい発言をしてエドワードが戸惑う方がどちらかというと自然な会話だろう。
「まぁ、ハボック少尉が嫌がるならやめるよ」
「へ?」
なんか、今物凄く可愛い発言が聞こえた気がするが、空耳だろうか。
「兄さん」
「ん?」
「じゃあ、意味分からないでただOKしたってことじゃないんだね?」
「だからそう言ってるだろ」
アルフォンスがお手上げ、のポーズをした。
「分かった。だったらボク何も言わないよ」
「ま、待てアルフォンス!キミはそんなにあっさり了承していいのか?!」
「ボクは兄さんが幸せならそれでいいですよ」
アルフォンスの返答は実にあっけらかんとしている。
「し、しかし君に抜けられると抵抗勢力の力が弱まってだなっ・・・」
「人に頼らないで自分でどうにかしたらいいじゃないですか」
取り付くしまも無いアルフォンスを説得するのは無理だと判断したか、ロイは今度はエドワードに向き直った。
「大体なんでそんなにあっさり了承するんだ!!もう少し良く考えたらどうなんだね!!」
「アンタが何でそんなに怒るんだよ。関係ねぇだろ」
エドワードの返答もにべもない。妙なところだけ似ている兄弟である。
「ハボック少尉と付き合うくらいなら私と付き合いなさいっ!!」
「お断りだ」
ついにはっきりと告白したロイと、さらに1秒も考えず即答したエドワードに周囲の空気が凍りついた。
「超即答・・・」
ぼそりとブレダが呟いた言葉がやけに部屋に響く。
「なっ・・・・何故だっっっ!!!」
「何でって・・・大佐は嫌だ、以外になんか理由ってあるのか?」
エドワードが困った風に後ろ頭を掻く。無言で事の成り行きを見守っていたホークアイが口を開いた。
「大佐は嫌だけれどハボック少尉はいいのね?」
「へっ?!いや、まぁ、うん、そう・・・」
赤くなりながら次第に語尾が小さくなっていく様子のエドワードに、ハボックは神に感謝したい気分になった。
ちらりとハボックを見たエドワードと目が合うと、エドワードはますます赤くなって顔を背ける。
畜生、何でそんなに可愛いんだ。
「ハボック少尉、やに下がってますよ・・・」
フュリーの突っ込みも気にならない。ハボックはエドワードの肩を抱き寄せた。エドワードは何も言わずにハボックに寄りかかってくる。
「ああ・・・俺もう今死んでもいい・・・」
「望むなら今すぐ消し炭にしてやるぞ・・・!」
発火布の手袋を装着したロイを、ホークアイが押しとどめる。
「落ち着いてください大佐。あの状態ではエドワード君にまで当たります」
そこにエドワードからとどめの一撃が入った。
「ハボック少尉に何かしたらオレが相手になるからなっ!?」
「・・・!!!」
最早声も出ない様子のロイが後ずさる。そしてがっくりとうなだれた。
ようやく諦めたらしいロイに変わって、アルフォンスが口を挟む。
「ハボック少尉、兄さんを泣かせたりしたらただじゃおきませんからね?」
口調は明るいのだが、何故か部屋にブリザードが吹き荒れたような気がする声だった。
「・・・言われなくてもそれだけは絶対やらねぇよ」
「それならいいです」
ぱっと小春日和の声に戻ったアルフォンスは、もしかするとロイよりよほど手ごわい相手なのかもしれなかった。
「さぁ、この話は終わりにしましょう!仕事が進みませんから」
ホークアイの一声で、ようやく全員が自分の席に戻る。
その日仕事が終わるまで、ハボックがエドワードに視線を向けるたびに周囲からインクつぼだの万年筆だの本だの飛んできたが、ハボックにとってその程度のことなどどうということは無かった。





デートシーンまで書こうかと思ったんですが
冗長になったので止め。
見たいとおっしゃる方がいらしたら後日追加するかもしれません。
見たい方は拍手へコメントください。

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