「痛っ」
口の中にじわりと鉄の味が広がる。どうやら乾燥して唇が切れてしまったらしい。ハヤトはぺろりと唇を舐めた。
「最近寒くて乾燥してるもんなぁ・・・」
ハヤトのもといた世界のハヤトが暮らしていた街は、冬になると乾燥する土地だったが、どうやらそれはここサイジェントでも同じらしい。
「う〜・・・」
身震いしながら今日の釣果を覗き込む。一応、今日の晩飯に必要な分くらいはすでに釣れている。ハヤトは立ち上がって一つ伸びをした。
「そろそろ帰るかぁ〜・・・」
みれば、太陽も少しかげって来ている。ならば、あの戦いのあとから領主の城で相談役として働くようになったキールも、もうじき帰ってくるだろう。
「よし!かえろ!!」
帰ると決めたなら早いほうがいい。リプレだって一瞬で料理できるわけではないのだし。ハヤトは走るようにしてフラットに向かった。
「あ、お帰りなさいハヤト。どう?釣れた?」
「ん〜まぁまぁかな」
これくらいあれば充分よ、と魚を入れた籠を見ていたリプレがふと顔をあげる。
「あら?ハヤト、その唇どうしたの?」
「え、見て分かるくらい切れてるか?」
洗い物の手を止めたリプレが、手を拭きながら頷いた。
「うん、だって血が出てるもの」
「あちゃ・・・乾燥してるからさ、切れちゃったんだ」
「あら、困ったわねぇ。・・・そういえば、ここ何年もオイルなんて買ってないものね〜」
「オイル?」
首をかしげたハヤトに、リプレがああ、という表情をした。
「ハヤトの世界にはなかったのかしら?リィンバウムでは、唇が切れたりした時は木の実を絞ったオイルを唇につけるのだけど。私も子供の頃先生につけてもらった覚えがあるわ」
最近はお金がないから買わないけどね、と付け加えたリプレにハヤトは頷いた。
「向こうで言うところのリップかな、そりゃ」
「りっぷ?」
「うん、このくらいの大きさの棒になっててさ。高くもないから、女のコは結構皆持ってたな〜」
「ハヤトは持ってなかったの?」
「俺ぇ?だってそんなの塗らないしさー。前に唇切れて、後輩が貸してくれた時もなんか上手く塗れなかったしさ。「ぬれね〜」なんて言って笑って、そのまんま返すの忘れて制服のポケットにいれたまんま・・・」
そこでふと思い当たってハヤトの動きが止まる。そういえば・・・リィンバウムに来たとき、自分は制服を着ていたのでは?
「あれ?じゃ俺閉まってある制服のポケットにリップ入ってるかも・・・」
はた、と思い出したハヤトにリプレが苦笑する。
「借りた物は返さなきゃだめじゃない。でも、・・・「せいふく」ってハヤトが着ていた服のことよね?だったら、今はちょうどよかったかもね」
そうだな、と笑ってハヤトはリプレに魚を渡した。リプレがちゃんとすぐに薬つけるのよ、とその魚を受け取る。
制服は確かタンスの中に仕舞ったはずだな、と考えながら、ハヤトは自分の部屋に向かった。
「ううっ・・・やっぱり上手く塗れないっ!」
記憶の通りに制服のポケットにリップは入っていた。が、しかしハヤトの不器用さはそのリップを借りた当時からちっとも変わっていなかったらしく、どうしても上手く塗れずに先刻から四苦八苦しているのだった。
「うむむむ・・・」
あんまりリップを出し過ぎると折れるということは学習した。見ながら塗れば何とかなるかと思って、リプレから手鏡も借りてきた。だが、一向にどうすれば上手く塗れるかが分からない。
「う〜・・・」
一体こんなもの、皆どうやって塗っていたのだろう。それを尋ねようにも、ここはリィンバウム。リップの使い方など、知っている人間がいるはずはない。ハヤトはリップと鏡をほおり出し、机の上に突っ伏した。
「・・・ハヤト?一体、何をしているんだい?」
聞きなれた声に振り返る。開かれた部屋の入口の向こうに、今城から帰ってきたらしいキールが立っていた。
「キールぅ・・・」
キールが後ろ手にドアを閉め、ハヤトの向かい側のベッドに腰を降ろす。リップが上手く塗れないなんて笑われるかな、と思いつつも、キールの笑顔に誘われるようにして、ハヤトはキールにリップを見せながら説明した。
「最近、乾燥してただろ?だから唇が切れちゃってさ・・・薬塗ろうと思ったんだけど、上手く塗れなくて・・・」
「・・・変わった形の薬だね?僕は、液状の物しか使ったことがないのだけれど」
「ああ、うん。リプレもそんなこと言ってた。これは、向こうの世界の薬なんだけどさ。この先っぽのとこが薬になってて、ここを唇に塗るんだ」
リップをキールに渡すと、キールは興味深げに匂いをかいだり、リップの部分をつついたりしている。どうやらキールはちょっと変わった物を見ると研究せずにはいられないらしい。
「使ってみてもいいかい?」
「え?あ、うんいいよ」
こうやって使うんだ、と顔の前で塗るマネをしながら、ハヤトは心の中でそう簡単には塗れないだろうけど、と付け加えた。
が、しかし。
「・・・なるほど、オイルより使いやすいかもしれないな。手も汚れないし」
あっさりとリップを塗ってみせたキールに、ハヤトは愕然とした。
「なっ・・・」
「?」
「何でそんなにあっさり塗れるんだよ〜〜〜〜〜っ?!」
俺はこんなに苦労しても上手く塗れないのに、とショックを隠せないハヤトにキールが苦笑する。
「そんなに難しいことではないと思うけれど」
「〜〜〜〜〜〜!!どうせ俺は不器用ですよっ!!」
どうせどうせ、とそっぽを向いたハヤトの手を、キールが掴んだ。そのままぐいっと引き寄せられ、ハヤトは勢いあまってキールの膝に向かい合って座るように乗っかってしまった。いくらキールとハヤトではハヤトのほうが力が強いとはいっても、力を込めていないときに引っ張られれば、ハヤトだってさすがにバランスを崩す。
「わわっ・・・何すんだよキール?!」
「僕が塗ってあげるよ。だから、怒らないでくれないか?」
「お、怒ってなんか・・・」
ないよ、と言いかけて、キールに指でそっと唇をなぞられハヤトは思いっきり赤面した。
「ああ、本当だ。酷く切れている・・・」
口を開けば息がかかるほどの至近距離。キールの指がハヤトの顎を捕らえる。長い睫毛に隠れたキールの綺麗な目に見つめられて、ハヤトはたまらなく恥ずかしくなった。なんだか居たたまれなくて、手でキールの目を隠してみる。
「?!ハ、ハヤト?!」
キールが何事かと一瞬うろたえる。キールにその手を掴まれて外され、溜め息交じりに問われた。
「何をするんだい?」
「・・・っだって・・・なんか、じっと見られると恥ずかしいし・・・」
困って俯くと、キールがハヤトの頬に触れた。
「でも、見なければ薬が塗れないだろう?」
「け、けどさ・・・」
俯いたハヤトの目を、キールが覗き込む。真正面から見据えられて、ハヤトは耳がカァッと熱くなるのを感じた。
「や、やっぱり恥ずかしいってば!!」
思わずまたキールの目を手で塞いでしまう。手で半分隠れて見えないけれど、きっとキールは呆れた顔をしているだろう。
「・・・」
「こ、このままで塗れない・・・?」
「・・・塗れると思うかい?」
「・・・思わない・・・」
恐る恐る手を外してみると、キールは呆れた表情ではなく、笑いを堪えている表情をしていた。
「わ、笑わなくてもいいだろ・・・?」
「笑ってないよ」
「目が笑ってんの!!」
「ふふっ・・・でも、ハヤト」
キールはそこで言葉を切り、ちゅっと音を立ててハヤトの唇に軽くキスをした。
「こういうこともするのに、何故そんなに恥ずかしがるんだい?」
「だ、だってさ〜・・・」
返答に詰まってハヤトが口を尖らせると、キールはそのハヤトの唇を軽く啄んだ。
「こうしても深く切れてしまっているのが分かるよ。薬を付けなければ、駄目だろう?」
「ん〜・・・」
そう言いながらも今度は深く接吻けてきたキールに応えながら、ハヤトは薄く目をひらいた。こういう時に、キールの顔を見るのは実はあまり恥ずかしくはない・・・というよりわりと好きだったりするのだけれど。どうしてリップを塗ってもらうのはあんなに恥ずかしいんだろう。ハヤトがそんなことを考えながらキールの顔を眺めていると、ハヤトの視線に気が付いたらしいキールが苦笑して唇を離した。
「見られるのは恥ずかしいと言っても、僕のことは見るんだね?」
指摘されて、納得がいく。ハヤトはぽんと手を打った。
「そうか!俺、キールを見るのは好きだけど、俺が見られるのは恥ずかしいんだ!」
「・・・。」
「あ・・・ご、ごめん。・・・我侭かな?」
困ったような顔をしているキールに尋ねると、キールは微苦笑した。
「いや・・・。我侭だとは、思わないけれど。ハヤトは、僕を見るのが好きなのかい?」
「え〜・・・うん。だって、美人って見てるだけでも楽しいだろ?」
「美人、て・・・」
半ば呆れたような苦笑を浮かべているキールに、さっきからキールに苦笑させてばっかりいるなぁとハヤトは思う。でも事実そう思うのだから仕方が無い。
「僕から言わせてもらえば、ハヤトのほうが余程魅力的だと思うのだけれど」
「い〜や。だってキールって美人だもん」
「・・・。」
きっぱりと言い切ると、いつもはハヤトが困るほど真っ直ぐハヤトを見つめる瞳が、何度も瞬きをしながら視線をさ迷わせた。よく見ると、キールの頬がほんのり紅い。
「キール、もしかして照れてる?」
「・・・少し、ね」
「へへへへへっ」
いつもキールに振り回されてばかりいるから、たまにこういうキールを見るとすごく嬉しい。嬉しくてキールにぐりぐりと頬を摺り寄せて笑っていると、顔を赤らめたまま、キールが少し眉をひそめた。
「ハヤト・・・わざとやってるのかい?」
「ん?何が?」
「・・・」
キールの肌はスベスベしていて気持ちいい。体温も低くて、まるで人形のようだと思う。頬と頬を重ねあわせてその感触を楽しんでいると、キールの指がハヤトの唇に触れた。
「でも・・・ハヤト?キスをするときは目を閉じてくれないと・・・僕が困る」
キールがちゅ、と軽くハヤトの頬に唇を押し当てる。
「目を閉じて・・・」
改めてそういう風に促されると照れくさいかも、と思いつつもハヤトは言われるままに目を閉じた。が、次の瞬間ハヤトが唇に感じた感触は、触れ馴れた唇の感触ではなかった。
(あれ?)
驚いてハヤトが目を開けた時には、キールは手早くハヤトの唇にリップを塗り終えてしまっていた。
「だ、だましたなぁっ!」
思いっきりむくれたハヤトに、キールがクスリと笑みをもらして軽くキスを施す。
「傷が、心配だったから。・・・キスをして欲しいのならいくらでもしてあげるから、怒らないで欲しい」
「んなっ・・・・べべべべっべ別にキスして欲しいなんて言ってないだろっ?!」
もう何でそんな恥ずかしいことさらっと言うんだよ!!という意味を込めて言ったハヤトの言葉は、キールには上手く伝わらなかったらしい。キールが酷く哀しそうな表情を浮かべる。
「嫌なのかい・・・?」
「ああもうっだからそんなこと言ってないだろーーーっ?!」
そんな意味じゃないのに。というよりそれ以前に問題はそこじゃない。キールはすぐにこうやって意味を取り違えるから困ってしまう。そもそもちょっと拗ねて見せただけで、ハヤトは別に怒ってなどいないというのに。
「僕は・・・こうしてハヤトに触れることがとても好きなのだけれど。君が嫌がるのなら・・・やめるよ・・・」
絶望のどん底に突き落とされたような表情をしてそんなことを呟くキールに、内心ハヤトは溜め息をついた。キールは本当にどうしようもなく手がかかる。ドジばかりしているモナティとはまた違う意味で、けた違いに手がかかる。・・・けれど。
ハヤトはキールの頬を捕まえて、その唇に軽く自分の唇を触れさせた。
「?!ハヤト?!」
「・・・ちゃんと、キス・・・しろよ」
少し拗ねた口調でそう言ってやると、キールは本当に幸せそうに微笑んだ。
(ったく、そんな顔して笑うからさ・・・)
嬉々として侵入してきたキールの舌に応えながら、ハヤトは薄目をあけてキールの顔を盗み見る。キールにそんな表情をさせることができるのは自分だけだと知ってしまっているから。キールがどれほどハヤトを好きなのかを知ってしまっているから。
(そんなトコをカワイイな〜なんて・・・思っちゃった俺の負けかなぁ・・・)
どうやらこのパートナーには、一生振り回されるような気がする。それも仕方ないかな、などと考えながら、ハヤトはキールの首に腕を巻きつけた。
はいっただのいちゃラブバカップルです!!(死)
あまりのいちゃつきっぷりに書いてる本人砂吐きそうになりながら書いてました。
この人達は一度くっついちゃえばろくに波風たたなさそうで、・・・私が考えると止め止めもなくいちゃつき続けてくれます・・・。
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