「ねぇねぇ、知ってる?テル先生のパスケースの話」
「パスケース?テル先生って自転車で通ってるんじゃなかったかしら?」
「そう、だからパスケースって使わないでしょ?だから、定期券の代わりに・・・」


『一番大切な人の写真が入ってるんだって』



ナース達の噂話が、ふとした時に耳に飛び込んできた。
盗み聞きなど自分の性分ではないが、聞こえてきた内容が内容なだけに、気になって北見はついつい耳をそばだてた。
「一番大切な人、って誰?」
「それが分からないのよ〜。テル先生何時も肌身離さず持ってるから、こっそり見ようとした船場先生も玉砕したらしいわ・・・」
一番肝心な部分が分からない、と言う内容の会話に、北見は内心舌打ちした。その手の話題は、誰であるかが一番重要なことであるというのに。
「ねぇ、でも誰も見たことないのにどうして一番大切な人の写真が入ってるって分かるわけ?」
「それが、小児科に入院している女の子が、たまたまテル先生が落っことしたのを見たんですって。その時に、「これ誰?」って聞いたら、「テル先生が一番大好きな人だよ」って答えたらしいわ!!」
「キャーー!!ホントに?!」
きゃいきゃい騒いでいるナースの傍らで、北見は自分の鼓動が早くなってきたことを感じた。
あのテルが、子供相手に嘘をついたりするはずがない。間違いなくテルは大切な誰かの写真を持ち歩いているのだ。
しかし一体、それは誰なのか。
「誰なのかは分からないんだけど、どんな人なのかはちょっとだけ聞いたわよ?」
(何ッ?!)
危うく身を乗り出しそうになったのを、すんでのところで理性で押しとどめる。
どんな人どんな人?と盛り上がっているのには気がつかないフリをして、北見はカルテに視線を落とした。
が、意識は目よりも耳に集中している。
「確か、テル先生より年上の医師って話だったわ」
(それじゃこの病院の医師は殆ど全員当てはまるだろうがっ!!!)
「やだ、ナースじゃないのね〜」
「まぁテル先生男の人にもてるものね・・・」
ナース達はごく一般的な感想を述べていたが、北見の耳にはその言葉は届かなかった。
とりあえず患者と言われなかっただけマシだが、テルを狙っている人間は病院内外問わず腐るほどいる。
この病院の医師に限定しても、随分な数に昇るのだ。
「ねぇ、他には何かないの?」
「えーっと、テル先生より身長が高いって」
「テル先生より小さい先生ウチにいないじゃない」
(全くだ)
北見が感じたことと全く同じツッコミをいれたナースに、頭の中で同意する。四宮でさえテルよりは身長が高いのだ。
「それもそうねー。あ、あと腕の良い外科医だって言ってたわよ!」
(・・・!)
これで内科の森は落ちた。知らず口の端が緩みそうになって、ごく自然を装ってナース達に背中を向ける。
「外科って、外科オンリー?脳外とか形成とかの方は入るのかしら?」
「さあ?でも、テル先生が言うんだったら、脳外とかなら脳外って言うんじゃないかしら」
「そうよね。テル先生だって医師の一人だもの。じゃあやっぱり外科の先生なのね」
確かに言われてみればその通りだ。これで残すは、最大のライバルただ一人。
とりあえずここまで絞れれば上出来だ。北見は手に持っていたカルテを閉じ、保管棚に戻した。
しかし、北見がナースステーションを出ようとした瞬間、爆弾が投下された。
「あとは、すっごく笑顔が素敵な人だって話よ」
(笑顔・・・だと?!)
この言葉で、自分が除外されてしまったことを知る。自分が笑わないタイプであると言う自覚はあるし、何よりテルが北見を表現するときにその単語を使うはずがない。
(笑顔・・・笑顔か・・・確かに四宮が笑ったときにアイツは随分興味を引かれていたようだったが・・・いや、しかし四宮を形容するときにも「笑顔」という単語を使うとは思えんな・・・)
半ば止めど無く落ち込んでいきそうな気分を無理矢理引きとめながら廊下を歩く。
(だとすると、片岡先生か?いや、しかし・・・。確かに指導医を交代したときは随分懐いていたようではあったが、まさかそれはな・・・)
「痛ェッ!!」
前も見ずに考え事をしながら歩いていたら、何か小さな物にぶつかった。
「な、何だよ北見ぃ〜〜〜・・・」
足元を見下ろすと、北見を悩ませている張本人が転がっていた。
涙目で抗議しながら北見を見上げている。
「・・・立てるか」
手を差し出すと、テルは素直に北見の手に掴まった。
「・・・あ!!」
テルが立ちあがる瞬間、テルの白衣のポケットから何かが滑り落ちた。
ぱたりと音を立てて、裏返しに床に落ちたそれは、どう見ても先刻ナース達の話題に出ていたパスケースだった。
拾おうとしたテルより先に、パスケースを拾い上げる。
もう先刻の話で覚悟は出来ている。北見はゆっくりとパスケースを表に返した。
「・・・。」
「・・・北見・・・?」
「これは、誰だ?」
「・・・っと、父さんッス・・・」
みれば、テルと面差しが良く似ている人物の写真が入っていた。
(なんだ、そうだったのか・・・)
考えてみれば、テルのファザコンっぷりは周知の事実だ。テルより年上の、笑顔が素敵なゴッドハンド外科医。確かにその通りである。
何でこんなことに気がつかなかったのか、と自分に苦笑すると、どうやらその笑いを違う意味にとったらしいテルがむっとした。
「な、なんだよッ!!父さんの写真持ってちゃ悪いのかよ?!」
「誰も悪いなんて言ってないだろうが」
「だ、だって笑ってる・・・」
上目遣いで北見を睨むテルの口が尖っている。どうも拗ねられたらしい。
「馬鹿にしたわけじゃない」
「い、いいよもう!!とにかくそれ返せよっ!!俺のお守りなんだから!!」
パスケースを差し出すと、テルはそれをひったくるようにとって、胸元にしっかりと握り締めた。
「俺まだまだ全然駄目だけど!!でも、それでも毎日一生懸命頑張ってるって、それを父さんに見てもらいたくて、だから・・・!!」
「・・・そうだな」
目を逸らして必死でまくし立てるテルの言葉を肯定すると、テルははっとしたように北見を見上げた。
「もうすぐ症例会議の時間だ。遅れるなよ」
「う、ウッス!」
テルの横を通りすぎて、再度歩き出す。テルがもっていたのは自分の写真ではなかったが、父親の写真だと言うならば仕方ない。他の奴、特にライバルにあたる人間の写真など持ち歩かれるより全然ましだ。
少し拍子抜けな結末ではあったが、落ち込んだ気分は上昇した。
テルはまだ誰の物にもなっていない。これからが勝負だ。
北見は歩くスピードを早めた。




「・・・っぶなかったー・・・」
立ち去った北見の背中を見送り、テルは溜息をついた。
北見にパスケースを拾われたときは、心臓が止まるかと思った。
写真に目を落としながら、さっき「そうだな」と言って笑った北見の顔を思い出す。
「滅多に笑わないけど、笑ったときの顔、好きなんだよなー・・・」
定期券を取り出すための穴に指を入れ、そっと父の写真を押し上げると、その下にもう一枚写真が現れた。
長い黒髪の、仏頂面の外科部長の写真。あまり笑わないが、笑ったときは本当に優しい目をする人。
「ホント、2枚入ってるって気づかれなくて良かった・・・」
写真にちょっとだけ笑いかけた後、写真を元に戻す。
パスケースをポケットにしまって、テルは走り出した。



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