「よっ、テルセンセイ♪今帰り?」
四宮に似た、聞き覚えのある声にテルが振り返る。
「蓮先生!!どうしたんスかーって、あ、四宮ですか?」
四宮ならそろそろ来ると思いますよ〜、と屈託のない笑顔を見せるテルに、蓮がクスクスと笑った。
「テル先生、この前はあんなに必死で慧のこと引きとめてたのに、随分簡単に俺と会わせてくれちゃうんだね?」
「ああ、俺それは心配してないスから!!」
ケロッと言い放ったテルに、蓮が少し表情を曇らせた。慌てたところをからかう予定だったのだ。その表情の意味をどう取ったのか、テルが笑顔で言葉を続ける。
「四宮は戻りたいって思ってないみたいだし、ヴァルハラには四宮が必要で、四宮の居場所がある。だから心配しなくても四瑛会には行かないんスよ」
きっぱりと言いきったテルの表情は自信と信頼に満ち溢れていた。
「ふぅん・・・まあいいや。今日はね、慧じゃなくて君に会いに来たんだしね」
にっこり、と弟を上回る愛想笑いを浮かべた蓮に、テルが首を傾げた。
「へ?俺?」
「そ♪テル先生とはもっとゆっくり話してみたかったしね。食事でもどう?奢るよ」
「マジッスか?!」
らんらんと輝いたテルの目に、内心ほくそえみながらも、蓮の愛想笑いには一片の隙もない。
「もちろん。それにこの前の四瑛会のパーティーでは、騒ぎがあってテル先生もゆっくり食事できなかっただろ?そのお詫びも兼ねて・・・ね」
「いや、お詫びだなんて・・・だってあれは蓮先生の所為じゃないじゃないっスか〜」
ひらひらと手を振ったテルに、蓮が内心苦笑する。あれが茶番だったとは気づいていないのか。まあ、大学から医学を勉強した者で、この年齢なら仕方ないといえるかもしれないが。四宮家の者は別格なのだ。
とは言え、あの茶番に気づいた慧もかなり怒っていたし、性格から考えればあれが茶番であることに気がついたら慧よりも現在蓮の目の前にいる人物の方がよっぽど怒り狂うことは予想がつく。気づかないでくれて良かったと言えないこともない。
「ところで蓮先生、あの食道異物の患者さんって、あの後四瑛会の病院で診察受けたんスよね?異常とかなかったスか?」
「ああ、何もなかったよ」
あるわけがない。アレは四瑛会を印象付ける為に行ったショウだ。テルの言う通り、あれは食道異物の病名を偽ったのだから・・・
「?!テル先生、今キミ食道異物って言ったかい?」
「え?ああ、だって食道異物だったでしょう?」
きょとんとして蓮を見上げるテルに、蓮は内心の動揺を押し殺す。しかし、茶番だったと知ったら一番大騒ぎしそうなのに、何故食道異物だと気づいていて何も言わなかったのか。
「あ、蓮先生もしかして親父さんが病名言い間違ったの気にしてます?何か四宮もソレ気にしてましたもん」
「テル先生・・・」
「でもその後の処置が間違ってたわけじゃないでしょう?何より患者さんが治ることが一番大事なんスから・・・。病名を言い間違ったくらい、気にすることないっスよ」
ただ言い間違っただけだと思っているのか。アレが茶番だったと気づくかどうかのボーダーラインは、普通なら病名が間違っていることに気づくかどうかだ。病名が違うと気づけば、普通の人間はアレは茶番だと気づく。
それなのに、この青年は。
「ぷくくく・・・あっはっはっは!!テル先生、キミ、最っ高ォ!!」
「わぁっ?!蓮先生?!」
どうにも笑いが堪えきれなくなって、蓮はテルを思いっきり抱きすくめた。腕の中で驚いたテルがもがいている。
「よっぽどヴァルハラってのは『いい』先生が揃ってるんだろうねぇ」
「そうっス!!ヴァルハラは最高の病院なんスよ!!」
ヴァルハラを誉められただけで、テルの抵抗がぴたりと止む。この青年はあの病院でよほど大事にされているのだろう。悪意も憎しみも何一つ知らなくて済むほど。腹芸なんて覚える必要がないほど。
「テル先生は可愛いなぁ」
蓮が頭を撫でるとテルがふくれっつらになった。
「男が可愛いなんて言われたって嬉しくないっスよ!」
「はは、ゴメンゴメン」
誰にも興味を持たず、技術だけを追っていたはずの弟が、彼に執着している理由がわかる。北見という男に執着するのは分かる。北見は確かに技術は中々のものだ。興味を持つのも仕方ないといえる。
しかし、テルは違う。技術そのものしか見ていなかった慧にとって、テルの父がゴッドハンドだったなどという事実は大して大きな意味を持っていなかったはずだ。そしてテルの技術は慧の技術と見比べればさすがに見劣りする。
そんな慧が、テルにこだわる、その理由は単純だ。
人とのふれあいなど知らず、親は将来へのレールを敷くばかりでろくな愛情も与えられず、人を信頼することも人に信頼されることも知らなかった慧にとって、テルは異世界の住人なのだ。
誰からも愛されて育ってきた、人を疑うことを知らない種類の人間。それがテルだ。
それだけだったらうっとおしいだけのただの馬鹿だが、この青年ときたら初めて会った相手にでも無償で全力で愛情を注いでしまう。こんなに誰でも信じて誰にでも愛情を与えて、裏切られたことはないのだろうかと思うほどに。
本来近しい人間から与えられるはずの愛情さえ知らない慧にとっては、全く持って理解出来ない存在だったに違いない。
だからこそ、自分もその愛情の対象に入っていたことに気がついた時に、彼に執着せずにいられなくなったのだ。
自分が持っていない物を持っている人間が。
自分が一度も与えられたことのない物を与えてくれるのだ。
愛さないわけがない・・・。
執着しないわけがない。
「蓮センセー?どーかしましたか〜?」
黙りこくってしまった蓮を、テルが心配そうに見上げている。彼の愛するヴァルハラと、自分のいる四瑛会は今対立しているというのに。そんなことはすっかり忘れているかのような、真直ぐな瞳で見つめてくる。
「何でもないよ」
可愛すぎて壊したくなる。
憎しみを、裏切りを、欺瞞を、全ての薄汚い感情をこの綺麗な瞳に見せつけてやりたい。
その時彼はどんな風に壊れるだろうか?
ただ泣くのか、ボロボロになるのか、俺達と同じモノになるのか。
自分は慧のようにはならない。
愛情などとうの昔に諦めた。
あの父にも認められた。今の地位を手放す気はない。
今はこれほど純粋だって、どうせいつかは壊れるのだ。
壊れるのを見守るくらいなら、この手でずたずたになるほど壊したい。
「蓮先生・・・」
ふと、急にテルが手を伸ばして蓮の頭に触れた。背伸びをして何故かいいこいいこしている。
「テル先生、何してるの?」
まさかテルに頭を撫でられようとは思わなかった。蓮が苦笑すると、テルは少しはにかんで笑った。
「何か、蓮先生悲しそうだったから」
そして再び連の頭を撫ではじめる。
「俺が辛いときとか、悲しいときとか、こうしてもらうと元気出るから。だから、蓮先生も元気になるといいなって思って・・・」
小首を傾げてにっこりと笑ったテルの笑顔に、一瞬思いっきり見とれてしまって、蓮は慌てて目を逸らした。まさか今更自分の中でこんな感情が動こうとは。感情を殺した腹芸なんて特技の一つのつもりでさえいたのに、テルの顔が直視できない。・・・口が達者なだけで、頭の中身はまだまだお子様な慧が落とされるわけだ。妙に納得してしまう。
「テ〜ルせんせ〜い、大人をからかっちゃいけないよ〜?」
「俺からかってなんか・・・うわっ?!」
テルを肩に担ぎ上げ、蓮は駐車場に向かって歩き出した。こうすれば赤面した顔は見られずに済むだろう。
「蓮センセーッ!!俺自分で歩きますから降ろしてくださいよーっ!!」
「ダーメ。大人をからかったお仕置きだよ」
「それに『大人をからかう』ってなんですか俺だって大人ですよっ!!」
「おチビちゃんなら未成年で充分通用するよ」
「みせいねっっっ・・・俺はもう26だーーーっ!!」
「はいはい。で、寿司とイタリアンとフレンチ、中華、何がいい?おチビちゃん。他のものでもいいけどね」
「寿司ーーーっ!!」
食べ物の話題になった瞬間誤魔化されたテルに、蓮から失笑が漏れる。おかげで随分落ち着いたが、内心なんだか浮き立つような気持ちがあるのは変わらない。
「寿司ね。トロでもウニでもイクラでも好きなだけ食べていいよ」
「マジッスか?!」
「勿論。俺もおチビちゃんとはこれからも仲良くしたいからね」
「やったーーーーっ!!・・・ところで、蓮先生?」
「何かな?」
「その、『おチビちゃん』って俺のコトっスか?」
「他に誰かいたかな?」
「・・・っ!!そういうトコは四宮とそっくりっ・・・」
どうやらむくれたらしいテルを、助手席のドアを開けて座らせる。
わざわざ手ずからシートベルトをしてやって、顔を近づける。至近距離で、計算づくの大人の笑顔をにっこり浮かべる。
「まあ、兄弟だからねぇ?」
並の女ならこれで落ちるところだが、いかんせん相手は男だ。しかも恐らく・・・かなりの鈍感。時間をかけるしかあるまい。
運転席に回って車のエンジンをかける。

もしかしたら、彼なら。
世界中の汚いものを見てさえ。
それを包み込んで愛せるのかもしれない。
傷ついても、苦しんでも。
変わることなくいられるというのなら。

「慧にはもったいないな・・・」
「えっ?」
「なんでもないよ。ただ俺のものにしちゃおうかな〜と思っただけ」
「???」
もちろん、あの北見と言う医師にだって渡さない。

俺だけのものにして見せる。


戻る