「春だ、鎌倉初デート♪」後編
(66666hit キリリク小説)


by 戸田采女

  鶴岡八幡宮から北鎌倉への道を、車は建長寺近くのとある寺を目指して走っていた。
先生は「マイナーな寺」などと言うが、運○の作品で有名な某寺なら私も聞き知っていた。結城家に三十年以上勤める家政婦、富士子さんの実家らしい。兄さんが住職ということか。

 車中から携帯で連絡、了解済みだったので、住職みずから門前で我々を迎えてくれた。住職の指示で檀家用の駐車場に車を止めた。

 車から降り立つと、
「良兼さん、おひさしぶりです。本日は無理を言いまして…」
好感度120%のスマイルを浮かべ、先生は丁寧に頭を下げた。
ごま塩頭で丸顔の住職が、なんのなんのと首を振った。
「坊ちゃんもお元気そうで何よりです。あいにく所用で出かけねばならんのが残念ですが」
住職は苦笑しつつ、先生の肩ごしにちらりと私を見た。
「そちらは?」
「うちの学生です…っと、正確には修士を終えまして、この春から社会人です」
先生に目顔で促され、私は住職に一礼した。
「初めまして。櫻田右近と申します」
住職はまじまじと私の顔を見つめ、
「ほう…」
と一声発し、嘆息した。
「これはまた…」
「なにか?」
ひたと見つめ続ける住職。
少し不躾ではないかと思った。
住職はひとり納得したようにうなずくと、
「坊ちゃんもなかなかお目が高い」

 この坊主、何を言いだすのかと私は内心身構えた。
おまけに三十男を捕まえてぼっちゃんとは…。ぶるっ。

 先生はといえば、慌てて身体の前で両手をふりふり交差させた。
「良兼さんたら嫌だなあ。私たちは清く正しい師弟で、それに…この子は見ての通り男子学生ですよっ」
否定しながらも墓穴堀りまくりの先生を、バカじゃないかと冷たくひと睨みしてやった。
先生はひとり勝手に照れるばかりで、私の視線に全く気付いていない。
すると住職が、
「この方、相当優秀でしょう?」
「は?」
「いえ、オーラでわかるんですよ。櫻田さん、前世は非常に高潔な人物というか、ひとかどのお人だったに違いありません」
今度は私が『ほう』とうなった。
この住職、一応霊感があるのかと感心した。
しかし同時に、
「ならば結城先生の前世は?」
ついいたずら心が湧いて住職を試してやりたくなった。
「坊ちゃんですか?う〜む」
腕組みをして首をかしげた住職に、
「もしもし…なぜにそこで黙るのでしょうか? 私と良兼さんは初対面でもありませんよ」
先生がおずおずと尋ねた。
「坊ちゃんのオーラは…濁ってますからね。前世で何者だったかよくわからんのです。そこへ行くと、櫻田さんのは澄み切っていて、前世のお姿が目に浮ぶようです」
からりと笑う住職を前に、
「な、なるほど…」
先生はがっくりと肩を落とした。




 私たちは奥庭に面した客殿へ通された。
桜で有名な寺ではなかったが、庭の枝垂れ桜は優美な趣きがあり、椿や梅などの樹木、小手毬やツワブキなど他の植裁もさりげない配置で桜を引き立てていた。人込みを逃れ、こんな場所で静かに昼食を取るのも悪くない。

 平日とはいえ、花の時期の鎌倉は人が多い。鶴岡八幡宮などは相当な人出で、騒がしい花見スポットで弁当を広げるのは私も気がすすまなかった。先生の気づかいと住職ご夫妻に感謝だ。

 外出する住職と入れ代わりに奥さんがお茶の用意をして現れた。
背は低く小太りで、歩き方からして膝が悪いらしい。
「まあまあ、よくおいでくださいました」
「突然ご迷惑をおかけします…。弁当が済みましたらすぐにおいとましますので」
ぼんやりしている先生の代わりに、私がしっかりとお礼を言った。
「どうぞごゆっくり。何かいるものがあったら遠慮なくおっしゃてください」
奥さんは笑顔で応えたのち、大儀そうに立ち上がると、ゆっくりと庫裡のほうへ戻っていった。
話し好きな人で居座られたらどうしようと思ったが、取り越し苦労のようだった。

 私は風呂敷包みを卓の上に置き、重箱を取り出した。ばあちゃんが割り箸はつけてくれていたが、奥さんが取り皿を置いていってくれたので、遠慮なく使わせてもらうことにした。
「さあ、先生、いただきましょう」
重箱の蓋を取り、卓の上に並べた。
一段目と二段目はちらし寿司で、三段目に季節の果物が入っていた。

 ばあちゃん自慢の穴子ちらしは、焼き穴子をメインに、さっと煮たしらさ海老、しいたけ、かんぴょう、高野豆腐の刻んだもの、青みに茹でたきぬさやを細くきったものが酢飯に混ぜ込んである。その上へ錦糸玉子をたっぷりかけ、紅ショウガともみ海苔は後からかけるように、別の器で用意されていた。料亭で出てくるような上品なちらしではなかったが、庶民の我が家ではこれが晴れの日のご馳走だったのだ。

 私が寿司を取り皿によそう間も、先生は相変わらず畳の上で膝を抱えていた。
「先生っ!さあ、食べましょう」
『濁ったオーラ』が余程ショックだったのか。
可哀想な気もしたが、大の男がしょぼくれている姿は笑いを誘うだけなのに。
「先生、ほら、すねてないで」
お茶も入れてやり、再び先生に卓につくよう促した。
先生は顔をあげると、ようやく卓ににじり寄ってきちんと座った。
広げた重箱の中身を興味をひかれたように見る。
「お口に合うといいですけど」
私がにっこり微笑みかければ、つられて先生の頬にも笑みが戻った。
「…美味しそうだね」
先生と私は目を見交わし、いただきますと手を合わせた。

「紅ショウガと海苔は好きなだけどうぞ」
先生に説明しながら、私はショウガと海苔を結構ふんだんに錦糸玉子の上に乗せた。
早速箸で口に運び、ばあちゃんの寿司を味わう。
先生も私にならってショウガや海苔を多めに散らした。

(そう言えばこのお寿司、久しぶりな気がするなあ。穴子もうまいけどこの海老!まさか昨日築地まで買いに行ったんじゃ…。朝から頑張ったんだね、ばあちゃん)

 もぐもぐと口を動かしながら、しみじみばあちゃんの愛を噛みしめていると、
「うん、これはいける!」
先生が唸った。
「ほんとですか?」
「ああ。具沢山なのがいいね。具材や酢飯の味加減も丁度いい。玉子も甘過ぎないのが私好みだ」
「ばあちゃんが聞いたら喜びます!」
身内を褒められれば誰とて嬉しいもの。
おもわず頬が弛んでしまった。
先生もにっこり笑って、せっせと箸を動かし始めた。
「何だかいくらでも食べられそうだ」
「重箱二段にぎっしり入ってます♪」
「では遠慮なく」

 この食べっぷりならお世辞じゃないだろう。
よく考えたら、ふたりきりで食事をするのは初めてだ。
酒が入る飲み会やパーティは、食べることより社交に熱心な先生だが、好きなものを無心に食べている姿は何やら子供のようでおかしい。しかし箸の使い方は流石に上品だ。

 私は先生に付き合い、しばし無言で寿司に専念した。




 昼食後、ガラス越しに縁側に差し込む陽が心地よく、思わずうたた寝したい気分になった。少々食べ過ぎたのかもしれない。先生もとろりと瞼が重くなっていたが、せっかく鎌倉くんだりまで来たのだ。寺院のひとつやふたつ行かねばなるまい。
 
 富士子さんの実家の寺を後にする前、一応有名な○慶作の御本尊を拝んだ。お寺の好意に甘えて車をそのまま置かせてもらい、私と先生は徒歩で出かけた。もちろんメジャーな寺には駐車場くらいあるが、平日とはいえこの時期は混雑が予想される。何より、古都の町並みをのんびり歩いて楽しみたいではないか。

 桜の名所は多々あるが、私はその中でも浄智寺を希望した。
「何か特別に見たいものでも?」
「あ、いえ…例のタチヒガンは一見の価値ありかと」(神奈川名木100選のひとつでしたっけ?)
「いいよ、ただ、もっと沢山咲いているお寺が他にもあるんじゃない?」
「ええ、でも…」

 『昔、あなたと来たことがある』と正直に応えてもよかったが、言ったところで先生の目が点になるのがおちだ。言葉を濁している間に、背後から音がして路線バスが私たちを追い越していく。
「おっ櫻田くん、あれに乗ろうか?」
バスは減速し、30mほど先の停留所に止まろうとしていた。
しかしここで乗っても1つか2つ先で降りるはず。
私は小さく首を振り、
「どうせすぐ降りますから、腹ごなしにゆっくり歩いていきましょう」
「そ、そうかい?」
先生はわずかに眉尻を下げてうなずいた。

(車で移動する癖がついてるから…歩くのが嫌いなんだな)

 相変わらず『殿』は徒歩が苦手かと、私はくすりと笑みをもらした。

 その昔、殿や小姓達と遊山に来た時、鶴岡八幡宮はもちろん、鎌倉五山にも足をのばした。その時ももちろん殿は『お乗り物』だった。

(そういえば、何で住職は先生の前世がわからなかったんだろう? )

 嗜好といい、性癖といい、どこから見ても『殿』でしかないのに、と私は先生と並んでバス道をいきながら、ひとり首をかしげていた。




 浄智寺は鎌倉五山第四位の寺で、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達したという。江戸後期にもかなりの規模であったが、ほとんどが関東大震災で倒壊。今の建物は震災後に再建された。私が武士だった前世、明和年間に来たときと同じでないのは承知だが、参道や寺院裏手の山桜に昔の記憶が懐かしく蘇った。

 三門の階段を上ったところで拝観料を払い、まずは鐘楼門へ。浄智寺は落ち着いた風情の寺だが、流石に桜の時期は結構な人出だ。
「空いてる時期なら、ここでお弁当広げてもよかったんだがね」
先生はかたわらの木のベンチを指差した。
そこには遅い昼食なのか、下町の商店街にいそうな中年女性の二人連れが、まーたりといなり寿司をほおばっていた。

(そうだ…あの辺りに床几を用意させ、殿はしばし写生に没頭しておられたな)

 その日の衣装までは思いだせなかったが、『殿』は画帳と矢立てを取り出し、楼門から見上げる里山の風景を熱心に写し取っていた。側に控える自分や小姓頭の仙之丞も、満ち足りた気分で秋のひとときを満喫していた。

 さて『現代の殿』はと思い先生の姿を探せば、
「うむ、やはりこの角度からの眺めが最高だね」
と、やはり本能でベストスポットを嗅ぎ分けていた。
このひとは何事も、常に美味しい場所を確保する能力に長けている。
(一応誉めているつもり)

 楼門を取り囲む桜はほぼ満開だった。名木のタチヒガンは空に向かって伸びやかに枝を広げ、小ぶりな花を一面に咲かせていた。この木一本だけでも見事なものだが、浄智寺の良さは背景に広がる素朴な里山との融合だろう。屋根越しに見える裏山、萌黄や緑鮮やかな木々の間に、桃色から白に近い薄紅色まで色合いの異なる山桜が枝を広げる風景は、『殿』でなくとも絵心をそそられる。

 私は後ろから先生のかたわらに歩み寄った。
「鎌倉時代からずっとこんな感じだったんでしょうかね」
しみじみ呟く私に、先生は里山から視線を戻した。
「そうだね。鎌倉、室町時代に比べれば寺院の規模は随分小さくなったようだが、この風景はきっと昔から一一」
先生は途中で言葉を切った。
「櫻田くん?」
「はい、何でしょう?」
「何でしょうって、どうしたの、さっきからじっと見て」
「え?」
そうなのか。じっと見つめたつもりはなかったんだが。
先生は何やら嬉しそうに片頬で笑った。
「そんなにいい男かい?」

(こ、このバカ殿は〜〜!)

 絶句する私を今度は先生が熱っぽい瞳で見つめた。

(うっ…)

 『殿』と同じ瞳に私は狼狽した。
何やらやばい記憶が次から次へと蘇ってくる。
『殿』の寝間着にたきしめられた香の匂い。
寝所に誘われる時の、『殿』の深い声。

「さ、早くお参りしましょう!」
私は頭を振って早口に叫ぶと、先生の肘をとって本堂へ向かった。

 本堂には過去・現在・未来を表す、阿弥陀・釈迦・彌勒の三世仏が安置されている。
「いいお顔の仏像ですね」
「そうだね」
「心が洗われます…」

(洗ってもらわねば困る)

 私は胸のうちで呟いて、しばし瞑目した。
先生も仕方なく私に付き合っているようだ。
隣に静かに佇む気配があった。
阿弥陀様は私達の『ただれた過去』をご存知かもしれないが、今はしばし清い心で三体の仏像を拝む一一。

「櫻田くん」
そっと肘に触れる動きに、私は瞑想から覚めた。
先生がちらりと背後を振り返る。
「…すまんが、そろそろ代わってくれんかの。儂らもお参りしたいで」
金歯をのぞかせた白髪のご老人が、申し訳なさそうに会釈した。
その後ろ、老人会の一行とおぼしき人たちが列をなしていた。
「あ、すみません…気がつかなくて」
私は気恥ずかしさで肩を丸めてしまったが、
「では皆さん、どうぞごゆっくり」
先生はご老人の列に品の良い笑みを振りまきながら、大股でゆったり歩いていった。

 本堂を離れた私たちは、奥を右手に回り、わらぶき屋根の書院前に出た。作り込みすぎない自然な庭が好ましい。梅や椿の木もそこかしこにある。一月前に訪れても、桜とはまた別の良さが楽しめるに違いない。

 寺の裏手は鎌倉石の岩肌がのぞく崖で、拝観路にそって石仏が多数あった。元禄、享保あたりの作が多く、明和の頃、私が訪れたときと同じものが今も残っている。ちょっと感動した。 




 一通り見終わった私達は、近くの明月院に向かうことにした。
若いカップルや和装のご夫人方に混じり、ふたたび参道を下る。
「言ったかな。うちは爺さんが大の英国びいきでね」
先生が唐突に切り出した。
「あれ、それは初耳です」
なるほど、年齢から察するに日英同盟の世代か。
「そう。以来ハイカラ(というか西洋かぶれ)な家風がしみついてしまってね。父の代にはクリスチャンだったから、神社仏閣は正月以外は縁がなく、日常生活の場からは遠くなってしまったよ。でも一一」
「でも?」
「北鎌倉はいい。たまに来ると落ち着くね。澁澤○彦(フランス文学者)が晩年この辺りに居を構えたのもわかるような気がする」
「そうでしょう?!」

(当然です、あなたは一応藩主の生まれかわりですよ。自身も絵を嗜み、日本の美、日本の文化にどっぷりだったくせに)

 先生が何やら不思議そうに私の手元を見た。視線の先に、つい意気ごんで振り上げた拳があった。私はそろそろと手を降ろし、
「いえ、おっしゃるように若い頃洋風な環境で育った人ほど、晩年は日本文化に回帰しますね。ほら、あの人にこの人、三島(由○夫)なんかも」
「ふうん。君は歴史や国際関係だけでなく、さすがに守備範囲ひろいね」
「そんな、これくらい日本人の常識です」
これくらいで褒められてもなっ…とクールに笑うつもりが、先生の慈愛と何か別のものに満ちた眼差しに、私は思わず視線を流した。




 明月院からの帰り道、人力車に乗ろうとうるさい先生に負け、とうとう乗り物のお世話になった。先生が学生時代ボート部だったなんて絶対嘘だ。今でもジムには通っているらしく、体型は崩れていないというか…結構鑑賞に耐えたりする。(ごほん)それはともかく最近の車だのみの生活で、脚力が随分と落ちているようだ。今日の所は黙っておくが、一度真剣に意見しなければと思った。

 車を止めておいた某寺に着いた頃には大分陽が傾いていた。所用で出かけた住職も寺に戻っており、私と先生は住職夫婦に改めて礼を言いガブリオレに乗り込んだ。
「では良兼さん、奥さん、東京へいらしたときはぜひ成城の家にもお立ち寄りください」
「ありがとうございます」
頭を垂れるおふたりに私も丁寧に一礼した。
「お世話になりました」
先生が車のエンジンをかけた。
「坊ちゃん、櫻田さん、どうぞお気をつけて」
「ありがとうございました」
車中から私がふたたび頭を下げたところ、先生が車を発進させた。
車が走り去るのを、おふたりはしばらくの間手を振って見送っていた。

「親切な方たちでしたね」
「ああ、あの夫婦は体型同様、人柄も丸くてね。妹の富士子とは大違いだ」
先生がぼそっと洩らしたひとことが気にはなったが、その場はさらりと流した。
後日、噂の『富士子』に対面した私は、それを思い知ることになるのだが。

 車は再び鶴岡八幡宮のほうへ下っていく。
「さて、これからどうしよう。江ノ島行きたいって言ってたっけ?」
「ええ。でも時間がなさそうなら、眺めるだけでいいですよ」
「じゃあ、とりあえず海岸まで出ようか」
「はい」
どちらかというと江ノ島より干物屋に寄りたい気がしたが…。後のことは先生に任せようと思った。お昼はせっかくどこか予約していただろうに、ばあちゃんの弁当で大番狂わせだったから。




 夕方、それなりに道は混んでいて、鶴岡八幡宮、鎌倉駅を過ぎ海岸線まで下りた頃には、西の空が茜色に染まり始めていた。
先生はハンドルを握りながら、
「稲村ケ崎で止めようか」
「はい、おまかせします」
「そこから江ノ島と富士山がよく見えるよ」
私がこっくりうなずくと、
「じゃあ、ちょっと飛ばすぞ」
先生はぐっとアクセルを踏み込んだ。
「先生!」
一日に二回もスピード違反でひっぱられたら、今度こそ警察泊まりか?と私は青くなった。
「大丈夫、もう皆さん引き揚げてるよ」
「またそんなこといって。官憲を甘く見てはいけません」
私の忠告を先生は軽く笑い飛ばして、ガブリオレは快調に134号線を走っていく一一。




 稲村が崎。
夕陽を眺めるならここと、お約束のようなスポットだ。カップルがたくさんいたら嫌だなと、内心警戒していたのだが、春先のこの季節、平日ということもあり、駐車場には私達の他にもう一台、ローバーミニが止まっているだけだった。他はチャリで来たアマチュアカメラマンがちらほらというところか。

 湘南地方、午後一部で小雨という天気予報だったが、幸い今日一日天気は持った。夕暮れ時、風は少し冷たいが寄せる波は穏やかで、春のおぼろな空が水際から次第に茜色に染まっていく。入り江の向こう、手前にくっきりと江ノ島、遠景にほのかに色づく富士山が浮びあがっていた。

 車のエンジンを切ったのちも、私たちは何となくシートに座っていた。キャノピーは開けてあるから、見通しは抜群だ。絶景を前に、私たちは自然と言葉少なになっていた。

(一日の終わり。もうここまで来たら後は一一)

 空の色、空気の色は刻々と変わり、太陽の一部が伊豆半島にかかった。波しぶきが黄金色に輝く。

 先生は前を向いたまま、
「櫻田くん」
いつになく生真面目な声で私の名を呼んだ。

(来たっ…)

 さすがの私も緊張で喉が鳴った。不様な音を波がかき消してくれたと思いたい。

「櫻田くん、今日は一日ありがとう」
先生は前を向いたままちいさくうなずいた。
「いえ、僕のほうこそ」
「…夢のような一日だったよ」
「そ、そんな…」
こんな恥ずかしい台詞がよく吐けるなと感心しつつ、私は膝の上で両手を握りしめていた。

(まずい…どきどきしてきた)

 花見に誘われたときから、今日が特別な日になる予感はあった。覚悟だってしていた。でもいざその瞬間が来ると、情けないほどにうろたえる自分がいた。

「君も…これから忙しいと思うが、よければまた一緒に出かけてくれないか?」
慎重に言葉を選ぶ先生。
「はい…喜んで」
私は自らに確認を取るがごとく、しっかりとうなずいた。
迷いなく答えた私に安心したのか、先生の声が少し明るくなった。
「次に鎌倉を訪れるなら…紫陽花の季節かな」
「ええ、私もそう思ってました」
先生はようやく私の方へ向き直り、
「葉山にうちの別荘があるんだ。今度はヨットにも乗せてあげよう」

(ううっ…。下屋敷に舟遊びか。やっぱり殿は殿だな…)

 このセレブ男め、学生時代その手を使いまくったか…と内心苦笑したが、『それは楽しみです』と薄く微笑んで無難に返した。

 日没の瞬間が迫り、カメラマンたちが思い思いにシャッターを切り始めた。
 
 少し海風がきつくなった。

「いよいよですね…」
私は水平線を見つめながら呟いた。
「そうだね」

 相模湾に沈む夕陽は美しかった。
没する寸前に最後の輝きを放つ様は、何度見ても胸に迫るものがあった。
そして日没後、寄せる波のごとく、闇が静かにあたりを覆い始めた。
わずかな時間の間に劇的に変わりゆく空と海に、先生と私は言葉を忘れて見入っていた。

 ふと気がつけばカメラマンたちも撤収し、駐車場にはさっきのローバーミニと私たちだけだ。

 先生は陽が沈んだ後も、じっとハンドルに手をかけて暗い海を見つめていた。

 思案が終わったようなタイミングで、
「…じゃ、行こうか」
先生が背筋を伸ばした。
「先生」

 何を言うつもりがあったわけではない。ただ反射的に先生の肘に手をかけていた。
「櫻田くん…」
引き止めるような私の仕種に先生は驚いたようだ。
シートの上で身体ごとこちらへ向き直った。
自分の胸の高鳴りはごまかしようがなかったが、先生と目を合わすのは怖かった。
私は身を固くしたまま、中途半端に目を伏せていた。
やがて先生の指先がためらいがちに私の頬に触れた。
そのまま優しくこめかみを撫で、今度は手のひらをそっと私の頬に押し当てた。

 どことなく繊細な指と、暖かく乾いた手のひらの感触に、私は泣きたいような懐かしさに襲われた。先生が身を寄せる気配に、私はかたく目を閉じた。
先生の手は私の頬から離れ、項に滑り下りて止まった。
「好きだ」
耳もとで微かな声を聞いた。
間を置かずに、こめかみに柔らかいものが軽く触れた。
「ずっと…君のことが好きだったよ」
「あ…」
「君が修士を終えるまでは、決して口にすまいと誓っていた」
「先生…」
ようやく目を開けた私に、先生は柔らかく口元を綻ばせた。

「驚いたかい?」
私は少し間を置いた後、小さく首を振った。
「真面目に…君と交際したいと思っている」
「先生…」

 片手は私の項に触れたままだったが、先生はわずかに身を引いて私の目をじっと見た。
「急がなくていい、ゆっくり考えてから…返事してくれ」
「あ…」
「いきなり男の私から付き合ってくれと言われたら、戸惑うのが当然だ」
「いえ…それは」
物言いかけた私を遮るように、
「すまない、君も進路のことで今は頭がいっぱいだろうに、こんな事を言い出す私を許してほしい」
先生は一息に続けた。
「先生っ…」
「ずっと君のことを見てきた。六年間だよ。もう…これ以上待てなかったんだ」
先生は溜息とともに心情を吐露した。
 
「先生…」

 ほらやっぱり一一。
先生は私が望んだ通りの人だった。
一見調子こいているかと思えば、私に対しては信じられないほど生真面目で、礼儀ただしく手順を踏んで、きちんと想いを伝えて一一。

 帰り道、なし崩しにホテルへ連れこまれたらなどと、一瞬でも考えた私がばかだった。

(今生も…やっぱり私はこの人のお守りだな)

 それが自然な流れだと思った。

 前世は主従。ひとかたならぬ殿の寵愛を受け、藩の要職についた私は全力でそれに応えた。今の価値観とはだいぶん違うが、忠義イコール愛と言ってもよい。

 今の世は自由で豊かな反面、高い精神性は失われてしまったように思うが…。お互いが好きで一緒にいたいと願えば、たいていの場合叶う世の中になった。

『右近。…来世でまた会おうぞ。あまり余を待たせるな…』

 私は藩主・結城惣一郎の臨終の言葉を思いだしていた。

(会えましたね…殿。六年間も親身に御指導くださった上、此たびは『伽をせよ』の前に、きちんとお気持ちを聞かせていただけましたし一一)

 先生は隣で伏目がちにじっと息を詰めて、私の様子をうかがっていた。
心を決めた私は、
「先生」
ようやく自分のほうから声をかけた。
「お返事なら今できます」
先生ははっと目を見開いた。
「えっ…そんな慌てなくても」
「いえ、たった今、決心がつきました」
「いや、だからもっとよく考えてだね…」
拒否されるのが怖いのか。妙に腰が退けている。

 私は声高らかに宣言した。
「先生の…側にいたいと思います」
「う、櫻田くんっ」
先生が一瞬かたまった。
「ほんとかい?」
ほとんど涙目で声が震えていた。
「もちろんです」
私は一旦言葉を切ると、
「外務省は受けません。これからも…先生の研究室においてください」
「えっ…研究室?」
「はい、大学に残りたいんです。ダメでしょうか?」
「いや、それは学長も大喜びだし、私としても大歓迎だが…その、私の返事というのは、あの、プライベートな『お付き合い』のほうで…」
しどろもどろになる先生に、私は満面の笑みで応えた。
「わかってます」

「わかってます…」
私は先生を安心させようと、小さくうなずいた。
「櫻田くんっ…!」




 何であそこで自分から目を閉じたかなあ、と私は後になって赤面した。それこそ前世で染み付いた業というか、『殿』の次になさりたいことを本能が読みとり、つい先回りしてしまったのだ。今生での私の初キスは、やはり先生に持っていかれた。

 かくして、夜の帳が降りた稲村が崎。

 何となく去りがたくて、近くのカフェレストランで軽い夕食を取り、私と先生は8時頃ようやく帰路についた。高速を走りながら、先生が時々ハンドルから片手を離して、私の手を握ろうとするのが困りものだったが、大した渋滞にも巻き込まれず、11時前に車は無事南千住に着いた。

 ばあちゃんはともかく、この時間に父さんに挨拶させるのはいかがなものかと、私は先生に戸口までは送ってもらわなかった。うちの棟の前で車を下り、改めて今日のお礼を言った。

 先生はすかさずお休みのキスで応え、
「後日、改めてご挨拶にうかがうから」
と、蕩け切った笑みとわかったようなわからんような台詞を残して、団地を後にした。




 スーツにネクタイ、菓子折り片手に先生が櫻田家を訪れ、父さん、ばあちゃんの前で『右近さんを私にください』とぶちかますのは、二週間後の日曜日のことだった。


おわり



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