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「櫻田くん、寒いからもういいよ。はやくお帰り」
「あ、でも、車までお送りします」
厚手のセーターにくるまっているが、コートも着ずに表に出てはいけない。また熱が出たりしては大変だ。
「ほんとにここでいいよ」
団地の階段を降り切ったところで、私はきっぱり言った。
郵便受けの横で立ち止まり、
「じゃあ明日、がんばりなさい」
「はい…御心配をおかけしました」
透き通るような笑みを浮かべ、右近が素直にうなずいた。
「そうそう。さっき渡したオレンジ、絞ってジュースにするといいよ。ビタミンCたっぷりだからね」
「え、なんかもったいないけど…」
右近は何やら恐縮していたが、
「2、3個絞って一気に飲んじゃいなさい」
私が軽い口調で笑うと、右近もつり込まれて微笑んだ。
なんという笑顔だろう…。
ほころび始めた桜の花のような、清楚で愛らしく、どこか艶もあって…。
私は惚けたように右近を見つめていた。胸の中に抱き込んで、髪に頬ずりし、右近のしなやかな身体を感じたい一一。
ざっくりしたグレーのセーターからのぞく、項の白さが眩しい。私はまだその手触りを知らない。
(だめだ…。あともう少しじゃないか)
身の内から高まる情動に、ともすれば押しながされそうになるのを懸命に堪えた。
私は右近からさりげなく目を逸らし、
「じゃ」
素っ気無いくらい短い挨拶に、右近の口が物言いたげに動いた。
目を合わせてしまえば、自分の忍耐が呆気無く切れそうな気がして、私は足早に車へと向かった。さっきの子供らがまだ車の周りに群がっている。
(くそガキめ! 十円玉でき〜っとかやってたら、ただじゃおかないからな!)
右近への欲求不満をこんな形ですり替えながら、私は大股で車に歩み寄った。
「ほら、どいたどいたっ」
子供らをしっしっと追い払い、ロックを外してドアを開けると、
「先生!」
右近が郵便受けの横から大声で呼んだ。
ドアに手をかけたまま肩ごしに振り返ってみれば、
「今日はわざわざありがとうございました」
右近がぺこりと一礼した。
満面の笑みを浮かべ、私に向かって手を振っている。
たったそれだけのことに一一。
私の胸はみっともないほどに甘く疼いた。
右近の立つ場所と車の距離は10メートルほど。その距離に私は救われた。
これでも一応、右近の指導教員なのだ。
手を振ってもらえただけで、道化のように狂喜乱舞する心の裡をのぞかれたくはない。
私は軽く手を挙げて右近に応えると、車に乗り込み、ほとんど逃げるような気持でアクセルを踏んだ。
ステアリングを握りながら、バックミラーの中で米粒のようになっていく右近を、私は未練がましく見つめていた。
右近恋しさで、情けないほどに心が揺れていた。
*
このまま運転していては絶対に事故ると思った。
私は団地を出てしばらく行ったところに手近な公園を見つけ、とりあえず車を止めた。
「ふう…」
漏れる溜息。
エンジンを切り、少しウインドウを開けて、冷たい空気を車内に入れた。
*
右近が四年にあがる前。かねてから計画していた通り、私は勉強好きの右近を院へ誘った。だが右近は自分の進路について、すでにしっかりした青写真を持っていた。
国家公務員採用 I 種試験を受けるという。
私は後悔した。もっと早くに進路について右近と話しておくべきだった。右近は外務省入省を希望していたのだ。彼ほどの人材なら、充分受かる可能性はあるだろう。驚きはしなかったが、正直私は慌てた。
もし本当に外務省に入ってしまえば、どこに赴任させられるかわからない。おまけに、入省後まもなく新人は二、三年の語学研修で海外へやられるのだから、私と『おつき合い』する時間などなくなってしまうではないか?
こちらはこちらで、右近の卒業後、色々とプランがあったのだ。
私がまずいことになったと焦っている間にも、右近は五月の第一次試験を皮きりに二次試験も突破し、六月の最終試験に残った。
右近の外務省入省は目前だったが…。天は私に味方した。
その年は採用数も少ないところへ旧帝大法学部卒の受験者が多く、最終選考で右近は涙を飲んだ。私の勝手な推測では、学閥ではねられたような気もするし、もしかすると、面接で過激な意見を吐いてしくじったのかもしれない。
民間企業を回るには出遅れた感があり、頭を抱える右近に私は再度院にこないかとすすめた。
英語も堪能なことだし、何も日本の官庁だけが君の活躍の舞台ではない、マスターを取った後、国際機関への就職なぞどうだ、国連だってIMF(国際通貨基金)だってある!
とかなんとか調子のいいことを並べ、右近を説得しようとした。
右近自身、民間への就職はあまり気乗りがしなかったようで、今年、外務省がぽしゃった以上、大学院への誘いは魅力的だったようだ。ただ、学費のことを心配していた。学部も奨学金を貰って通っていたため、早く社会人にならねばという意識が強かったらしい。
父親とて国税局の立派な公務員で、安定した給料をもらっているのだが、右近は親に「余計な負担」をかけたくないという。親のすねは骨までしゃぶりつくす、今どきの若者とは思えない心理である。
そんなことなら任せておきなさい、と私は胸を叩いた。うちの大学院には奨学金だけではなく給付金というもらいっぱなしの制度もある。ここは学長の弱味を握って脅してでも給付金をせしめてやろうと思ったが、よく考えれば、『本学、十年にひとりの秀才』と言われた右近の成績だ。打診すると、あっけないほどすんなり許可がでた。
学費の心配がなくなった右近は、七月に滑り込みで大学院入試の出願をした。
右近の父親は外務省なんて高望みをするからだ。来年東京都庁でも受ければどうだと、合格してからも院への進学は基本的に反対だったが、私も彼の実家へ手みやげ片手に日参して説得。渋々ながら承諾させた。
そして右近は卒論に専念し、翌春、優秀な成績で卒業。
右近は院生として私の研究室で新たな生活を始めた。これでまた二年間一緒にいられる。夢のような毎日が始まった。他の院生もいることはいるが、右近の学年からはできるだけ数をとらないようにして…右近の指導に徹しようと思った。(そんなアホな…)
修士課程二年目。本の虫の右近は、日がな私の研究室に入り浸っていた。右近の研究テーマに関連する海外の文献を、次から次へと研究室に揃え、右近がよそへ調べものに行かないようにした。時折デスクでうたたねする背中に、ブランケットをかけてやる幸せ…。
美しい飼い猫を飼っているような気分だった。膝に抱き上げて、ブラシで毛ぐらい梳いてやりたかったが…。
私は自分に強い戒めを課していた。
半ば強引に院に誘った以上、せめて修士課程終了までは告白すまい。右近が心乱されることなく勉学に集中できるようにと。師弟の枠をこえるまいと固く決心していた。肩を叩いたことくらいはあるが、私は右近に指一本触れたことがなかった。
そりゃあ、私とて立派な成人男子であるからにして、身体の欲求は抑え難く、たまによそでつまみ食いをしたものの、右近に対しては涙ぐましいほどの誠実さで接してきたのだ。
待つのはもう限界だった。そろそろ『交際』を始めてもらわねば。
右近を入学式で見初めた日から、はや六年が過ぎていた
*
「さて…いつ切り出そうか」
私は倒したシートに身を沈め、ふたたび特大の溜息をついた。
熱が下がり、右近は思ったよりもずっと元気そうだった。もはや明日の心配をする必要はないだろう。論文の出来からして、修士課程も優秀な成績で終了するのは間違いない。
次なる課題は…。試されるのは右近ではなく私のほうだった。
いつ、どんな風に、右近に好きだといおう?
私と右近の付き合いはあしかけ六年に及ぶ。だが、相手は私を教官としてしか見ていない。
残念ながら、恋愛に疎そうな右近が、私の恋心に気付いているとは思えなかった。好意くらいは持ってくれてると思いたいが…。同性、しかも先生と呼んできた人間に告白されるのは、やはりショックに違いない。
どうしたら、恋人としての一歩を踏み出せるだろう?
どうしたら、君の心を傷つけることなく、私を受け入れてもらえるだろうか?
「…なんかいい知恵ない?」
私は助手席に置いてあるテディベアに問いかけていた。
研究室のデスクにいるのが右近一号、こいつが右近二号だ。
子供の頃からくまさん好きだった私だが、一年程前、おりこうそうなテディベアを店で見かけ、すっかり気にいって買ってしまった。以来、大きさもちょうどいいので、なんとなく車の助手席に置いてある。
いつの日か、右近二号の替わりに本物の右近が、ここを指定席にしてくれることを祈って。
じっとつぶらな瞳をのぞき込めば、賢しげに私に語りかけてくる。
『うふふ。六年も側で彼を見てて、まだ相手の心がワカラナイ?』
「うーん、生徒としてはわかったつもりだけど…、恋人として接するのはまた別だよ」
『そうかな?』
「同じだっていうのか?」
『ナニゴトモ誠心誠意ダヨ』
そう言って笑ったきり、ベアは私との会話を止めた。
私はベアの頭をぽんぽんと叩き、運転席のシートを起こした。
ウインドウを閉めようとしたとき、ふと微かな芳香が鼻腔をくすぐった。
車を止めた時には気付かなかったが、改めてウインドウを降ろして公園内を見れば、すぐそばに白梅の木があった。
まだ咲き始めの白梅は、固い蕾をたくさん残しながらも、ゆるく開いた花弁から清楚な香りを放っていた。
私は胸いっぱい梅の香を吸い込むと、窓はそのままに、キーを回してエンジンをかけた。ステアリングを握り直しアクセルを踏むと、車は滑るように発進した。
どこかで気の早い鶯が『ほーほけっ…』と鳴いた。
凛とした冬の空気の中、春の気配がわずかに漂い始めていた。
おわり
あとがき
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