第1回
絹のてざわり


by 戸田采女

「下弦の月」十八の巻、「乱蝶」を撮り終えた時期ですね…。

 青々と澄み渡る空。揺れる薄の穂。
京都・采女撮影所は今日も晴れだった。

 茶屋でのシーンを取り終えた右近は、後輩の仙之丞とともに戸外で幕の内弁当を食べていた。
「右近さん、お疲れさまでした。でも、よかったですね。縄のシーン却下になって」
右近は思わず卵焼きを取り落としそうになった。
「…その話はなしだ、仙之丞。まったく…冗談じゃない。緊縛○辱シーンなんて契約になかったぞ!」
「ですよねえ…監督が乗り気になったらどうしようかと思ったけど」
「…あの人なら、やりかねないとは思ったよ」
右近は箸をとめて思わず身震いした。

 「…右近ちゃん、おつかれ」
野太いバリトンに振り返ってみれば、
「なあに。こんなシケた弁当たべてんの?」
大物俳優、内藤帯刀が親し気に右近の隣に腰を降ろした。
一応大先輩である。右近はていねいに頭を下げ、
「内藤さん、お疲れさまで…」
右近が言い終わらぬうちに、内藤は逞しい腕で右近の肩を引き寄せた。
「今夜…どお? 祇園にいい店があるんだけど」
「え、お食事ならこないだ寿司屋につれていってもらったばかりですし…」
「…あら、遠慮しなくていいわよ」
「で、でも…」
弁当どころではなくなった右近は、なんとか帯刀の腕から逃れようと、仙之丞の目で助けを求めた。
仙之丞は面白そうに目を輝かせると、
「やだなあ、帯刀さんたら。もしかして、さっきの茶屋のシーンの続きを、とか思ってません?」
「そうよ」
あっさりと肯定され、空いた口が塞がらないふたりを前に、
「絹のような手触りが忘れられなくて…」
大物俳優がぽっと頬を染めた。
「右近ちゃんが嶺次郎にけりを入れなかったら、もう少し長く続くはずだったのよ」
帯刀はさも不本意そうにぼやいた。

「す…すみません」

 あそこで右近が内藤嶺次郎に膝蹴りをかます、というのは台本にはなかったのだ。だが監督はカメラを回し続け、アドリブで通してしまった。台本通りに戻ったのは右近が襖の前で鬢を直すシーンからだった。

 「まあ、今日のところは逃がしてあげましょう。稽古ならいつでもつけてあげるわよ。右近ちゃんももう少し勉強しないと、いつまでも「まぐろ」じゃやっていけないわよ、この世界」
「ま、まぐろ…」
言われてみれば、過去三度、かなり濃厚なシーンも撮っているが、いつも「攻め」まかせで自発的に動くような場面はあまりなかった。
「…ほら、あの子なんていったかしら。新人の…?」
「……三郎…くんのことですか?」
右近の眉根がイヤンな具合に寄せられた。
「あの子は…なかなか研究熱心ね」
「は…」
「次の撮りに向けて、楽屋で練習してるわよ」
「だ、誰と…」
「さあ…」


 その午後、右近が涙目で三郎を睨み付けていたのは言うまでもない。
 

おわり




書庫目次 | 滑稽本書庫・目次


招き猫ちゃんは「福を招くい