第一回



by 戸田采女


 明和四年秋。

 右近様が勘定吟味役を拝命し、国許に戻ってからはや二年半。府中藩の綾姫様を御正室に迎え、惣一郎様もいよいよ高山藩の世嗣として自覚を深める今日この頃…。

 と、いけば世の中何の憂いもありませぬが、何せ、相手はあの惣一郎様にござります。

 右近様が江戸をお発ちになってしばらくは、ほとんど生きた屍。その隙につけ込むかのように、ご婚儀の仕度は着々と整い、気付いたときには、上屋敷・奥の改築は終わり、奥方様を迎える準備万端。お牧の方様(惣一郎の母)付きのお年寄・藤江が、揉み手をしながら惣一郎様を中屋敷に迎えに参りました。

 惣一郎様はお母上に逆らうのも面倒だったのか、抵抗らしい抵抗もせず、すんなり上屋敷にお戻りになりました。奥方となられた綾姫さまとも無難に挨拶を交わし、晴れて、礼儀正しくもよそよそしい夫婦となられたわけです。

 以来、私ども側仕え一同も、中屋敷を引き払い、惣一郎様とともに上屋敷に戻ってまいりました。本来ならば、未だ家督していない惣一郎様は中屋敷で新たに一家を構えるのが筋なのですが、母・お牧の方様たっての願いで、ご夫婦ともども上屋敷に住われることになりました。

 ですが惣一郎様はほとんど中奥でお過ごしになり、綾姫様は奥で暮らしておられます。お国を離れ、嫁いだ先で「濃い」姑様に仕えるなど…ご苦労が思いやられます。(合掌)

 お気の毒とは思いますが、惣一郎様は関心の薄いものには冷淡なところがあり、綾姫様のお心など思いやる気もないのでしょう。このあたり、やはり苦労知らずの若殿の駄目なところと申しましょうか…。ううっ。これはもう考えても詮無きことと諦めまする。

 私が思いますに、惣一郎様がすんなりと中屋敷をひきあげた理由は、
あそこに綾姫様を住わせたくなかったのでしょう。

 愛する右近様との思い出がつまった中屋敷、そのままにしておきたいと言うのです。もはや三十路に手が届こうという男子の乙女炸裂ぶり…。傍で見ていても、何やら胸が詰まります。

 それでも徐々に立ち直りを見せ、去年あたりからは絵の制作にも熱が入って参りました。今年は近江屋さんとの『野心的な企画』もあり、久々に精気あふれる惣一郎様のお姿に、側仕え一同、ほっと胸をなで下ろした次第でござります。

 精緻を極めた四十八枚の絵もほぼ完成し、年末には原画即売会も予定されております。これから多忙になることが予想されますのに、重陽の節句と前後して、惣一郎様はなぜか御気分がすぐれぬ様子。

 やはり、あのような絵を四十八枚も描きながら、実物に会えない切なさに悶々となさっているようにござります。

 本日も朝からいかにも退屈したご様子で、脇息に凭れながら宙を見つめては溜め息をつく。扇を閉じたり開いたり、意味もなく弄んでおいでです。

 斯様に退屈なさているなら、両国の見せ物小屋にでもおつれしようかと、やぶれかぶれなことを考えておりますと、
「仙之丞…。何か、打つ手はないものか?」
「は?」
意味不明の唐突な問いかけに私は首を傾げました。
「国許で何が起こっているか…、岩田(留守居役)や武村(江戸家老)は存じておろうに、私には何一つ話してくれぬのだ」

国許の情勢というより、右近様の近況がお知りになりたいのでしょう。なれど、吟味役として、おそらくは藩の機密に関わっておられるはず。調査の進み具合など、おいそれと洩れ聞こえてくるわけもありませぬ。
「去年は洪水、今年は凶作であわや飢饉かと案じられましたが、島崎屋とかいう海商のおかげで、何とか切り抜けられそうだと聞き及びまする」
とりあえず無難な答えをいたしますと、
「左様な話くらい、身供とて存じておるわ…」
惣一郎様は少しむっとしたように語気を強められました。

 私とて、敬愛する右近様が無事お役目を終え、江戸にお戻りになる日を待ちのぞんでいるのです。右近様に会いたいのは惣一郎様だけではござりませぬ。不肖この平岡仙之丞、右近様の部下として、一生ついていく覚悟を決めておりまする。

 「そなたも寂しいか」
「…はい」
私は正直に頷いた。
「仙之丞…、近頃、よく夢を見るのじゃ」
「…右近様の夢にござりますか?」
「うむ…。あれが泣いておる」
「右近様が…?」
「静に、声もたてずに泣いておる。いかがしたと尋ねても、口をつぐんで頑として語らぬ」

「若殿…」

 実は惣一郎様には内密に、私は右近様と書状のやり取りをして参りました。なれど、今年の春頃から便りが途絶え、御用繁多ゆえと思いつつも、心の底では不安が頭をもたげておりました。

 「右近の近況を知る手立てはないかのう?」

 ここはほれ、例の平賀○内先生の「銀の切り餅」で…、と思わず口が滑りかけましたが、本編で左様なものは存在いたしませぬ。

 ああ弱りました…。

 カリスマ小姓といわれるこの私にも、妙案が浮かびませぬ…。

 いかがしたものでござりましょう…。


おわり






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