
| by 戸田采女 |
世はなべて事もなし。 ともかく一日も早く隠居する。何が何でも隠居じゃ。窮屈な屋敷を出て、近江屋(枕絵の版元)に申し付けて小体な寮でも借りよう。右近は市井の学者、余はその亭主?で絵師。危な絵をばんばん描いて稼ぎ、右近に古今東西の貴重な書物を買い漁ってやる。おお、これこそ包容攻めのあるべき姿。 そうじゃなあ…タイトルは『惣一郎夢日記』! ふむ、何やら似たような語感のTV時代劇があったが…まあよい。名君は細かいことにこだわらぬもの。 さてさて、奥の間には三段重ねの絹布団が万年床状態。 もちろん右近は毎朝一度片付けるのだが、私が昼寝と称してすぐに出してしまうのだ。 ああこの自堕落さが絵師らしゅうてたまらぬ。 着流し姿で布団の上に寝転び、わざと昼間から右近を誘ってみる。 右近はいつもの通り、書見台の前でぴーんと背筋伸ばして座っている。 毎日毎日、よくも飽きぬものじゃ。 「右近、書にかじりつくのはそれくらいにして、早うこちらへ参らぬか」 「お戯れを。まだ陽が高うこざります」 うむ。 ぴしりと退けられても、それは毎度のこと。 余も今さら凹んだりはせぬ。 「かたいことを申すな。もはや藩主と留守居役ではないのだ。好きなときに睦み合うて何が悪い」 「時と場所をわきまえぬ交わりは、犬畜生と同じにござります」 「ぐっ‥。余は犬並みか…」 「はい、それも極め付けの駄犬」 右近は三十過ぎても美しい顔でくすくす笑い、 「そんなにお暇なら茶々丸相手に三味線の稽古でもなされませ」 と、軽く私をあしらう。 (茶々丸とは我らの飼い猫じゃ) 市井の暮らしでも、きっと斯様な毎日に違いない。が、それもまた楽し…じゅるり。 右近は習い子の手前、品行方正なふりをしておるが、ひとたび閨に引き摺りこんでしまえばこちらのもの。 人目が気になる藩邸とは違い、町家では右近も誰憚ることなく、声も上げ放題じゃ…もごもご。 碁盤攻めか淀の水車、今宵はどんな趣向で参ろうか…。 そうじゃなあ、一度『お店ものごっこ』もしてみたい。 美しく真面目な手代を蔵に連れ込み、無体を働く骨董屋の隠居…おお、萌えるのう。 白髪のヅラとちゃんちゃんこも用意してじゃな。 手代が真面目に棚の品を調べているところ、後ろから羽交い締めにするのじゃ。 まずは懐に手を入れて、乳首を嬲る。 『お、大旦那様、何をなさいますっ!』 手代の手から大福帳がばさりと落ちた。 すかさず着物の裾を割り、前を握り込んでしまえばこちらのもの。 町人は袴もつけておれらぬゆえ楽勝じゃ。 『よいではないか。見事儂を喜ばせたら、おまえに暖簾わけをしてやろう』 ほれほれいかがじゃ、とか言いながら、やわやわと袋を揉んでやる。 『あっ…ああ、そのような浅ましいこと、て、てまえは…っ』 『ん? てまえは何じゃ? どれ、ずいぶんと息が上がってきたようだが?』 『うぅ…あん、お、おおだんな…さまぁ…』 『おおおお、かわいいのう。ほれ、じっくり可愛がってやるゆえ、そこの長持の上に…』 うっとりと宙を見つめ涎を垂らさんばかりの殿に、私は溜息を洩らした。 (ああ、またもや、右近さまをおかずにあんなことや、こんなことや…) 妙に生々しく共感できる自分も自分だが。 殿はすっかり対局のことなど忘れてしまったらしい。 碁盤に身を乗り出して嬉しげな声をあげた。 「いかがじゃ、仙之丞! 『青嵐』が終わった後はこれに決まりじゃな」 「なにをたわけたことを。『青嵐』の後さらに一作、本編は続きますぞ。それで今度こそ打止めのようです」 「なに?! 『青嵐』の最後はすっかり終わりの雰囲気じゃったが…」 「甘い!」 私は碁盤の上に勢い良く両手をついた。 白黒の碁石があたりに音をたてて飛び散った。 「大坂へとんずらした内藤帯刀、弥一郎と彩之介のその後を知りたい読者様もおられますぞ!」 「なれどきゃつらは脇役であろう。どうでもよいではないか、内藤のその後なぞ…」 「いいえ、内藤様だけではござりませぬ」 「殿にはまだまだ大事なお役目が」 「はて…」 「胸に手をあてて考えてご覧なされ」 殿は言われた通り、思案顔で胸に手をあてた。 「ううむ…。裏でひと暴れするくらいしか思いつかぬ」 「何を愚にもつかぬことを…」 私は思わず眉を寄せた。 「殿。宝寿院様、いえ、家中待望のお世継ぎはいかがいたします!?」 案の定、殿はわざとらしく頭を抱え、碁盤の上に突っ伏した。 「うううっ…仙之丞! 何やら頭が…卒中やもしれぬ。早う医師を呼べっ」 「下手な芝居はおやめなされ。殿、もはや崖っぷち。逃れられませぬぞ!」 「仙之丞ぉ〜〜。たのむ、そなたが替わりに作ってくれ!」 涙目で縋られても、こればかりは致し方ない。 「愚かなことを。以前から申し上げておりますでしょう? お世継ぎ誕生がなくば、右近様が方々からねちねちと苛められるのです」 「なに…?」 「…現に宝寿院様からは幾度かにわたって、奥へ呼ばれてお叱りを受けた御様子」 「は、母上が右近を?」 やはりお母上が恐いのか、殿はぶるりと身を震わせた。 「ともかく、お世継ぎを作らぬうちは隠居などありえませぬぞ」 「あうう…」 あたりまえだ。 藩主の第一の責務は血を絶やさぬこと。 それを放棄して右近さまとしっぽり町家で暮らそうなど…。 羨ましすぎて鼻血が出そうだ。 そのような役目ならいくらでも替わって差し上げるのになあ…。 と、こちらも思わず殿に習って妄想の自家発電を始めた。 私だって右近さまとの長屋暮らしはあこがれだ。 いっそ海に近い、明るい町がよいなあ。 右近さまが書を読んだり書き物をなさる間、晩のおかずを暢達に釣りに出かけるのもいい。 大切な大切な右近さま。 掃除洗濯、家事は一切私がやろう。右近さまは料理もお上手だが、手の荒れるような水仕事はさせるまい。薪割りも水汲みも、右近さまと暮らせるなら力仕事だって喜んでやるぞ。 たとえばこんなある日の午後。 『右近さま! 今日は良いお天気でしたから、布団がゆっくり干せました』 『うむ。よかったな』 『たっぷりとお日さまを浴びましたゆえ…』 『うむ』 『ふかふかにござりますっ!』 『さようか』 『ふかふかにござりますゆえ‥』 『…なんじゃ』 『早う、お試しくださりませ!』 『まだ昼間だが?』 『…ちょっとだけでも、お試しくださりませ』 私は俯いてぼそっと呟いた。 右近様は『そういうことか』と苦笑され、ふわりと目元を和ませた。書を閉じて、すっと立ち上がり襖の向こうへ消える。ほどなく、するすると帯を解く音がした。右近様が小袖を脱ぎ捨て布団に横たわる気配を、私は全身で追っていた。思わず鼻息も荒くなる。 右近様はほっと溜息を洩らし、 『おお…まさしくふかふかじゃ』 うっとりと呟いた。 『お、お気に召しましたかっ?!』 私は思わず前屈みになって、よろよろと襖のほうへいざってゆく。 すると唐紙の向こうから、しっとりと誘うような声が一一。 『仙之丞、そなたもはよう…』 は、はいただいまっ! 『こちらへ参らぬか…』 ではお言葉に甘えて、頂戴つかまつりますう〜! 「なれど綾は腹の底が知れぬのが不気味でな…。とても床を共にする気にはなれぬ」 妄想も佳境に入ったところで殿のぼやきに邪魔をされた。 夜具の上、しどけない姿で私を誘う右近様のお姿が、しゃぼん玉のように消え去った。 「殿…いま何と?」 強烈にとげとげしい声が出た。 私は内心歯がみしながら殿と会話を続けた。 しかし些細なことにこだわら名君な殿は、ま〜たりと話し掛けてくる。 「綾ではその気になれぬと申したのだ」 「それはご正室様に対し、あまりなお言葉では…」 「どうしてもと言うなら、いっそ町家から奉公にあがっておる女中が気楽でよい。そうじゃな…、三郎に似た素直でかわゆい女子なら、余とて考えぬこともない。和子でもあげれば、お部屋様として家中でも大切にされるだろう」 「…なにゆえそこで三郎ぎみなのですか?」 「ものの例えじゃ。ともかく…腹に一物あるタイプは好かぬ」 右近さまも十分腹に一物お持ちでしたが…。 私は殿の御都合主義にひたすら呆れた。それにこの学習能力のなさはどうだ。三郎ぎみに似た側室など、信輝公の二の舞いではないか。綾姫様を第二の宝寿院様にするおつもりか。おおこわっ。 右近さまのみならず、我ら近習も前途多難である。 私は深い溜息を洩らしながら、 「わかりました。心掛けておきましょう…」 一の側近として、大人な対応でその場をおさめた。 とにもかくにも、『惣一郎夢日記』など、お世継ぎ誕生まで始まるわけもなし。 |
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