つめのかたち

 太陽が西へと傾きかけ、微かに夕方の気配も漂いかけている頃。
 十二宮の金牛宮と双児宮の中間辺り、石段の脇にある硬い地面と砂できた小さな空き地にミロはしゃがみこんで、近くで拾った木の枝で夢中で絵を描いていた。
 地面からゴロゴロと顔を覗かせる石が邪魔で、小石は穿りだして遠くへ放り投げ、ちょっとやそっとでは地面から取り出せない大きな石は諦めて無視を決め込んで、ミロはガリガリと枝先で地面に溝を掘り込んでいく。
 時々ちょっと立ち上がって絵の出来を確かめて、一人納得してはまたしゃがみ込む。
 今日1日の修行を終えたミロは、双児宮の手前でサガを待ちながら、地面へ一生懸命に絵を描いていた。
 朝から聖域の外へと出ているサガの帰りを待っている間の手持ち無沙汰を解消するために始めた遊びだったはずが、物事に対する集中力が人一倍高いミロはすっかり熱中してしまっていた。
 ずっと待っていたはずのサガが、もう長いことミロの背後から絵を覗き込んでいることにも気付いていないほどに。

「何を描いているんだい、ミロ?」
「! サガ!?」  
 突然聞こえた声にミロが慌てて後ろを振り返る。
 気付かないうちに現れていたサガに心底驚いたミロだったが、サガがいつもの穏やかな笑みを浮かべているのを見てたちまち満面の笑顔になる。
「みんなをかいてたんだ!」  
 勢いよく立ち上がりサガの隣に並ぶと、先ほどまで一心不乱に描いていた大作を指差す。  
 そこには沢山の顔が描かれていた。皆こちらを向いて口を開けて笑っている。
「こっちがアイオロスとアイオリアで、これがアフロディーテ!そんでカミュとサガとおれ!」  
 ひとつひとつの顔を指しながら名前を挙げるミロだが、地面に描かれた人々は髪の長さと顔の大きさが多少違う程度で、ほとんど区別はつかない。
 だが「サガ」と言われた人物の絵は他の誰よりも大きく、オマケに体まで付いている。  
 一番力を入れて描いたのだろう「サガ」の隣には顔だけの「ミロ」が、誰よりも大きな口で笑いながら「サガ」にくっ付くように浮かんでいた。
「ああ、すごく上手に描けているね」  
 腰をかがめてミロと目線を合わせながら、サガは自分への好意が溢れた絵を賞賛する。  
 ミロはサガに褒められたことが嬉しくてたまらなくて、ますます笑顔になって興奮気味に喋りだす。
「でもまだ完成じゃないんだ! あっちにデスマスクもシュラもかくし、あと……」  
 ミロの語る大構想をうんうんと頷いて聞くサガだったが、ずいぶん傾いてきた太陽に照らされて、ミロの髪や頬を赤くなっているのを見て立ち上がる。
「それは楽しみだ。でも今日はもう終わりにしようか。おいでミロ、天蠍宮まで送ってあげよう」  
 そう言いながらサガは、ミロの手を引いて歩き出す。  
 サガに手を引かれるまま歩き出したミロは、もう片方の手に握ったままだった木の枝の存在に気付くと、それを先ほどまでの空き地へぽいと投げ込んだ。
「明日またかくんだ。できたら一番にサガに見せるよ」  
 ミロはぴょこぴょこと飛び跳ねるように石段を登りながら、サガの顔を覗き込む。  
 見上げてくるその瞳にサガが笑顔を返すと、ミロは嬉しそうにサガの手を一段と強く握った。

 ミロは、サガに手をつないでもらうことがとても好きだった。
 しっかりと自分の手を握ってくれるサガの手のひらの大きさと温度と、長く伸びた指の先に付く爪の形が好きだった。
 綺麗に切りそろえられた、形の良い白く輝く爪。
 手を繋いでもらう時や勉強を教えられる時、頭や頬をなでるために伸ばされる手の平と爪を見るたびに、ミロは何とも幸福な気分になる。
 長い石段を上りながら、ミロは自分の間近にあるサガの手をじっと眺めていた。
 うっとりとサガの手に見入っていると、突然サガが体の向きを変えて、ミロの腕の下に手を差し込んできた。
「うわ!?サガ!」
 あっと言う間に抱き上げられ、戸惑うミロの眼の前でサガが笑う。
「ぼんやり歩いていると、転んでしまうよ、ミロ」
 しっかり捕まっていなさい、とミロを抱きかかえたまま、サガが駆け足で石段を上り始める。
 弾むような足取りに揺らされながら、ミロの腕はしっかりとサガの首に回される。
 夕日で赤く染まる十二宮の石段に、ミロの歓声とサガの軽やかな笑い声が響いた。



 幼い頃の、懐かしい記憶を夢に見た理由は何だったのだろうか。
 もしかしたら、自分があの日の彼と同じ歳になったせいかも知れない。
 真夜中。自室のベッドから身を起こしたミロの目に入ってきたのは、ベッドの脇に置かれた時計の午前2時を少し過ぎた針だった。
 カチカチと規則正しく時を刻む時計を眺めて、ああ誕生日は終わったんだな、とミロは呟き、昨日になってしまった自分の15歳の誕生日を思い起こす。

 アフロディーテは見事な薔薇の花束と花の香りのする抱擁をくれたし、シュラはいつもの仏頂面を少しだけ緩ませて「おめでとう」の言葉ときれいな装丁本を一冊くれた。
 今は遠くシベリアの地に居るカミュからは、今日着くよう計算して送ったのだろう、バースデーカードが届けられた。
 アイオリアは誰よりも早く天蠍宮へ訪れて祝福し、1日ミロの鍛錬とわがままに付き合ってくれた。
 アイオリアと笑いながら鍛錬所から引き上げれば、デスマスクが巨蟹宮でミロの好物ばかりを作ってシュラとアフロディーテと一緒に待っていた。
 皆で乾杯して、食事を楽しむ。
 シュラはあまり良い顔をしなかったが、デスマスクの酒も少しだけ舐めさせて貰った。
 巨蟹宮から自宮へ戻ったのは、日付が変わる少し前だったと思う。
 アフロディーテの薔薇の香りを嗅ぎながら、ベッドに寝転んでシュラから貰った本をパラパラとめくっていたのだが、薄暗い寝室では読みにくい、細かい字の羅列を目で追ううちに、ウトウトと眠りに落ちてしまった。
 
 そしてうたた寝から覚めたミロは、誕生日が終わったことに気付いたのだった。
 聖域にいる仲間や、遠い地の親友に祝ってもらう誕生日はくすぐったくも暖かかった。
 だが、本当に欲しかった、たった一人の人からの「おめでとう」の言葉はとうとう聞けず、誕生日は終わってしまった。
 期待して、待ち続けて。そうして日付が変わって落胆する誕生日も、これで8回目になった。
 鼻と咽喉の奥が痛い。夢を見ながら泣いていたのかも知れないが、頬に涙の流れた跡はなかった。
 すん、と一つ鼻をすすり上げて、ミロはベッドから起き上がると、明かりも点けずに寒い廊下を歩き、キッチンへ入る。
 冷蔵庫から瓶に入ったミネラルウォーターと取り出し、そのまま口に運んで飲んだとき、窓の外に月が見えた。
 白く光る、右端が少しだけ欠けた月のかたち。
 滑らかに欠けたその端は、綺麗に整えられていたサガの爪の先に良く似ていた。
 ミロは月の除く窓を開け放ち、そこから外へと転がり出る。
 黒い夜空に浮かぶ月は、明るく輝いていた。
 幼い日に憧れたあの人のあの手の温もりを、さっき夢でまた見とれていたあの手と爪の形をミロはまた思い出す。
 たまらず月に向かって手を伸すが、当然掴み取ることなどできはしない。
 目の前に浮かぶ、サガの爪のかたちに良く似た月は眺めることしかできない。
 それはもう思い出すことでしか近づくことのできない、サガの存在そのもののように思えた。
「会いたいよ…会いたいよ、サガぁ」
 夜空に浮かぶ月と、それに伸びた右手をとらえていた視界がにじんでぼやける。
 夢を見ていたときは流れなかった涙が、今になってミロの頬をつたった。



「誕生日おめでとう、ミロ。遅れてすまない」
「あ…ありがとう。サガ…」
 聖戦がアテナの勝利で幕を閉じて数ヵ月後。
 戦いで散った命を神の奇跡で取り戻してから迎える、初めてのミロの誕生日。
 ずっと待っていたあの人は、11月8日ももう終わりそうな時刻になって、やっとミロの前に現れた。
「本当はもっと早くにお祝いを言いたかったんだが、色々と立て込んで…こんな時間になってしまった」
 教皇補佐のローブを纏ったサガが、申し訳なさそうな顔をしながらミロにきれいに包装されたプレゼントを渡す。
 それを受け取りながら、ミロは胸を撫で下ろした。
 今日一日、朝から待って待って待ち続けて、まさか今年もサガから「おめでとう」を言ってもらえないのかと落ち込みかけていたのだ。
「寄っていくだろ?まだ皆もいるんだ」
 プレゼントを抱えながら、ミロは自宮の奥へと顔を向ける。
 天蠍宮の奥では、ミロの誕生日パーティーにかこつけて集まった面々が酒盛りを楽しんでいた。
「ああ、いや…実はまだ終わらせたい仕事が残っていてね。すぐ戻ろうと思ってるんだ」
 すまないね、それじゃあ、と言って、サガはミロに背を向けて歩き出してしまう。
 ミロは立ち去るサガの後姿を見て、それからかすかに笑い声が聞こえて来る天蠍宮の奥へと視線を向ける。
「…サガ! 送るよ!」
 少しの逡巡のあと、ミロはサガを追った。

 天蠍宮を出て、教皇宮までのわずかな道のりを並んで歩く。
 夜は大分更けているが、月が思いのほか明るく石段を照らしている。
「抜けて来てしまって、良かったのかい?」
「ちょっとくらい良いさ。俺がいなくても楽しんでるみたいだったし」
 祝いの席の主役が消えたことは、きっともう皆も気付いているだろう。
 戻ったときに何か言われるかも知れないが、今は少しでも長くサガと一緒にいたかった。
 サガが突然ミロの前から姿を消してから、ミロは毎年サガからの「おめでとう」を待ち続けていたのだ。
 せめて、誕生日が終わるその瞬間までは一緒に。
 それくらいの我が儘は許して欲しいと、ミロは内心で呟いた。
「送ってくれるのは嬉しいけれどね。それは置いてくれば良かったのに」
 そう言ってサガは、自分からのプレゼントを抱えたまま歩くミロを見て苦笑する。
「急いでたから、持ってるの一瞬忘れたんだよ。ちょうどいいや、今開けて見てもいい?」
 サガに笑われて少し口を尖らせたミロだったが、すぐに思いついたようにプレゼントの包装を解きだす。
「歩きながらだなんてミロ、足元に…」
 注意してとサガが言う前に、ミロの足が止まった。
「うわ…!」
 サガからの贈り物を目の当たりにして、ミロの口からため息が零れる。
 それは、しっかりとした造りの木箱の中に入った、色鉛筆のセットだった。
 驚くほどの本数の色鉛筆が、美しいグラデーションを描きながらきちんと木箱に納まっている。
「ミロは昔から絵を描くのが好きだったろう?私は画材にはあまり詳しくないんだが、気に入ってもらえると嬉しいよ」
「ありがとうサガ!すごい、すごい嬉しい!」
 幼かった頃、地面に描いたあの絵をサガに褒められてから、ミロはすっかり絵を描く事が好きになっていた。
 思えばたわいも無い切っ掛けの上、「サガの褒め言葉を馬鹿正直に受け取って」と仲間達にはからかわれてはいるが、ミロにとって絵を描くという行為は良い気分転換になったし、今ではそれなりに腕も上がっている。
「これを使って、最初にサガのために何か描くよ」
 きれいに整列する色鉛筆の中から目についた一本を取り出して、月明かりに照らす。
「あ…」
 月を見上げたミロは、思わず声を上げた。
 柔らかく明るい光を注ぐ月は白く、右端が少しだけ欠けていた。
 数年前に見上げて涙をこぼしたあの月に、サガの爪の形のようだと思ったあの月と同じだった。
「サガ、手を出してもらえないか?」
 手にした色鉛筆を納め、木箱を丁寧に閉めて、ミロはサガの手を求める。
 突然のミロの申し出に首を傾げるサガだったが、それほど躊躇することなく手を差し出した。
 サガの右手を自分の手の平に乗せて、ミロは月明かりでそれを眺める。
 あの日見とれたサガの手は、少年のものから大人の男の手に変わってはいたが、爪先のかたちはあの頃と変わらず綺麗に整っていた。
 サガの手のひらの大きさと温度、長い指、白く輝く爪。
 永いこと焦がれ続けた存在は、ついにミロの元へと戻ってきた。




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遅刻しすぎてます。
ミロ誕祝いのつもりで書いてたブツでしたが、もう蠍座期間も終了するっつーね。
イメージはパーキッツさんの名曲「つめのかたち」と「優しい日々」です。タイトルもまんま頂いてしまいました。

遅くなりすぎましたが、ミロお誕生日おめでとう!愛してる!


2007/11/20