目が覚めて最初に見たものは、左腕に巻かれた赤い紐だった。
「……なんだ?」
カノンは自身の左手首に巻かれたその赤い紐を眺めて、寝起きの頭で考える。
こんなモノを巻いて寝た記憶はない。
夜中に何者かが忍び込んで、腕に巻きつけていったのか?
まさか。就寝中でも侵入者が在れば、気づかないわけがない。
手首をぐるりと回って固く結ばれた紐は、カノンの手首を始まりにしてずっと長く延びていて、そのまま寝室のドアを下をくぐって、部屋の外へと向かっている。
何となく紐を引いて手繰り寄せてみるが、思いの外長いようで、端は現れなかった。
「馬鹿馬鹿しい」
何故手首に赤い紐が巻かれていたのか原因はわからないが、おとなしく巻かれたままで居る理由がない。
さっさと引きちぎろうと紐を掴んで力を込める。
聖闘士の力を持ってすれば、単なる紐などすぐに千切れるはずだ。
ところが、赤い紐はカノンの両手の間でピンと張り詰めただけで、どんなに力いっぱい引っ張ってもびくともしない。
何かがおかしい。
そう感じながら、今度は結び目を解こうと、右手の指先を伸ばす。
だが、結び目はがっちりと固められていて、カノンが片手だけで悪戦苦闘をしても解けることがなかった。
カノンの中で苛立ちが募るが、すぐに次の手段へ移る。
千切るのも解くのもダメならば、切ってしまえばいい。
カノンはベッドから飛び降りると、早足でリビングへと向かった。
「サガ、ハサミってどこにある?」
朝の挨拶もそこそこに、寝間着のままリビングスペースへと飛び込んできた弟を見て、サガは露骨に眉をしかめて見せた。
「鋏ならば、確かそこだ」
小物類がまとめて入れられているチェストを指させば、すぐにカノンはそちらへ向かい、鋏を手に取る。
開いた刃の間に紐を差し込み、思いっきり挟み込ませる。
が、鋏の小気味良い切断音は聞こえてこない。その上、鋏を握ったカノンの手元にも、切断した感触が伝わってこなかった。
刃の切れ味が落ちているのかと、試しに髪の毛を一筋手にして毛先を切ってみる。
シャキンと音を立てて、カノンの髪の毛が切断された。
切れ味に問題が無い事を確かめてもう一度鋏を動かすが、また手応えはなく、赤い紐にはほんの少しの傷も残っていなかった。
「なんだよこれ……!」
引きちぎることも切断することもできない紐の不気味さに、吐き捨てるように呻いた。
「カノン」
忌々しいと紐を掴んで、もう一度引き千切れないか試す。
そんな弟の一部始終を傍観していたサガが、カノンの名前を呼ぶ。
忘れかけていた兄の存在を思い出して、カノンがバッと背後に立つサガへと向き直った。
「そうだサガ、お前これが何かわかるか?」
朝起きたらこんなのが腕に巻かれていて困ってる、外し方もこんな事になった原因もわからん、とサガの目の前で赤い紐を引っ張って見せる。
サガはカノンの顔を見て、それからカノンの手首あたりを眺めて、首を傾げながら眉間の皺を深くした。
「……何も巻かれているようには見えないが」
サガには慈愛と憐れみが満ちた笑顔で、これ以上ないほどに気遣われた。
「疲れているのではないか? 今日は休日なのだから、ゆっくりしたほうが良い」
そんなサガの言葉を無視して、カノンは双児宮を後にする。
赤い紐は未だ手首に巻かれたままだ。
外出のために寝間着から日常着に着替えたが、赤い紐はどういう仕組みなのか、着替えにも全く影響を与えなかった。
本来ならば手首に紐が巻かれた状態で着替えれば、袖に紐が引っかかって脱ぐことはできないはずだ。
そう思いながら着替えたカノンだったが、寝間着はあっさりと脱ぐことができて、シャツの袖を通した瞬間には、紐はもう一度結び直されたかのように、何事もなくカノンの手首から延びていた。
どう考えても『紐が服をすり抜けた』としか言えなかった。
ここまでくれば、これが普通の紐なんかじゃないという事だけは解る。
何者かの攻撃や呪いの類なのか、それともサガの言うとおり疲れているだけなのか。
解答の糸口を求めて向かった先は天秤宮だった。
「ワシにも何も見えんなぁ」
これまでの出来事を説明して、ここにあります、とカノンが赤い紐を摘みあげて見せたが、天秤宮の守護者である童虎も、サガと同じように首を傾げたのだった。
「おぬしには、ここに紐が見えると」
童虎はそう言いながら、カノンが引く紐の辺りに手を伸ばす。
「おぬしにはどう見える?」
「老師の手が紐をすり抜けています」
「うーむ、あの話に似とるが……」
童虎が語ってくれたのは、中国の「赤い縄」の伝説だった。
縁結びの神が手繰るその見えない赤い縄は、人の足首に巻かれていて、端と端で運命の相手同士を結び付けている。
赤い縄はどんなことがあっても切れる事がなく、両端で繋がる二人は必ず出会い、結ばれるという。
「日本ではこれが、小指の赤い糸になるらしいのう」
カノンの腕に巻きついているのは縄でも糸でもないが、その類の物ではないかと童虎は結論付けた。
老師と呼び親しまれるほどに、長い人生を経験している童虎であれば、この奇妙な現象に解答をくれるのではと期待したカノンだったが、それは間違いではなかったようだ。
この紐を伝っていけば、運命の相手にたどり着く。
それを聞いてカノンの脳裏に浮かんだ相手はたった一人、ミロしかいなかった。
カノンの想いを受け入れ、同じくらいの愛を与えてくれる年下の恋人の笑顔を思い出すと、自然とカノンの表情も緩んでしまう。
「ま、相手はミロ以外にはおらぬよな」
その顔はしっかり童虎に見られていた。
「いらん質問だろうが、紐はどっちに延びとるんじゃ?」
童虎の冷やかすような質問に少しだけ照れながら、カノンは自分がやって来た方向、天秤宮の入口側を指さす。
その方向を見て、童虎はおや? と言いたげな顔をした。
紐がミロへと繋がっているのならば、天秤宮を抜けた先にある天蠍宮へ向かっているはずでは?
その疑問を童虎が口にする前に、カノンが首を横に振る。
「ミロは外出していますので、天蠍宮は無人ですよ」
昨晩のミロとの約束を思い出して、カノンの口元にまた笑みが浮かぶ。
あるお気に入り作家の新刊が今日発売されるから、とミロは朝から聖域の外の書店へと出かけて行った。
前評判の高い新刊で売り切れもあり得ると予約までしているのに、早く読みたいから開店直前に書店へ行くと言い出したミロに、思わず笑ってしまったのは昨晩の事だった。
時間があればミロと一緒に過ごしたがるカノンだが、せっかくの休日に早起きして本屋に付き合いたいとは思えない。
外出は午後からでもいいだろう、日が高くなるまで二人でベッドの上に居たいと、甘える子供のようにミロの髪に頬を摺り寄せながら、大人の願いを口にする。
「いやだ」
ミロは腰に回されたカノンの腕を払うようなことはしなかったが、カノンの願いはいとも簡単に突っぱねた。
つれないミロの一言に不満を示すように、カノンはミロの肩に額を押しつける。
ミロ以外の人間の前や、聖衣に身を包んでいる時には絶対に見せない行動。
そんなカノンの後頭部を、ミロはぽんぽんと軽くたたく。
これではどちらが年上だかわからない。
「本さえ買えれば、すぐに帰ってきてもいいが」
機嫌を損ねそうなカノンに、一つの提案を持ちかける。
「たまには聖域の外で待ち合わせしないか」
普通のデートみたいに、とミロは恥ずかしそうに呟いた。
ミロからの誘いを二つ返事で受けて、名残惜しいながらもその晩は別れた。
翌日の「デート」に思いを馳せて、年甲斐もなくウキウキした気持ちで眠りについたのに、目覚めてみればおかしな紐が目の前にあって、カノンはかなり気分を害されたのだ。
だが、その奇妙な赤い紐がミロに続いているのだと想像した途端、紐への不快感は一気に吹き飛んだ。
「実際はどんなモノかは解らんがの。後で紐の先に何があったか、教えておくれ」
恋人を思って幸せそうに笑うカノンにつられるように、童虎も目を細めた。
数時間前の苛立ちや不安は、カノンの中できれいさっぱりと消えていた。
今はミロに逢いたい一心で、待ち合わせ場所を目指す。
聖域の結界の外に出て、少しだけ行った先にあるアテネ市内の広場。
休日の広場は人の往来が激しいが、カノンは器用に人混みをすり抜けながら、手首から延びる紐の先を追う。
赤い紐が真っ直ぐに伸びる方向へ視線を向けていけば、そこには想い人の姿があった。
豊かな金色の髪、整った顔立ちに、恵まれた体躯。
遠くからでも見間違える事のない、ミロの姿。
目当ての本は無事に買えたらしい、書店の紙袋を小脇に抱えている。
広場に備え付けられた街灯へ背を預けて、右手の指先へ視線を落として爪をいじっている。
爪をいじるのは手持無沙汰な時のミロの癖だ。
待ち合わせが退屈ならば楽しみにしていたその本でも読んでいればいいのに、そうしないのが本よりも自分を優先してくれているように思えて、カノンの胸中に嬉しい気持ちがこみ上げてくる。
自分勝手な妄想で幸せに浸っていると、カノンの視線に気づいたのかミロが顔を上げた。
そしてカノンの姿を見つけると、遠目でもわかる程にぱっと顔を輝かせる。
人通りや周囲の視線を気にしてなのか駆け寄ってくるような事はせず、ゆっくりとカノンの元へと距離を詰めていく。
カノンは自分の腕に巻きつく赤い紐へ視線を落とした。
この紐は、運命の相手に、つまりこちらへと歩いてくるミロへ繋がっているのだ。
天気は晴天。日差しも風も優しい。賑やかな街は平和そのもの。
目の前には愛しいミロがいて、二人の関係に運命のお墨付きがもらえるなんて、きっと今日は人生最良の一日だとカノンは確信して……そして、我が目を疑った。
紐はミロの足元を通って、ずっと向こうへ延びていた。
「カノン?」
愕然としたカノンに、ミロは不思議そうに笑いかける。
「ミロ……ちょっと手を見せてくれ」
「? ん」
ミロは素直に腕を差し出す。最初に右手、次に左手。
カノンは片方ずつ手に取り、服の袖もまくって調べるが、ミロの手首には赤い紐どころか、糸の一筋も巻かれていなかった。
カノンがミロの手を取っている間にも、自らの手首から延びた紐がちらちらと視界に入りこむ。
それは何度見ても、ミロの足元を素通りするだけで、繋がってはいなかった。
(ミロじゃ、ない……?)
その事実に愕然とする。
運命の相手は、ミロ以外は考えられない。考えたくも無い!
その手で与えられた贖罪の後、双子座の黄金聖闘士として認められたあの時から、ミロに心を奪われたのだ。
あの日からカノンの心は少しも変わっていない。ミロを想わない日はない。
ミロも想いを寄せてくれて、今も間違いなく愛し合っている自信がある。
それなのに、ミロは運命の相手ではないのだろうか。
みるみるうちに萎れていくカノンを目の前にして、手を取られたままのミロは少し戸惑い始めていた。
項垂れたカノンの顔と、カノンの視線が落ちる自分の手を交互に眺める。
それから、突然何かに気づいたようにミロは目を丸くした。
「なあカノン、お前何を手に付けてるんだ?」
ミロの指先が動いて、カノンの手首に巻かれた、赤い紐を撫でた。
その手の動きに驚いたカノンが、顔を上げる。
「それが、見えるのか? 触れるのか?」
「もちろん……て、うわ、これどこまで伸びてるんだ?」
自分の背後へとずっと続いているとんでもない長さの紐を目で追って、こんなのがあったなんて気づかなかった、なんで気付かなかったんだろうとミロが驚いている。
「急に見え出したってことなのか……?」
「見え出したって?」
二人で首を傾げてしまう。
まずは説明だろうと気づいたカノンが、広場の近くのカフェへミロを誘った。
適当な昼食を摂りながら、今朝から続いている赤い紐の出来事を説明する。
童虎から聞いた伝説について話し終わった辺りで、ミロの表情が変わった。
「この紐の先にいるのが、カノンの運命の相手……?」
カノンの手首まで手を伸ばして、紐をつつく。
じっと見つめたそれはカフェのテーブルの上を伝い落ちて、広場を突っ切ったずっと先まで続いている。
「ああ。そう期待して辿ってきたが……もう十分だ」
ミロに繋がっていないのならば、こんな物は何の価値もない。
「また外し方を考えないとな」
すっかりと興味を失くしてしまったカノンが盛大な溜息を吐いたが、その溜息を遮るようにミロが口を開いた。
「いいよ、せっかくだからもっと辿ろう」
そう言うなり、ミロは赤い紐を掴んで席を立つ。
「お、おい!」
慌てて呼び掛けるが、ミロはカノンの声に振り返ることもせず、紐の延びる先へさっさと歩いて行ってしまう。
カノンはその後を追うしかなかった。
ミロはカノンの一歩先を歩いて、紐を手繰り続けている。
背後のカノンからはその表情は窺えないが、真っ直ぐと、むしろ睨みつけるように紐を見つめているだろうと想像できた。
「なあ」
「ん?」
カノンがすぐ後ろから声をかけると、ミロは前を向いたまま小さく返事をする。
「怒ってるか?」
「……何に?」
「俺に、とか……」
ミロが肩をすくめた。
ほんの少しだけ歩調が緩んだ事に気づいて、カノンはすかさずミロの隣に並ぶ。
「なんでカノンに怒らなくちゃならない? 怒ってはない、けど納得はいかない」
その横顔を覗き込めば、不満気に口を尖らせていた。
「カノンの運命の相手が、俺じゃないのは納得できない。だから確かめないと気がすまない」
「確かに、それは俺も納得はできないが」
「だから確認しよう。カノン以外には見えなかった紐が、俺には見えたんだ。俺には紐の先を確認する権利があるってことなんじゃないか?」
確かに、ミロにだけ赤い紐が見えたことは、カノンも不思議だった。
紐を辿っていけば、その疑問の答えが見つかるかもしれない。
「とりあえず、行ける処まで行ってみるか」
諦めたように呟いたカノンの隣で、ミロも「うん」と頷いた。
二人で黙々と紐の延び続ける道を歩く。
観光客と地元の人々で混みあうアテネの中心部から離れ始めると、人通りはそれなりに少なくなる。細い路地に入り込めばなおさらだった。
そうしてすれ違う人が数えるほどになり始める頃から、紐の延びる先から誰かが歩いてくる度に、ミロが小さな緊張を見せるようになった。
僅かに歩みを緩めて、肩に力を入れて、歩いてくる人を見つめる。
そして紐がその人の手に結ばれていないのを確認して、安堵のため息をつく。
カノンよりも、紐の先の運命の相手を心配しているようだった。
そんな事を繰り返しながら、かなりの距離を歩いてきたように思う。
太陽も、今はずいぶん傾いてきていた。
カノンは夕日に染まり始めたミロの髪を見ていた。
ミロの髪と横顔、背中、肩、紐を掴む手を、動き続けている足を。
ミロの手の中にある紐の先は、もう見ていなかった。
紐の先にいる誰かなど見たくなかった、ミロだけを見ていたい。
「この先にカノンの運命の相手が居たとして、その人に逢ったら……カノンと俺の関係って、どうなっちゃうんだろうな」
ちょっと人目を引きそうな可愛らしい女性とすれ違い、今度も違ったと胸をなでおろした後に、ミロがぽろりと零した。
ミロはただの疑問を口にしただけ、と冷静に話したつもりのようだったが、その声にはありありと不安が含まれていた。
「恋人だ! この先にだれがいたって、変わるものか!」
たまらずミロの腕を引き寄せて、強引に手をつなぐ。
「……うん」
ミロも弱々しくだが頷いた。
ミロを動かしていたのは赤い紐への好奇心でも敵愾心でもなく、不安だった。
カノンの言葉と同じく、誰がいても心変わりなんてないと証明をしたい、カノンにして見せてほしいとここまで歩いてきたが、不安が募ってついにミロから零れおちたようだった。
「ミロ」
カノンが名前を呼ぶ。
これ以上こんなことをしていたくなくて、日暮れを理由に帰ろうと言うつもりだった。
だが、カノンが口を開く前に、ミロが立ち止まった。
「……あれ」
ミロがすっと先を指差す。人気のない路地裏。
ミロの十数メートル先。その先で――
紐はぷっつりと切れていた。
ずっと歩いて探し続けた赤い紐の先は、誰にもつながっていなかった。ただの紐の端があっただけだった。
二人で、地面に落ちている紐の端を眺める。
カノンは足元から地面が崩れていくような、絶望的な気分を味わっていた。
ミロに繋がっていなかったどころか、誰とも繋がっていなかった。
サガの陰に隠されて、誰にも己の存在を示すことのできなかった少年時代の記憶が、たった一人で過ごした海の底の孤独が甦って襲ってくる。
このまま死ぬまで、自分は一人なのだろうか?
かつて何度も繰り返したその自問が思い起こされて、息が詰まりそうになる。
「っは、ははは」
突然ミロが笑い出して、その声にカノンの心臓が跳ね上がった。
「なんだよ……」
何がおかしい? ミロはなんで笑ってるんだ?
理解できないと言いたげなカノンの顔を見て、ミロはごめんと笑いながら謝った。
「ごめん。でも、誰もいなくてよかったって、思って」
先ほどまでの緊張と不安から解き放たれたように、ミロは清々しい顔をしていた。
カノンとは大違いの表情だった。
ミロは紐の端を掴みあげると、それをぐるりと右腕に巻き付けた。
そうして固く結ぼうとするが、左手一本ではうまくいかず、何度かもたついた後にカノンの目の前に紐と右腕を差し出してきた。
「ほら!」
ミロは焦れたように、カノンの目の前で紐を振る。
「結んでくれ」
カノンは、差し出された紐を思わず手にとって、ミロの右腕と何度も見比べてしまう。
「誰にもつながってなかったのなら、俺につなげば良い……カノンさえ良ければ、だけど?」
答はわかっていると言わんばかりの視線で、ミロはカノンを見つめる。
カノンは小さく頷いて、手にした紐をミロの手首に巻きつける。
端を結ぶ瞬間、カノンの指先は微かに震えていた。
震える指先で何とか紐を結びきる。顔を上げると、ミロと目があった。
ミロが嬉しそうに笑って、紐の巻かれた右手をあげて見せた。
「これで、俺がカノンの運命の人だ」
二人の間に赤い紐が渡されていて、お互いの手首で繋がっている。
ほんの数時間前、ミロとの待ち合わせの前までは、こうなっていると信じていた光景だ。
「……良いんだよな? これで」
カノンが望んで、自らがミロの腕に紐を巻いたからこそ叶った今の状況に、今更ながら戸惑ってしまう。
今までの人生で、望んでも欲しがっても、手に入れられた物は極端に少なかった。
カノンの持ち物は、いらないと思っても半ば強引に押し付けられたか、無理やりに奪って手にしたものばかりだった。
初めからミロの腕に赤い紐が巻かれていれば、それは与えられた運命になるから、きっと気は楽だった。
ミロが手を差し出して、カノンが結んだことで繋がった赤い紐は、お互いが望まなければ得られなかった運命だ。
「当たり前だろう! いまさらなんだ」
カノンが欲しかったものを、ミロは事もなげに与えてくれる。
それがどれほどカノンにとって嬉しいことなのか、ミロはきっとわかっていない。
堪え切れない喜びにミロを抱き締めれば、ミロもカノンの背に腕を回して、子供をあやすように優しく撫でる。
「ミロ、愛してる」
普段は照れてしまって口に出せない言葉を、想いを込めて伝えると、腕の中のミロは少しだけ驚きながらも、嬉しそうに笑った。
「お前でなくちゃ嫌だ」
「俺も、カノンじゃないと嫌だよ」
「……お前でよかった」
「愛してるよ」
抱きしめていた腕を緩める。
いつの間にか赤い紐は、二人の間から跡形もなく消えていた。
「もう見えなくても良いってことか」
あっさりと言い切ったミロへ、カノンも笑顔で頷いた。
「そうだな」
路地裏の奥で、誰も来ないことを確認してから、カノンはミロにキスをした。
「紐が誰にも繋がってなくて、本当に良かったと思ったんだ!」
星が光りはじめている空を見上げて、ミロがしみじみと呟いた。
「誰かとカノンが繋がってて、カノンがその相手に一目惚れなんかすることがあったら」
ミロは笑顔でぐっと左の拳を握った。
「ぶん殴ってたと思う。その場で、カノンを」
「おいおい……」
そうならなくて本当に良かったと、カノンは引きつり笑いを浮かべる。
結局あの紐がどうしてカノンの腕にあったのか、本当は何だったのかはわからないままだが、もう二人にはどうでもいい事だった。
今日の事を思い返しながら、すっかり暗くなってしまった帰り道を、手を繋いで歩く。
カノンの左手と、ミロの右手。赤い紐で結ばれた手を握りあう。
人通りの多い市内が近づけば、さすがに手は離さないといけないだろう。
残念ではあるが、不安は感じなかった。
手は離しても、心はつながっているから。