「初恋? ……サガ、かな」
双児宮にミロを招いての夕食時、ふとしたきっかけで初恋の話題になった。
カノンがミロに話を振れば、少し考えた後にミロが答えたのが、サガの名前だった。
「…へぇ……」
カノンは必死に動揺を隠したが、返答できたのはこの一言だけだった。
まさか双子の兄の名前が、現在自身が絶賛片思い中のミロの口から出てくるとは、思ってもみなかった。
ミロは、自分がカノンに想いを寄せていることに、きっと気づいていない。
実際のところ、贖罪のスカーレットニードルで全身を穿たれたあの時、一緒に心までミロに打ち抜かれていたのだが、カノンはその想いを隠してミロと友人付き合いを続けている。
カノンが頻繁にミロを食事に誘ったり、休日を一緒に過ごしたがるのも、聖戦の最中で贖罪を与えて、黄金聖闘士として認めたおかげで懐かれたのだと、ミロはそう考えているようだった。
今は友人でも構わない。恋心を隠して、ただの友人として過ごす日々は、もどかしいながらそれなりの幸せをカノンに与えていた。
聖戦が終り、神々の力技のような奇蹟で黄泉がえり、こうして嘘のような第二の人生を授かってしばらく経った。
友人としての交流を始めてまだ日は浅いが、それでもミロの真面目さや純粋さはカノンも十分に知っている。
だからこそ、聞いてみたかった初恋の話題を振ったところで、ごく普通の幼い恋の話か、あるいは恥ずかしがって語ろうとしないのではないかと踏んでいた。
そのカノンの予想は見事に裏切られた。
「厳密に恋愛感情だったかと言われると、自信はない。ただ、覚えている限りで一緒にいると嬉しくて、突然いなくなった後はすごく悲しかったから……最初に恋しいと思った相手、という意味では、サガだな」
懐かしむような口調でミロが話す。
そんなミロを、カノンは夕食の皿に盛られたサラダをつつきながら眺める。
それから、今から十数年前、サガに初恋をしていたらしい、幼い頃のミロを思い出す。
正式に黄金聖衣を授かる前、候補の一人として修業地と聖域を行き来していたミロのことは、もちろんカノンも知っていた。
当時は、カノンをサガだと信じ込んで無邪気に懐いてくるミロは、どちらかと言えばうっとうしい子供だった。
ほんの数回だが、サガのフリをしてミロの遊び相手になってやった経験もある。
聖域の外れでのんびりしていた所をミロに見つかり、散々遊びに付き合わされて、あげく帰り道で疲れて眠ってしまったミロを、仕方なく抱きかかえて連れて帰ったことがある。
細い子供の骨格と汗の匂い、眠りながらもカノンの服をつかむ手の力が意外に強いことや、肩に押し付けられた頬の柔らかい感触、こちらが汗ばむくらいに熱い子供の体温に驚かされた。
幼いミロとの思い出は些細なことばかりで、こうして聖域に戻ってきてミロを意識しだすまで忘れていた程だった。
あの幼いミロに恋愛感情を抱いたことはない。そういった対象として意識したこと当もなかった。
こうしてすっかり立派な青年に成長したミロに恋心を抱いている今でも、あの頃に手を出しておけばよかったなんて、これっぽっちも思わない。
ただ、ミロの中ではカノンと過ごした事実も、すべてサガとの思い出なのだ。
「なぁ」
手にしていたフォークを置いて、カノンが口を開く。
ちょうど水の入ったグラスに口を付けていたミロは、目だけでなんだ? とカノンに問い返した。
「お前の初恋の思い出が、サガではなくて、俺との事だったとか……その可能性は考えないのか?」
「……」
ミロが水を飲み、グラスをテーブルに置く。
グラスから手を放しながら、ミロは体重を僅かに椅子に預けたようで、背もたれから小さく軋んだ音が聞こえた。
「考えたことはある。だがな、今思い返しても、思い出の中のサガが、サガだったのかカノンだったのかなんて判別できないんだ。それくらい俺は子供だった」
幼いころを思い出しながら話しているのか、ミロの声はこれまでカノンが聞いたことがないほど静かだった。
「だから、初恋の思い出は、みんなサガにしかならない」
カノンを見つめて、ミロはそう言い切った。
ミロの初恋の中に『カノン』はいない。
理解していたことだが、それは今のカノンにはとても寂しいことだった。
カノンは思わず、ミロの視線を避けるように自分の前に置かれた皿に目を落とす。
「……カノンは」
ガタリとミロが椅子を引く音が聞こえた。
うつむき加減だったカノンの視界の端、テーブルの上にミロが手をついたのが見えて、カノンは顔を上げた。
ダイニングテーブルの上に乗り出すようにして、ミロがカノンへ身を寄せていた。
突然距離を縮められて、カノンは驚きに身を強張らせる。
「カノンは、二度目の恋になればいいよ」
カノンの耳元でミロが呟いた。
肌に触れるか触れないかで感じたミロの息遣いと体温と、与えられた言葉がカノンを混乱させる。
動けないカノンからすぐに離れたミロは、赤くなった頬を隠そうとするかのように顔を背ける。
「……かえる!」
ミロは震える声で、逃げるように席を立つ。
慌てたせいか、先ほどまで自分が座っていた椅子に脚をぶつけて、派手な音を立ててしまう。
椅子の音を合図にして我に返ったカノンは、立ち去ろうとしているミロの後を急いで追いかけた。
「ミロ、帰らなくていい!」
「いや、無理、無理!」
恥ずかしがったミロは、顔を隠しながら双児宮を出て行こうとする。
追いついたカノンがとっさにミロの手首を掴めば、ミロは大きく体を跳ねさせた。
だがその手を振り払うようなことはなく、カノンに腕を引かれて歩みを止める。
それでもミロは頑なにカノンへ背を向けて、顔を見せようとしない。
「こっち向けよ」
「無理だ。恥ずかしくて顔向けできない」
カノンが手を離せば、ミロはまたすぐ逃げてしまいそうだった。
掴んでいるミロの手首は、驚くほど熱かった。
「今日は本当にもう、許してくれ……!」
懇願するようなミロの口調に、カノンもこれ以上はミロを引き留めておけないことを悟る。
「わかった。今日のところは、だがな」
カノンが手の力を緩めれば、そこからミロの手首がするりと抜けた。
「すまない……ありがとう」
ミロは安心したように一度息を吐いて、先ほどよりはゆっくりとした足取りで双児宮から出て行こうとする。
「ミロ、明日も会えるか?」
少しだけ遠くなったミロの背中へ、カノンが声をかけた。
「明日も、ここで今夜と同じ時間に待ってるから。ミロさえよければ、来てほしい」
カノンの言葉を聞いて、ミロが立ち止まった。
数秒ほど間をおいてから、ミロがカノンへ振り返る。
「……明日な!」
振り返ってこちらをまっすぐと見つめて、遠目でもわかるほどミロの頬が赤くなったのがカノンにも見えた。
そんなミロを愛おしく感じて、抱きしめたい気持ちになるが、カノンが近づこうとしたその前にミロは踵を返して走り去ってしまった。
あっと言う間に遠く小さくなったミロの背中を見送りながら、カノンは自分の頬が緩むのを抑えられなかった。
明日、絶対にミロを抱きしめようと誓う。
それからカノン自身の想いを告げて、その後に、何故今日はこんなに恥ずかしがったのかも聞き出そう。
幼かったミロを抱き上げた時のことを思い出す。
明日ミロを抱きしめるのはサガではなくて、当然サガのフリをした誰かでもない、カノンなのだと、そう思うと嬉しくなる。
こんなにも明日が待ち遠しいと思えたのは、生まれて初めてだった。
パラ銀13での無料配布本でした。
両片思いなカノミロを書いたのは多分初めてだったと思います。