膝を立てて座り、頬杖をつきながらリサイタルを眺める。聴衆はシンジ一人の特等席だ。……椅子はないが。
 メロウなピアノの音。こんな寂しい場所でも、こんな音を響かせられることに、シンジは驚いてしまう。白い指が白い鍵盤の上を軽快に滑る。二人で弾くのは楽しいけれど、ときには彼の弾くのをただ眺めるのも楽しいと思う。自分のたどたどしい指づかいとは全然違う。
「そんなことないよ。君はだいぶ巧くなった。きっと、センスがあるんだね」
「それこそそんなことないよ。……でも、もし、そうなってるなら、渚くんのおかげだよ。僕に合わせてくれるじゃないか」
 シンジははにかんで笑った。笑う、ということを、少しずつ思い出せるようになった気がする。目覚めたばかりのころは何もわからなかった。十四年が経っているなんてことも。もっともそれに関しては、知識として得ただけで、実感はまだ全く沸かないのだが――――空白の十四年は、一晩の夢のよう。全てが眠っている間に過ぎてしまった。
「君の演奏が合わせやすいんだよ。素直で伸びやかな、いい音だから」
「違うよ、渚くんが巧いんだよ」
「それなら僕の音を引き出してくれるのは君だよ」
「だからそれは渚くんが、」
 シンジは気付いて肩を竦めた。
「もうやめよう。きりがないよ」
 他愛ない掛け合い。会話。連弾。きちんとしたレスポンスがある、というのは安心する。話そうよ、と言ってくれたカヲルに、シンジは感謝していた。こんな風にほっとできる他人の存在は貴重だ。それはカヲルが、シンジに優しくしてくれるからだ、とシンジは思う。
「ねえ、渚くんはさ、どうしてそんなに優しいの」
「そうかな。僕はことさらに他人に優しいつもりはないよ」
「渚くんは優しいじゃないか」
「だとしたら、それは相手が君だからだよ。碇シンジくん。君にだけさ」
「じゃあ、どうして、僕に優しくしてくれるのさ」
 次に続く言葉を言うために、シンジは、心の中に溜まった勇気のゲージを消費する。愛されてこなかった自分を認めるものだったから。
「だって、誰も僕に優しくしてくれる人はいなかったんだ……。ねえ、渚くんは、どうして僕にそんなに優しくしてくれるの?」
 カヲルは納得がいったというように表情を変化させた。
「ああ、君は理由を知ることで安心を得たいんだね。僕の優しさが、いつか裏切られるのを恐れているから」
 びく、とシンジの肩が跳ねた。図星だった。裏切られ、離れていくのが怖いのだ。もしカヲルの優しさに理由があるのなら、自分は彼に優しくし続けてもらえるよう、その理由通りの人間であろうとするだろう。
「簡単なことさ」
 カヲルが微笑む。
「え?」
「好きな人に優しくするのは、とても簡単なことだよ」
 目を奪われるような笑みだった。


 ――――好き。誰かに好きだなんて、言ってもらったことないや。想われることは、ふわふわと心の中に綿菓子を詰められたような気持ちがする。慣れていないから、戸惑う。
「……」
 あごが湯について、シンジの顔はますます火照った。人のいない大浴場は開放的だが、しかし広すぎる。一人きりであることを実感してしまう。だが、ゲンドウや冬月と一緒に入れようはずもないし、カヲルを誘うのは躊躇われた。
「なにを、話していいのか、わかんない……よな」
 ぴたん、と前髪から落ちた雫が水面で音を立てた。
「変なの。……さっきまでは、くだらないことでもなんでもいいから、ずっと話してられたらいいなって思ってたのに」
 ということは、自分は、カヲルの告白が迷惑だったのだろうか? 多分、そうではないと思う。変わらないのが嬉しいと言ったシンジに、変化を求めないのは君らしいとカヲルは言った。きっとそれが、今回の答えに一番近い。カヲルの告白が、この心地のいい風呂の湯のような関係性に変化をもたらしそうな予感がして、それ以上踏み込むのを躊躇わせているのだ。今のままでいたい。今のままが、一番いい。
「……」
 ぶく、と水面に呼気の泡が弾ける。いつの間にか、シンジの顔は半分近くが湯の中に沈んでいた。熱い。ぼんやりとしていた視界が湯気のせいだけではなくますます白く霞んでいき、ぐるんと脳が裏返るような感覚があった。
 夢を見る。夢の中でさえ、夢を見ていた。その夢は、数の多寡はあれど、必ず人が死んでいく。大切な人たちが。あるいは顔も知らない人たちが。または守りたいと思った人が。
「同じことを何度も繰り返す」
 そして、自分は必ず、彼を死なせてしまうのだ。
「自分がいいなって感じられるまでね」
 幸せになって、なんて――――


「――――っ!」
 目を開いたが、気持ち悪くてすぐに閉じる。背中にベッドの硬さを感じた。少しずつ瞼を持ち上げて、焦点をゆっくりと合わせていく。
「大丈夫?」
 こちらを見下ろすように、カヲルがベッドに座っていた。
「のぼせたんだよ、君」
「……渚くんが、運んでくれたの」
「ああ。湯船でぐったりしていたからね」
「そっか……ごめん、迷惑かけて」
 自分が嫌になる。風呂でのぼせて倒れるなんて情けない。頭を押さえかけてふと気付いた。風呂場で倒れたというなら裸だったはずなのに、今の自分は服を着ている。
「着せてくれたのって、渚くん……?」
「そうだけど」
 うわあ。シンジは頭を押さえかけた手を、そのまま顔を覆うのに使った。みっともなさすぎる。
「なんだか、君にはおかしなところばかり見せちゃってるね……」
「気にしてないよ」
 それはそれでどうなんだろうか。自己嫌悪で身体を丸め、背を向ける。それでも、傍らにある気配が動かないことに安堵している自分がいた。拒絶するような真似をしているくせに、側にいて欲しいなんて勝手だ。
「水飲む?」
「ううん……いい」
「少し眠ったほうがいいよ」
「でも、眠りたくないんだ……このまま眠ったら、なんでだろう、嫌な夢を見るような気がして」
 小さな子どもみたいなことを言っている。自分でもそう思い、シンジは少し恥じた。渚くんはどう思っただろう……。彼の目に自分がどう映るかが気になってしまう。
「嫌な夢? どんな?」
「わからないよ……そんな気がするだけ」
 ややあって、カヲルがベッドから立ち上がった。
「そう。でも、体調が良くないなら、睡眠は取ったほうがいい。お大事にね」
 その瞬間、シンジは自分でも驚くほどの衝動を覚えた。行かないで欲しい。僕はまだ、言いたいことを何も伝えていない――――そうだ、お礼。お礼を言っていなかった。かけ布団を跳ねのけて、
「あ……!」
 ぱしん。軽い音がするほどの力で、シンジはカヲルの手を掴んでいた。
「あ……あの、」
 自分の咄嗟の行動に混乱し、慌てて手を離す。カヲルは全く動じず、きょとんとしている。
「なんだい?」
「あの……。……ありがとう。助けてくれて」
 シンジがおずおずと言うと、カヲルは「ああ」と遠慮がちに微笑んだ。
「たいしたことではないよ」
「そんなことないよ。渚くんが助けてくれなかったら、溺れて死んじゃってたかもしれないし……。渚くんのおかげで、死なずにすんだんだ」
「僕のおかげ?」
「そう。君は僕の命を助けてくれた、いわば命の恩人さ」
「そう?」
「そうだよ!」
 シンジは頷いた。いつの間にか身を乗り出して前のめりになっていることに気付き、驚く。そんなシンジを見て、カヲルは透明な微笑を浮かべた。
「……なら、君のお礼を受け取ろう、碇シンジくん。どういたしまして」


 人差し指だけで、鍵盤を押し込む。音に狂いのないのは、カヲルが調律をしているのだろうか。だって他に、そんなことのできそうな人間はいない。それに機械のことも、「ああそうだ。預かったもの、すぐ直りそうだよ」なんて言えてしまうのだから、きっとそうだ。
「すごいや、渚くんは。なんでも知ってるんだね」
「僕にあるのは知識だけで、経験じゃない。知らないことだらけさ。二人でピアノを弾くのが楽しいことも、二人で横たわって星を見るのが楽しいことも、知らなかった。君が教えてくれたんだよ」
 胸の中がくすぐったい。カヲルの瞳は、本気でそう思っているのだと伝えてくるから。シンジは目を逸らし、今度は黒鍵を押した。
「じゃあ、あのさ……夢を見ないようにするには、どうしたらいいと思う?」
「この間言っていたこと? まだ、悪夢を見るの」
「うん……。どういう夢だかは思い出せないんだけど、起きると、いつも汗をびっしょりかいてるんだ。顔が濡れてて、すごくすごく、不快なんだよ」
 ポーンと鳴らすように、カヲルの声が耳に飛び込んだ。
「……一緒に眠ってみる?」
「え?」
「他者の心臓の鼓動は、安心するというよ。君はきっと、辛いことが続いて緊張しているんだ」
 そこでふと、カヲルは表情を曇らせた。
「嫌かな」
 シンジは慌てて手のひらを振る。
「ううん、そんな! でも……、いいの?」
 そういえば、渚くんはいつもどこで眠っているのだろう。ピアノの前にいないときは、どこでどうやって過ごしているのだろう。
「構わないさ。君さえよければ、君の部屋に布団を運ぼう」


 二人用のベッドではないので、二人の少年が横になればもちろん狭い。掛け布団と枕だけが別々だ。寝がえりをうてば容易くぶつかってしまう。
「……ごめん」
「どうして謝るんだい?」
「だって、窮屈だろ」
「寝るのに不自由はないよ。それよりも、君はどう? 眠れそうかい?」
「うん……」
 目を閉じてみる。どうしてだろう、怖くない。ぼんやりとした暗闇の中で、隣の体温が、微かな息遣いが、命がそこにあることを教えてくれる。
「……渚くんはさ、こんな僕の、どこを好きになってくれたの」
 表情が見えない安心感が、シンジの心と口を開かせた。
「君は僕を好きだって言ってくれたけど、僕は、別に、エヴァに乗れるってだけで、あとは取り柄なんてないし……アスカみたいに頭がいいわけでも、綾波や君みたいにキレイなわけでもないし。お……男だし」
「僕もひとつ尋ねるよ。碇シンジくん。君は何がそんなに不安なんだい」
 シンジが振り返ると、カヲルの折り曲げられた人差し指が、ついとシンジの頬をかすめた。
「僕はずっと、君を見ていたよ。君の楽しそうな顔、嬉しそうな顔、辛そうな顔、悲しそうな顔、泣いている顔、怒っている顔、困った顔、拗ねた顔、呆れ顔、諦めた顔、絶望した顔、全てを見てた」
 それはまるで、包み込むような笑顔で、
「君が笑ってくれるのが、一番いい」
 どうしてだろう、そんな風に言ってもらったそばから、涙が出そうになった。
「いつも考えてる。どうしたら、君はもっと笑ってくれるんだろう。どうしたら、君を笑わせることができるだろう、って」
「君がいてくれなきゃ、笑えないよ……」
 それは言おうと思ったのではなく、勝手に心の中からこぼれ落ちた言葉だった。
「そばにいる。こうして、ずっと隣にいるよ」
「本当に? そんなこと言って、みんな離れていく。母さんも、アスカも、ミサトさんだって」
「僕を信じてくれないか」
 シンジは激しく首を振った。
「怖いんだ。また裏切られるんじゃないかって、怖いんだよ……!」
「君が僕の気持ちを信じられないのなら、僕は僕を差し出すよ。そうしたら、僕を信じてくれるかい?」
 言葉とは裏腹に、カヲルの指はおそるおそる、躊躇うようにシンジの指先に触れた。それからゆっくりと視線をあげ、シンジの目を見つめる。息を吸うように唇が重なった。
「君が好きだよ。こんな風に抱きしめたいのは君だけだ」
 ベッドの中、くるむように抱きしめられた。
「心の繋がりは、目には見えないから。安心したくて、身体という、目に見える形で繋がろうとするんだろうね」


 手探りの、たどたどしい愛撫。だがとても優しくされている。隣でずっと見ていたあのカヲルの指が、シンジの身体を撫でて開いていく。きっと今、ピアノを弾くよりももっと、愛情に満ちた指づかいで触れられていると思った。すごく恥ずかしい。どきどきする。こんなの、どうしていいかわからない。破裂しそうだ。大切にされるって気持ちがいい。
「つらくない?」
 問いかけに首を振った。縦だか横だかは自分でも判断がつかない。唇を噛むそばから解けていく。後ろからぴったりと身体が寄り添う。
「ぅ……」
 ひんやりと冷たい肌だった。上がりすぎた熱を下げてくれるようで、シンジは無意識にもっと触れ合わせようとしてしまう。けれども本当はそれが、さらに熱を上げる行為に繋がるのだ。
「っ……、ふ……」
「いいんだよ、我慢しなくて。素直に受け止めればいい」
「そん、なこと、言われても……っ」
「快楽に逃げるのは、悪いことじゃない」
 それは純粋にカヲルの優しさから出た言葉だっただろう。だがシンジは『悲しい』という感情でできた氷を飲まされたように、自分の血が冷たくなるのを感じた。
「……逃げてる、わけ、じゃないよ……」
 急に様子の変わったシンジに、カヲルが手を止める。
「渚くんは、僕が逃げたいから、渚くんとこんなことしてると思ってるの。そんな風に思って欲しくなんてないよ。したいと思ったから、してるんだ」
 どうすれば伝わるだろう。証明するように、自分から手を重ねた。与えてもらうばかりだった刺激を、積極的に拾おうとする。綺麗じゃなくたっていい、ぐちゃぐちゃになったっていい。自分の全部で繋がりたい。他人に対してこんな欲求を覚えるのは、初めてだった。胸が苦しい。涙があふれてくる。
「……シンジくん」
 彼の声が自分の名を呼んだとき、心の全てが彼に対してだけ向かって、世界に自分と彼の二人きりになったような気がした。瞬間、何かがフラッシュバックして。唇が震える。
「カヲル、くん……」
 シンジが振り向くと、カヲルはシンジの心を読みとったようにそっと唇を塞いでくれた。どこまでも優しいキス。なのにどうして、こんなに涙が出るんだろう。彼が好きだと言ってくれた笑顔を見せたいのに、うまく笑えそうにない。



 眠りに落ちて、夢を見る。
「思い出した。君を殺す夢だ。いつも僕が、君を死に追いやる。それなのに、君はどこか満足そうなんだ。君が死ぬ代わりに僕が生きていて良かったなんて言うんだ」
 眠っている想い人の首に手をかける。
「好きな人を、何度も何度も殺さなくちゃならなくなる、僕がどんなに不幸か、どうして君はわからないの――――カヲルくん」
 僕が君を好きにならなければ、君は死なずにすむんだろうか。

 そうしてシンジは、再び夢の中へと沈んでいった。