綺麗好きのソフィーが磨き上げた浴槽と床はぴかぴかだ。
ソフィーにはよくわからない何かの入浴剤の、花の香りがただよっている。
お湯は薄い白い煙を上げていて温かそうだ。
しかし、ソフィーは。そこへと踏み出せずにいる。
「ソフィー、いつまで待たせる気だい? 僕をのぼせさせるつもり? 早くおいでよ」
いつもあんなに長く入っているくせに、このくらいでのぼせるはずはないでしょうと思ったが、ソフィーは言い返さずに黙っていた。なにせそれどころではないのだ。
急かされても、こっちとしては、心の準備というものが。
けれどいい加減覚悟を決めないと、焦れたハウルが浴槽から出てきて無理にソフィーを引っ張っていきかねない。
それだけは、ちょっと。
ソフィーは自分を奮い立たせるように一度頷いた。
そしてそれから、おずおずとハウルの前に姿を現した。
――――しっかりと、タオルを身体に巻いて。
「……何それ」
肩透かしを食らって、あからさまにがっかりした顔でハウルが言った。
ソフィーはそれに気づかぬ振りをして、浴槽に手をかけた。
「まさかそのまま入るっていうんじゃないだろうね」
冷めた声で言われて、ぎくりとした。思いっきりそのつもりだった。しかしその手が使えないとなると。
「……タオルを取るから、あっちを向くか目をつぶって」
「やだ」
「二度と一緒に入らないわよ」
「……………………わかったよ」
しぶしぶといった様子で、ハウルが目をつぶる。
薄目を開けていないか注意しながら、ソフィーは巻きつけていたタオルを取り、すばやく身体を浴槽に滑り込ませた。
「もういいわ」
ようやくほっと安心する。
ソフィーとしては一緒のお湯につかっているだけでも結構気恥ずかしいのだが、ハウルはとても不満らしく、恨みがましい目でこっちを見つめてくる。
いたたまれないような気持ちになって、ソフィーは目を泳がせた。
入浴剤でお湯の色が濃くて良かった、とソフィーは思い、入浴剤なんていれるんじゃなかった、とハウルは思っている。
「こんなんじゃつまらないよ」
はぁ、とあてつけのように大きなため息をついて、
「あ〜あ。せっかくソフィーと楽しくおフロに入れると思ったのになぁ」
などとのたまう。
楽しくって……楽しくって、どんな風に楽しいのか聞きたくないわ!
まるで林檎のように真っ赤になった頬に、ハウルが濡れた手を伸ばした。
「もうのぼせたの? 美味しそうな色の頬になったね」
おおおおおいしそうってなに!?
確実に身の危険を感じたソフィーは後ずさろうとしたが、浴槽は広くないのでそれは叶わなかった。
それにもともと、肌が触れるのが恥ずかしくてぎりぎり端っこにいたのだ。
「ハッ、ハウル! 妙なことしたら、その棚にあるまじないをめちゃくちゃにしてやるわよ!?」
声はうわずって、ほとんど悲鳴に近かった。
「妙なことって――――」
ぐい、と引き寄せられる。
「こういうこと?」
顔から火が出るとはこんな状態を言うのだろうか。
ソフィーはハウルの裸の胸に抱きしめられて(ソフィーだって裸だというのに!)身動きもできずに硬直していた。
心臓がばっくんばっくんいっている。
水滴のついた髪の毛、首もと、胸板……ああ、直視できない!
ようやく搾り出した自分の声は、強がりのつもりで言ったのに、可哀相になるくらいかすれていた。
「……まじないがめちゃくちゃになってもいいのね?」
「かまわないさ。どうせしばらく黒髪を楽しんでみるつもりだし」
意外だったので、ソフィーは恥ずかしいのも忘れて顔を上げてしまった。
「どうして? あなたのことだから、またすぐに金髪に戻すのかと思っていたわ」
それからはっと我に返り、慌ててまた水面に視線をやった。
ハウルはソフィーを抱きしめたままくすくす笑ったので、ソフィーにその震えが伝わったし、お湯にも波紋が広がった。
「ソフィーの髪が星の色だから」
「え?」
「僕の髪は、夜空の色でお似合いかなと思ったんだよ」
くすくすくす。ハウルは機嫌も直って、今は心底楽しそうだ。
「もうっ、あんまり耳のそばでささやかないでっ!」
「ねえソフィー、夜空に星を混ぜてみる気は無い?」
「えっあ、……んっ」
ハウルの髪の毛が、ソフィーの髪の毛にくっつく。
けれどソフィーにはそんなの見えなかった。見えたのは、ハウルの長いまつげだけ。
なんだかんだあっておフロから上がった後、破裂しそうな心臓を抱えながら、もう二度と一緒になんて入るものですかとソフィーは固く誓ったのだった。
04.11.30