動く城のドアが叩かれて、来客を告げる。
「……来たな」
うんざりした表情でハウルが言うので、誰が来たのだろうとソフィーは首をかしげる。
玄関に行こうとするのを、手を振ってハウルがさえぎった。
「ああ、出なくていいよ! しばらく放っておけば諦めて帰るだろう」
「誰が来たの? お客様じゃないの? 出なくていいの」
「断じて客なんかじゃないね。来てなんて欲しくないし」
「……誰なの? あなたがそこまで言うなんて」
尋ねられたハウルは一瞬動きを止めた。
しかしすぐに何事も無かったかのように、再びにこやかに話し出す。
「いやだなあ、ソフィーが気にするようなことじゃないよ」
「つまりわたしに気にされると困るような相手なのね?」
ぴん、ときてソフィーはドアに近づいた。ノックの音はまだ続いているが、乱暴ではなくむしろ優しげな音だ。
「出なくていいって言ってるじゃないか! 悪いもの……そう、悪いものなんだ!」
「嘘おっしゃい。カルシファーは平気みたいだもの、それって大丈夫ってことなんでしょう」
ハウルに睨まれて、カルシファーは炎をすこし縮まらせた。
往生際悪くなおも後ろから聞こえる制止の声をソフィーは無視し、ノブに手をかける。
こんこん、と上品なノックの後、現れたのは隣国の王子だった。
ようやく開けてもらえた嬉しさからか、華やかな笑みでソフィーに挨拶した。
「こんにちは、ソフィー」
「あら、カブ……じゃない、王子! どうしたの」
「親しい友を訪ねるのに理由は要りませんよ。そう思いませんか?」
言いながら花束を差し出し、渡した。
「よく言うよ。懲りずにソフィーにアタックしにきたくせに」
「そちらもご機嫌はいかがですか、魔法使い殿?」
「さっきまで良かったけど、今は最悪だよ」
椅子に座っていたハウルが、身体ごとくるりと二人の方を向いた。
「だいたい、けちな花束なんて持ってきて。僕ならソフィーに地平線まで続く花畑をプレゼントするけどね」
「花はどれも美しいものですよ。ああ、でもこちらにはすでに美しい花が一輪咲いていましたね」
うやうやしくソフィーの手をとる王子に、ハウルの眉がぴくりと不快そうに上がる。
花を贈られて嬉しくない女性はいないだろう。……花粉アレルギー、とかならともかく。
「王子様ってずいぶん暇な職業なんだね。“わざわざ”こんなところまで遊びに来れるんだから」
「いえいえ、気ままな魔法使い殿には及びませんよ」
ソフィーを挟んで二人の男はまさに一触即発で、すごい火花が散ってるなあ、と同じ炎の化身であるカルシファーなんかは思うわけだ。
「待ってて、今お茶とお菓子を出すわ」
「おかまいなく……ああそうだ、挨拶を忘れていました、ソフィー」
「え? 挨拶なら、もう……」
不思議に思って見上げたその頬に、キス。
ハウルが「あぁっ!」とかなんとか後ろで叫んでいる。がたり、と椅子が不穏な音を立てた。
「お、王子?」
「わが国では挨拶にキスをするのが礼儀ですから。お嫌でしたか? 親しみを込めたつもりなのですが」
「い、いや……では……ない、けど」
ソフィーは頬を染めながら、ちらりと後ろを気にした。
前髪に隠されて彼の表情は見えないが、よもや闇の精霊を呼び出したりはしていないだろうか。
カルシファーの小さな悲鳴のような声が聞こえる。
背中がぞわぞわするのは、気のせいではないだろう。……できるなら気のせいだと思いたかったが。
ソフィーは恐ろしい考えにさっと青ざめた。
「ごっ、ごめんなさい、せっかく来ていただいたのに、実はこれから大事な用事があるの、また今度ゆっくり遊びにいらして?」
突然早口でまくし立てるソフィーに、王子はあっけにとられたのか、それともハウルの魔法の気配に気づいたのか、部屋の中へ踏み出しかけていた足を止めた。
「それなら残念ですが、また次の機会に」
「ええ、本当にごめんなさい、でもあの、ああ、早く帰ったほうがいいわ! 戦争になっちゃう!」
これ以上ここにいて、王子がまたカカシや、無力なひきがえるなんかにでもされた日には大変だ。
しかもそれがハウルの手でとなるとさらに。
はるばる訪ねてきてくれた友人、ましてや王子様に失礼だとは思いつつも、背に腹はかえられない。
ソフィーは自分の身体でさりげなく王子をかばいながら、追い立てるようにして彼を玄関まで戻し、別れの挨拶を言って戸を閉めた。
そしてようやく人心地ついた。
背中のぞわぞわもなくなったところをみると、どうやら危機は脱したようだ。
「もう、ハウル! 怖がらせないでよ!」
「……許しがたいね。僕のソフィーに僕の目の前で僕にあてつけるようにぬけぬけとキスするなんて」
かえるにされなかっただけ良かったじゃないか、と彼が言うのを、もう少し部屋から出て行くのが遅ければどうなってたかわかったものじゃないわ、とソフィーは思った。
「あなた、もう少し自制心ってものを学んだ方がいいわ。だいたいあんなの、ただの挨拶じゃないの。王子もそう言ってたし」
「そんなの、ただの口実さ」
ハウルは唇を尖らせた。
「次にやったら絶対にかえるにしてヒンと遊ばせてやる」
「……ハウルったら。そんなことしたら私出て行くわよ」
「どうしてソフィーはそう僕に意地悪なんだろう! 僕が可哀相だとは思わないの? こんなにキミに恋してるのに、ちっともわかってくれようとしないんだね」
「それだけ好き勝手して、あなたのいったいどこが可哀相なのか、こちらが教えて欲しいくらいよ」
「言ったね、じゃあ訊くけど、僕がキミの目の前で他の女の子とキスしてたらどう思う?」
ぐっ、とソフィーは言葉に詰まった。
もしハウルが、例えばどこかの王女様にキスされるとしたら。
それは嫌だ。そんなところ見たくなんてない。挨拶だといわれても気になるだろう。
さっきの自分は、ハウルにこんな気持ちを味わわせてしまったのか。
ソフィーの胸に後悔がよぎり、彼女は素直に己の非を認めた。
「うん、そうね、……そうよね。わたしも、悪かったわ……ごめんなさい」
「わかってくれればいいよ。これからは気をつけて。ところで」
「まだ何かあるの?」
こっちに来て、とハウルが招くのでソフィーは彼の傍らに立った。
ハウルは椅子に座ったまま、ソフィーを抱き寄せて自分の膝に乗せると、耳元でこう囁いた。
「これからただの挨拶のキスと、そうじゃないキスの違いを丁寧に教えてあげるよ」
04.12.02