お茶を出しに来たソフィーが見たものは、座っている王子とテーブルの上の一羽の……。
「……ひよこ?」
黄色い羽毛がふわふわのひよこが、ちょこんと乗っていた。
ひよこだ。つまりはにわとりのヒナだ。鳥だ。なんで突然ひよこ?
「ええと」
ソフィーは目をこすった。
どこからどう見てもひよこだ。ひよこ以外のなにものにも見えない。
むしろこれがひよこではないと言われたほうが驚くぐらいひよこらしいひよこだ。ひよこそのものだ。
ハウルの姿は無い。
……まさかそんなバカなこと、ねえ?
頭を振って浮かんだ考えを追い払おうとしたが、ハウルなら「そんなバカなこと」もありえてしまうから、ソフィーはそれを笑い飛ばせなかった。
何度見てもやっぱり部屋にハウルの姿は無い。代わりにいるのはひよこ。そして王子。
尋ねようとして王子を見ると、彼は困ったように苦笑した。
「何があったの?」
「彼が私に魔法をかけようとしまして。私は呪いをはねかえす道具を持っていたもので、かえった呪いがこんな風に……」
「ハウルをひよこにしちゃったっていうの? じゃあ、やっぱりこのひよこはハウルなのね!」
ソフィーは慌ててひよこを手のひらに包んで持ち上げた。
ひよこはソフィーをじっと眺めている。
あどけない瞳と、柔らかそうな羽の小さなひよこ。
実に可愛らしいが、悠長にそんなことを言っている場合ではない。
「ど、どうしよう、どうしたらいいの?」
「そうですねぇ……スープにでも入れて煮込みますか?」
王子は目を斜め上に泳がせた。
「冗談にしてもやめて! そうだわ、カブのときみたいにキスすれば戻るかも……」
半泣きになりながら、ソフィーはひよこを自分の顔の高さまで近づけた。
それを横から王子が自分の手の中に取ってしまった。
「何するの!」
驚いて見上げると、読めない表情をした彼がソフィーをじっと見つめた。
「そんなに彼がお好きですか」
「当たり前でしょう!? わたしは……わたしは、ハウルが大好きだから一緒にいるのよ。彼を愛してるわ。さあ、はやく彼をかえして、呪いを解くんだから!」
頬を染めながらも、きっぱりと言い切ったソフィーに王子は一瞬打たれたように息を呑み、下を向いた。
それから肩が震えだす。
ソフィーは困惑して彼を眺めた。いったいどうしたんだろう。
くつくつと音が聞こえたかと思うと、彼ははじかれたように顔を上げて大声で笑い出した。
「あははははは! 今の台詞、あいつにも聞かせてやりたかったなぁ!」
「な、何がおかしいのよ!」
ソフィーは怒って怒鳴った。
人が真面目に話をしているのに、不謹慎にもほどがありはしないか。
「ご、ごめんごめん」
彼は笑いすぎて目の端に涙が滲んでいた。それを指先でぬぐいながら、……指先?
ソフィーは気づいた。
彼の指に嵌められている指輪は、見覚えがありすぎるくらいある。
「まだ気づかない?」
いたずらっぽい口調はまぎれもない彼のものだ。
「……ひょっとして」
ソフィーがもう一度王子を見れば、そこにいたのはすでに王子ではなかった。
「ハウル!」
ソフィーは真っ赤になった。さっきすごいことを口走ってしまったような気がする。
そしてはたと気づいた。
ハウルが王子で、じゃあこのひよこは……まさか。
ソフィーが視線を移したのにつられて手元を見たハウルは、彼女の心配を悟ったらしい。
「ああ、これ? 安心して、これはヒンだよ。王子様じゃない」
ほぉっと力が抜けそうになったが、彼の言うとおりに安心するのはまだ早い。
だって、では王子はどこに行ったというのか。
「彼なら帰ったよ。国からの急な呼び出しがあって。強制的にお見合いさせられるらしいよ、お気の毒にね」
ちっともお気の毒そうじゃない言い方でそう言ってから、ハウルは朗らかに笑った。
ソフィーは今度こそ力が抜けてしまって笑えない。
まあとりあえず、ハウルが何かしたんじゃなくって良かった。
「せっかく来たのに、すぐに帰らなきゃならないなんて大変ね」
「彼もすごく嫌そうだったよ。……魔法の道具っていっても、色んな使い道があるよね」
とソフィーにはあまりわからないことをとても楽しそうに言う。
言いながら、ハウルは何かを思い出したらしく、再び肩を震わせながらくつくつと笑った。
あのとき、ポケットから出したばかりの水晶玉は、たちまち光ったかと思うと王子に帰還を命じたのだ。
ハウルに言わせれば「グッドタイミング」だったし、王子に言わせればその逆だ。
「それにしても、どうして王子に変身したり、ヒンをひよこに変えたりしたのよ」
「あれ、ソフィー、怒ってる?」
「当然でしょ! こんな悪趣味なイタズラされて、怒らない方がどうかしてるわ!」
「うん、ちょっとふざけすぎたかなあ。でも許してよ、僕だってこれでも随分我慢したんだから」
「何を」
ソフィーは冷たく尋ねた。まだハウルを許す気にはなれなかった。
彼は、どれほど自分が心配したかわかっているのだろうか。
「他の男の口から、自分の恋人の美点を聞かされるぐらい嫌なことは無いと思わない?」
「同意を求められても困るんだけど」
「だから僕としては、彼を鳥とか魚とかのスープの具にしなかっただけ偉いと誉めて欲しいってことさ」
ソフィーはすっかりむくれてしまって答えなかった。
実はその怒りも単なる照れ隠しだったりするのだが、それを教えて彼を喜ばせるのもしゃくだ。
自分の言ったことを思うと恥ずかしさで目が回りそうだった。いっそ忘れてしまいたい。
それなのにハウルときたら、この上なく嬉しそうにこんなことを言うのだ。
「でも今度あいつが来たときは、少しぐらい歓迎してやるかな。彼のおかげであんなに素敵な告白が聞けたんだしね」
けれどやっぱりきっと、次もソフィーは神経をすり減らすことになるのだろう。
恥ずかしいのをごまかすために真っ赤な顔でハウルをばしりと叩き、ソフィーは彼から奪ったひよこを手のひらにのせてキスをしたのだった。
「ああっ! そんなことしなくても僕が解いたのに!」っていう抗議なんて、もう知らないわ。
04.12.04