カルシファーが戻ってきて、再びハウルの城に命が生まれた。
 ソフィーはこちらをじっと見つめるハウルの視線に気づいて、彼に顔を向けた。
「さて、まずは髪を何とかしなきゃな」
「金髪に戻すってこと?」
 そりゃあ金髪も素敵だけれど、わたしは黒髪のハウルも結構好きなんだけどな。
 ソフィーがそう言うと、ハウルは笑って否定した。
「ああ、違う違う、僕じゃなくて、君の髪」
「え……?」
 彼は痛ましそうに目を伏せた。
 それは見るものになんとしてでもなぐさめてあげなくてはと思わせるような表情で、ソフィーの胸も例外なくどきりと打つ。
「カルシファーはなんて無粋なんだろう。君の髪の毛を炎の手でちぎって食べるなんて、信じられない」
 言われてソフィーは髪に手をやった。
 確かに随分と短くなってしまったが、けれどソフィーは気にしていない。
 ハウルを助けるためなら、自分の髪など安いものだ。
「だっておいら悪魔だぜ? 目を取らなかっただけ感謝してもらいたいね」
 カルシファーがひゅんひゅんと回転しながら飛ぶ。自由になれたことがよっぽど嬉しいのだろう。
 だがハウルはまるでそれを咎めるかのような目で睨んだ。
 心配になって、ソフィーは尋ねてみた。
「ハウルは短い髪は嫌い?」
「そんなことあるもんか! それもすごく似合っていると思うよ、でもね」
「でも?」
「カルシファーはこんなでも、炎なんだよ! ほら見て、先っぽが焦げてるじゃないか。せっかく綺麗な髪なのに」
 途中に「こんなってなんだよ!」との抗議が入る。
 ソフィーの手から髪の毛の先を奪って、ハウルはため息をついた。
 言われてみれば、ハサミなどで切るのとは違いぶつりと焼き切っただけなので、毛先は炎の熱でちりちりだ。
 ところどころ色が変わって茶色くなってもいる。
「平気よ、傷んだところは切ればいいんだし、髪なんかすぐ伸びるし」
 ハウルがあまりにつらそうな顔をするので、元気付けてあげたくてそう言った。
「そうか、じゃあ僕が切ってあげるよ!」
「え?」
 どうやら思った以上の効き目があったらしい。
 ハウルはたちまち嬉しそうに瞳を輝かせた。
 それを見てソフィーは嫌な予感に襲われ、言ったことをすでに後悔していた。



 小一時間後、ソフィーは大きな鏡の前に座らされていた。
 首から下にはぐるりとシーツがかけられ、服に髪の毛がつかないようになっている。
 鏡に映るのは、不安げな自分の顔と、うきうきとご機嫌なハウルの顔。
 ハサミを鳴らしながらソフィーの髪の感触を確かめている。
 別に美容師としての彼の腕が信用できないとか、切られるのが嫌だとかいうわけではない。
 ただ。
 ただ……。
「なんだか逃げたいのよ、いいえ逃げなきゃいけないのよ、今すぐ逃げろと誰かが言っている気がするわ」
「何か言った? ソフィー」
「ひとりごと!」
 ソフィーは慌てて誤魔化した。
 考えすぎよね、だいたい髪を切るのにどんな危険があるっていうのよ。
 ハウルのおしゃれ好きぶりを見るに、髪を切るのは上手だと思うし、大丈夫よ。
「じゃあ大人しく前を向いて。焦げた毛を切るからね」
 ハウルの両手がソフィーの姿勢を正す。ソフィーは素直にそれに従った。鏡の中の自分自身と目が合う。
 ……あなた、とっても弱気な顔してるわよ?
 くすりと笑ってみた。そう、笑いなさい、ソフィー。
 だから考えすぎだってば、髪を切るだけなんだから。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫、だいじょう……。
「きゃあっ!?」
 つ、と冷たい指先が首筋をなぞった。
「な、何するの!」
「何って、別に?」
 鏡の中の自分の頬はピンク色に上気していた。
 今のは絶対性的な意図を感じさせるような触れかただった、それなのに、当の犯人のハウルはしれっとしている。
 これは……嵌められた?
 ソフィーは自分の勘の鋭さを感心すると共に、今からでも遅くないと立ち上がろうとしたが、ハウルの手が肩に乗せられていて動けなかった。身体が動かないとすれば口を動かすしかない。
「や、やっぱりいいわ! 離して!」
 そしたらその瞬間全力で逃げるから。
「どうして?」
 ハウルはきょとんとして口にした。
「だってやらしいのよ!」
「いったいどこがいやらしいと言うのさ」
 ハウルはますますきょとんとして口にした。
 ――――ひょっとして、自覚がないの!?
「あなたの存在がやらしいのよっ!」
 ずばり言い放ったソフィーの声は、せっかく取り戻したハウルの心臓を突き刺したのかもしれない。
 ハウルはうつむいて、その顔は前髪に隠れてしまった。
 はっと我に返ったソフィーと、よろ、と身体をよろめかせたハウルとの間に気まずい沈黙が流れる。
 ……言い過ぎちゃった、かしら……。
 沈黙が長くなるにつれ、ソフィーはだんだん不安になってきた。
 ひょっとしたら、指の動きがいやらしく感じたのは、自分の気のせいだったのかもしれない。
 髪を掴もうとして、たまたま掠めただけかもしれない。
 自意識過剰ゆえの言動でハウルを傷つけてしまったのだとしたら、彼に申し訳ない。
 そう思ってハウルを見ると、彼の肩は細かく震えていた。
 もしかして泣いているのかもしれない、そんな、そこまでショックを受けるなんて!
「あの、ハウル……っ」
 謝ろうかと声をかけた瞬間、彼はおなかを抱えて笑い出した。
 ソフィーはあっけにとられて彼を見た。
「ハウル?」
「っ、くくくっ……あははははっ! は、はははっ! ソ、ソフィー……君、最高だよ!」
 ひどいことを言ったのに、誉められるとは思わなかった。
 ソフィーはなにがなんだかわからず、そのうちに彼はようやく笑いの発作を抑えつけた。
 再びこちらを見たときにはにやりと悪巧みの表情を作っていて、ソフィーの背をぞわぞわさせる。
「そっかー、ソフィーは僕をそんな風に思ってたのかー。それなのに、ソフィーの気持ちを裏切るなんて僕にはできないからね」
 いつのまにか、両肩を押さえる手にはがっちりと力が込められている。
 それだけじゃない、まるで接着剤かなにかで貼りつけられているように、身体が椅子にくっついている。
「あ、あなた魔法つかったわね!? っきゃぁ!」
 うなじに押し当てられる唇の感触に悲鳴を上げた。
「ねえ、存在がやらしいっていう評価をもらった場合、どこまですればその評価にふさわしくなれるかな」
 鏡に映る自分の顔、そのすぐ横にある彼の顔に向かって、ソフィーは大声で叫んだ。
「髪を切るだけにして!!」



04.12.06